2008年1月25日金曜日

それは「教義学的実践神学」でも「教義学の闘争理論化」でもない

今日は東京に行きました。日本キリスト改革派教会の一委員会の仕事をしました。重要な話し合いをしました。

明日の夕方も東京です。アジア・カルヴァン学会の運営委員会です。今年もまた忙しくなるのでしょうか。

さて、「実践的教義学」について書きながら同時に考えていたことは「教義学的実践神学」(dogmatische-praktische theologie)のほうはどうだろうかという問題です。

もちろんそういうのは十分ありうるものでしょう。そういうものを実際に見た記憶があります(そういうことを主張している本を見た記憶があるという意味ではなく、そういう調子の実践神学がどこかの教室で教えられていた場面を見た記憶があるという意味です)。

しかし、「教義学的実践神学」とは何かを考えはじめると、ぼんやりとではありますが私には余り興味を持てそうになさそうなものが心に浮かんできます。悪い意味での「独断論的(dogmatische!)実践神学」のようなものが。

そちらの方向に進んでいくならば、実践神学の自治性や固有性を阻害することになってしまうのではないかと危惧を感じます。

また「教義学的実践神学」と聞くとやはり、「教義学」のほうは純粋理論であるとみなされ、その純粋理論の実際的な応用が「実践神学」であるとみなされているかのようです。しかし、私の考える「実践的教義学」は、そのような旧来の固定的な思想の枠組みを打破するものです。

「実践的教義学」は、もちろん教義学です。しかし、その教義学は、現実世界から受ける影響やすべての不純物から浄化され精錬された真空の中にのみ成立しうる「純粋理論」というようなものではありえません。全く正反対です。

それではそれはどういうものか。ファン・ルーラーが好んで用いる表現を借りて言えば「庶民的生活感覚」(gewone levensgevoel)が、思索の奥深くにしっかりと組み込まれているような教義学です。御言葉の奉仕者が語る言葉、抱く気持ちの中にそのような生活感覚ないし感性がしっとり馴染んでいるようなところに生まれ出てくる教義学である、と言っておきます。「生活臭がする教義学」あたりが最も端的なキャッチフレーズかもしれない。

そういう汗臭そうなの、あるいは泥臭そうなのはご勘弁願いたい(そうでなくても抹香臭く、胡散臭いのに)と敬遠する向きがあることは、よく分かっているつもりです。

しかし「実践的教義学」と言っても、私に限っては、「実践」の名のもとにあって、緻密な理論と政略性を有するギラギラした「行動理論」(action theory)をかび臭い教義学の中に組み込むことによって、あるいはそのような「実践的行動理論を教会用語に翻訳すること」によって、社会的闘争の神学の構築をめざすべきであるというような過激なアクチュアリズムを主張したいわけではありません。

そのような作為的で計略的で全く押しつけがましく尊大で狡猾なやり方は、それこそ私の感性には全く合わないものです。そういうのは、どうか、今すぐにでもお引き取りいただきたいとさえ願っています。

私の求めている道は、もうちょっと穏やかで、公明正大で、正々堂々としていそうなものです。穏やかだけど、人の心の中の疑問や悩み、悲しみや嘆きを深く読みとる力を持っている教義学、のようなもの。個人と社会の現実の壁を乗り越える勇気と知恵をもった教義学、のようなもの。ずばり「これである」と表現するのは、とても難しいものです。