2008年1月12日土曜日

「世間におもねる神」と「世間に挑戦する神」

この日記をカント読書録に終始させないために、別の話題も書いておこうと思いました。昨夜は少年補導員の仕事の後、新しく始まったばかりの「エジソンの母」というタイトルのテレビドラマの第一回を見ました。主演は伊東美咲さん。

母に育てられている子供が転校先の小学校で教師を質問攻めにする。「1+1はなんで2なの?」から始まって、いろいろ。クラスの子供たちは最初「こいつはバカだ」「バカだ、バカだ」とはやし立てるが、転校生なりの発想に基づく説明にだんだん納得させられ、「教科書に書いてある」とか「他の子たちのことも考えて」という理由で転校生の質問をまともに取り上げようとしない教師たちに子供たちが反発しはじめる。興味深く見ました。

「空気を読めない」「常識が足りない」などの言葉が子供たちのユニークな発想を妨げているかもしれない、将来の天才博士の芽をつぶしているかもしれないということへの反省を促そうとしてくれているのかなと、とりあえず受けとめました。

神学の問題も同時に考えました。現代の代表的神学者の一人A. A. ファン・ルーラーは、牧師や神学者の仕事を指して「余計なものとして生の外側に立っているように見える永遠の見張り番」と呼びました。今の言葉で言い直せば、牧師や神学者は「KY」の一種と見られても仕方ない存在であるということになるかもしれません。

しかし、ファン・ルーラーは、牧師や神学者はまさに「生の外側」から、「最初の問い」を諸学と世界に向けて「不断に投げかける」存在なのだとも言っています。なるほど考えてみれば「空気を読んで世間におもねる神」(?)には違和感が無くもありません。「常識にとらわれた世間に向かって常にラディカルに最初の問いを投げかける神」(!)のほうが、我々が現代神学を通して教えられてきた神です。

しかし、です。私は、ここで話を終えるべきではないだろうとも感じます。「世間におもねる神」(?)と「世間に挑戦する神」(!)は対立関係にあるのでしょうか。葛藤は当然あるでしょう、しかしどちらか一方が真理で、反対は誤謬であると常に判断しうるのか。事柄は単純ではなさそうだと、「エジソンの母」の続きに期待しながら考えさせられました。

木曜日に始まった「交渉人」(主演 米倉涼子さん)も見ました。今春は面白そうなテレビドラマが並び、久々にわくわくしています。

このように書くと、カントばかり読み、テレビばかり見ているのかと思われそうです。現代の牧師たちも、少しは「空気を読む」努力をしているのです、ということにしておきます。