2008年1月24日木曜日

「実践的教義学」とは何か

教義学と実践神学の合体形としての「実践的教義学」(praktische dogmatiek)というものを考え始めたのは神戸改革派神学校で学んでいたときです。そこで得た体験は、教義学者による説教学講義でした。それは実に素晴らしいものであり、それまで学んできたいかなる説教学講義よりも優れたものであり、あらゆる面で他者を凌駕していました。そのとき私に判明したことは、全く単純な事実でした。すなわち、説教学は徹底的に教義学的基礎づけを必要としているということでした。あるいは、こうも言いうる。実践神学の一教科としての説教学はむしろ教義学の一項目としての「説教論」(leer van het preek/ doctrine of the preaching)であるべきであり、できれば教義学における「聖霊論」(pneumatologie)という大項目の内部に位置づけられるべきであるということでした。また、その後まもなく私はファン・ルーラーの研究に没頭しはじめるのですが、オランダ・アペルドールン神学大学の引退教授J. J. レベルのユトレヒト大学神学博士号請求論文『聖霊論的視座における牧会学―A. A. ファン・ルーラーの思索に基づく神学的レスポンス』(1981年)を読んで感動を覚えました。それによって、牧会学(牧会論)もまた教義学における「聖霊論」にこそ位置づけられるべきであるということが判明しました。さらに、宣教学(宣教論)についても同様のことがありました。やはりファン・ルーラーを題材にした学位論文であるJ. M. ファント・クルイスの『宣教運動としての聖霊―宣教論の今日的議論における改革派神学の役割と責任についての研究』(1997年)に触発され、宣教論が教義学的(聖霊論的)基礎づけをいかに必要としているかを認識しました。こうして私は、説教学、牧会学、宣教学といった旧来は実践神学部門の主要教科として知られてきたものは、すべて教義学の中に、とりわけ「聖霊論」の中に吸収されるべきものであると考えるに至りました。しかしまた、このように私が考えることで目指していることは、旧来の実践神学部門のすべてを教義学が吸収することによって実践神学的考察領域そのものの固有性や自治性を妨げることにあるのではありません。事態はむしろ逆で、教義学こそが、しばしば陥りやすい抽象性のすべてから解放され、本来有すべき「実践性」を回復することにあります。私が抱く単純かつ根本的な問いは、「教会の学としての教義学」(Dogmatik als Wissenschaft der Kirche)が、どうして説教や牧会や宣教といった教会の現場の具体的・実際的・現実的課題から切り離されて論じられてよいだろうかということです。また、実践神学は単なるハウツーに終わるものであってはならないとも思います。「聖霊論」は教会論を当然内包しますが、教会論に尽きるものではありません。「聖霊論」は内在的三位一体論(父・子・聖霊)と経綸的三位一体論(創造・贖い・聖化と完成)とを前提するものであり、とくに「創造」(Creatio)と「贖い」(Redemptio)のジンテーゼとしての「聖化と完成」(Sanctificatio et perfectio)のみわざを「聖霊」が担うという充当論的理解に立ちます。つまり、我々の聖霊論は、「聖霊」とは「贖いによる創造の本来性の回復としての再創造(recreatio)」を生起する三位一体の第三位格であるという理解に立つのです。その場合、聖霊のみわざによって「再創造」が生起する領域は教会の壁の内(intra muros ecclesiae)のみならず、教会の壁の外(extra muros ecclesiae)を含むことは明白です。そして「教会の壁の外」とは、言うまでもなく、「被造的現実」(created reality/ geschapen werkelijkheid)のすべてであり、換言すれば、神が創造された「世界」そのものです。こうして「聖霊論」とは教会論と(いわば)世界論とを併せ持つものであり、広大な視野を我々に提供するものであると説明することができます。その中に位置づけられる説教論、牧会論、宣教論の基本性格とはどのようなものでしょうか。私の考えはここでも単純です。教義学からいくぶん切り離されたところで論じられてきた従来の実践神学的説教学がしばしばその面に偏ってきたと私には思われる「教会の内から外なる世界へ」という(多くの場合《世俗主義批判》を帰結する)視線は、「実践的教義学」における「聖霊論」の思惟過程のなかでいったん反転され、「教会の外なる世界から教会の内へ」という(ある意味での《教会批判》をうながす)視線を正当な神学的考察対象として受け入れることができるようになります。牧会学、宣教学においても然り。このようにして、私の思い描く「実践的教義学」は、教会と世俗主義は常に対立しあい、罵倒しあい、憎み合うべきものなどではありえず、むしろ対話と協力の関係をこそ積極的に構築していくべきであるという(今日においては広く了解されている)事実を、論理的・神学的に示しうるでしょう。