カントばかり読んでいるわけではありませんし、この日記は「カント読書録」として設けたわけでもありませんが、その時その時に関心を持っていることを率直に書くことが、日記を長続きさせる秘訣であると思っています。
カントが『純粋理性批判』等の中で繰り返し批判しているDogmatikerを「独断論者」と訳すことが正しいかどうかを考えています。ほとんど長年の伝統のようにみなされている学術的訳語に対して物申すことには勇気が必要です。
しかし、カントの時代的思想的背景や彼のキリスト教そのものに対しては好意的な理解を示していた事実などを鑑みるならば、いったんは(字義どおり)「教義学者」と訳すべきではないか。そしてその上で、事実上の「独断論」に陥っていた(この判断には賛否両論が認められるべきですが)「教義学」への批判をカントが行っていると考えるべきではないかと思うのです。
もしかしたらカントの念頭にあったかもしれない、近代哲学との対立関係にあったDogmatiker(教義学者)として思い当たるのは、デカルト哲学を異端視したことで知られるユトレヒト大学神学部の創始者ヒスベルトゥス・フーティウス(Gisbertus Voetius [1589-1676])とその後継者たちです。『啓蒙とは何か』などを読むかぎりカントがオランダの教会事情を熟知しつつ苦々しく感じていたことは明らかです(たとえばその中でカントは、オランダ(改革派)教会の中会(Classis)が所属教会の会員に信仰告白文書への宣誓を求めているのは不当であると述べています。『啓蒙とは何か 他四篇』、篠田英雄訳、岩波文庫、1974年改訳版、13~14ページを参照)。
当時のオランダ改革派教会の「信仰告白文書」とはベルギー信仰告白(別名「オランダ信仰告白」)、ハイデルベルク信仰問答、ドルト教理規準の三つのことです。
ヨーロッパのキリスト教史、とりわけ教義学の歴史を学ぶことのきわめて少ないわが国においてDogmatikerを正しく訳すことができないとしても、何の不思議も驚きもありません。