2008年1月27日日曜日

ただちに制度を変えてほしいと願っているわけでもない

私が思い描く「実践的教義学」の構想、すなわち、教義学と実践神学との統合についての提案は、神学大学や神学部や神学校で営まれている「実践神学」の講座を廃止すべきであるとか、教師学科試験の科目から「実践神学」を除去すべきであるというような、現行制度の改変を要求しようとしているものではありません。そのような要求は、前述のとおり、時代の逆行を意味するものでありましょうし、現実のニードに反するものでしょう。しかしまた、この提案は実践神学に対する教義学の側からのチャレンジを意味していないかと問われるなら、「そういう意味もある」と答えねばならないと考えています。私自身は、主に20世紀という一時代において通用してきた実践神学的思索を全く支配してきたと思われる、非常に一面的な仕方でなされてきた「キリスト論的基礎づけ」はもはや不可能であると確信しているのです。この場面では名前を挙げてはっきり言うほうがよいと思っています。カール・バルトやディートリヒ・ボンヘッファーの説教学、あるいはエドゥアルト・トゥルンアイゼンの牧会学などは新しい時代の幕開けを機に終わりのときを迎えるべきであったということです。「実践神学のキリスト論的基礎づけ」のすべてが間違っていると言っているのではありません。それを一つの入口もしくは出発点にすることは大切なことでもあります。しかし今さら確認するまでもないことは、「キリスト論」(leer van Christus/ Christologie)は教義学の一全体の中の一項目にすぎないということです。教義学のすべてが最初から最後まで「キリスト論」一色であるわけではありません。教義学は「キリスト論」よりも広く大きいものであり、それは神学のすべてのみならず、「三位一体の神のみわざ」(opera Dei trinitatis)のすべてを視野におさめることを本旨としているものです。また、こうも言いうる。キリスト教は「キリスト論」よりも広く大きいものです。バルトが主著『教会教義学』などの中で繰り返し「キリストと関係ないような神学はキリスト教ではない」と述べていることは、完全な間違いではありませんが、あまりにも一面的で、狭すぎます。この問題について今ここで詳述することはできませんが、短く書き置くとしたら、そのようなキリスト論への一面的な集中は我々の認識を即事的(ザッハリヒ)なあり方から遠ざけるように機能してきた面もあると私は考えています。要するに、あらゆることをキリストの名に結びつけようとする人々が現れ、またしばしば強引なこじつけが行われてきたこともあるということです。しかしまた、そのようにしてキリストと結びつけられた現実についての解釈は、しばしば絶対的な意味を含ませようと意図されているゆえに、反論不可能なものにもされやすいのです。批判を許さないゆえに、反省も、そして反省に基づく改善も、起こりようがないのです。反対に、キリストとの関係に言及しないような言説のほうはキリスト者の生にとっては何の意味も関係もないものであるかのように判断されることもありえたということです。何か出来事が起こるたびに「これとキリストとの関係は何か。これとキリストとの関係は何か。これとキリストとの関係は何か」と、いつも考え込む。その思索と瞑想の中で得られた「キリスト論的認識」(Christological knowledge)というべきただそれだけが(いわば)絶対的な真理であり、それ以外の認識については(絶対的なものの前では価値を持たない)相対的な真理であると判断されることがありえたということです。バルトやトゥルンアイゼンやボンヘッファーたち自身はもっと広い認識や判断力を持っていたに違いないのですが(彼らの神学思想に心酔するあまりこの神学者たち自身の弁護をしようとするファンクラブ会員のような人々との論争に勝てる自信はありません)、彼らの書物を繰り返し熟読し、それに心酔することによって「視野が狭くなった」人がいると、私には思われてならないのです。しかし、ここまで来ると余計なお世話の域に達してしまっているかもしれません。私の「実践的教義学」の構想が現在の実践神学へのチャレンジを意味していること自体は否定しませんが、何らかのレスポンスをしていただけるのか全く無視なさるのかは実践神学の人々の自由です。彼らの尊厳は何ら毀損されるべきではありません。ただ、彼らの姿をやや遠目に見ておりまして、今の実践神学は基礎づけの根本的な差し替えが必要ではないか、そのようにしないかぎり、彼らの将来はどんどん先細っていくばかりではないかと感じて心配しているだけです。しかし繰り返し申せば、私の主張の意図は実践神学の講座を廃止すべきであるとか教師試験科目から実践神学を外すべきであるということではありません。仮にそのような制度変更の提案ができる日が来るとしても、私の見方では、22世紀頃ではないかと思っています。