2008年1月13日日曜日

「宣教と経済」

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使徒言行録16・16~24(連続講解第41回)



日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康





今日お読みしました個所の出来事が起こった町の名はフィリピ(12節)です。フィリピではすでにリディアがパウロの話を聴いて信仰に導かれ、家族と共に洗礼を受けました。ですから、今日の個所に登場するのは、パウロたちがフィリピに来て二番目に出会った、特筆すべき人物であるということになります。



その人は「占いの霊に取りつかれている女奴隷」と呼ばれています。この女性もまた、パウロたちとの出会いの中で一つの救いを体験いたしました。次のように記されています。



「わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。『この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。』彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。『イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。』すると即座に、霊が彼女から出て行った。」



この女性に取りついていた「占いの霊」とはどのようなものであったかについて分かることを申し上げておきます。原文には「ピュトンの霊」と記されています。ピュトンとはギリシア神話に登場する蛇の名前です。この蛇はデルフィ(デルポイ)という名の神託所を守護する存在でしたが、アポロンという名の神によって殺されたと伝えられています。アポロンによって殺された蛇の霊が「占いの霊」です。



そして、その霊に「取りつかれている」この女性が占いを語る方法は、口を動かさずに語る、いわゆる腹話術でした。つまりこの女性は、腹話術を使っていろんな占いの言葉を巧みに語っていた人であると考えることができるのです。



しかも、ここに二点とても気になることが記されています。第一はこの女性が「女奴隷」として紹介されていることです。第二はこの女性が「占いをして主人たちに多くの利益を得させていた」と書かれていることです。この二つの点は当然互いに関係し合っています。考えてよさそうなことは、この女性は、主人たちの奴隷として金もうけをさせられていたのであり、おそらくその金銭収入はもっぱら主人たちのものとされるのであり、彼女自身にはほとんど得るものはなかったであろう、ということです。無理やり仕事をさせられ、収入はすべて巻き上げられ、挙句の果てに捨てられる。そのような、考えてみればとてもかわいそうだとも言いうる存在、それが今日の個所に出てくる女性です。



この女性に対して(より正確にはこの女性に取りついている「霊」に対して)パウロが語った言葉は、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」というものでした。すると、即座に霊が彼女から出て行くという出来事が起こりました。これは文字通り霊が出て行ったのだと考えるべきです。しかしまたそのことが同時に意味することは、この女性は、もはやそれ以上、主人たちのもとで腹話術師として働くのをやめたということであり、また、はっきり言えば、人をだます占いの言葉を語るのをやめたということでもあるわけです。



つまり、この女性に起こった出来事の本質ないし核心は、彼女の奴隷状態からの「解放」です。また、人をだまして金もうけをしようとする罪と悪の力からの「救出」です。この意味での「解放」と「救出」こそが救いです。そのような出来事がパウロたちとの出会いによって、そしてイエス・キリストの福音を宣べ伝える彼らの言葉によって、彼女の身に起こったのです。



しかし、この女性がその仕事をやめたとなりますと、少し心配な面が出てきます。それは、この後この女性はどうなったのだろうかということです。主人たちに殺されるのではないだろうか、殺されるまでは行かなくても相当痛い目にあわされるのではないだろうかと考えざるをえません。どこかに逃げることができたのか、それともパウロたちの仲間に加わり、彼らの庇護のもとに置かれる存在になったのか。いずれにせよ、この女性の身柄は安全な場所に保護されないかぎり、大きな危険にさらされたであろうことは、ほぼ違いありません。しかし、そのあたりのことは、残念ながら何も記されていません。



むしろ、ここに記されているのは、この主人たちが腹立ちまぎれに向けた攻撃の矛先はパウロたちであったということです。



「ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。」



ここにたしかに記されていることは「金儲けの望みがなくなってしまった」ということです。ですから、この女性が占いをやめたという点は、確実に言いうることです。そして主人たちは、彼女が占いの仕事をやめるに至った原因は、パウロたちキリスト教の連中が来たことにあると見て、逆恨みした。つかまえて役所に連れて行った。これが今日の個所のあらすじです。



これを読みながら、いろいろ考えさせられることがあります。何よりもまず思うことは、この主人たちはこの女性を働かせて得る収入だけで生きていたのだろうかということです。自分たちは遊んで暮らしていたのだろうか。もしそうだとしたら、かなり問題のある人々であったと考えざるをえません。



あるいは、あまり乱暴にあるいは断定的にあれこれ言ってしまわないで、もう少し丁寧に考えてみる必要があるかもしれません。デルフィの神託所は、今でもそうだと思いますが、町の観光名所でした。日本でいえば、古来の神社仏閣のようなところです。そして、この女性はまさに神のお告げを語る巫女でした。彼女はそれなりに訓練を受けていた可能性があります。他の女性あるいは男性では簡単に替わることができない特別な訓練を受け、能力を与えられた人であった。その訓練にもそれなりに費用がかかった。その人が突然、仕事をやめた。我々のこれまでの苦労が水の泡だ、という思いが主人たちの心に起こった。そのように考えてみることができるかもしれません。



そして、私はまだ、パウロたちの側が彼女に対して行ったことの詳しいところは述べておりません。17節以下に書かれていることです。この女性が、パウロたちの後ろについて来て、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫んだ。それを何日も繰り返すのでパウロとしては「たまりかねて」(18節)、先ほど紹介しました言葉、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」とパウロのほうも、おそらく大声で怒鳴りつけたのです。



以前私はこの使徒言行録の学びの中で「パウロ先生はすぐ怒る」ということをいくらか批判的な観点から申し上げたことがあります。おそらく思い起こしていただけるはずです。何かあると、すぐに腹を立て、大きな声で怒鳴りつける。向かう相手を威圧する。けんか腰で語る。そのようなパウロの怒りっぽい性格と、第一回伝道旅行の際パウロとバルナバの助手として同行したヨハネ・マルコが伝道旅行の途中でエルサレムに逃げ帰ったこと、その後もパウロと行動を共にしなくなったこととは、もしかしたら関係あるかもしれない、とまで申し上げました。



女性が言っている「この人たちは、いと高き神の僕で、救いの道を宣べ伝えている人々です」という点は、でたらめではなく、事実ではありませんか。事実を事実として言っているだけです。もちろんたしかに、同じことを何度も繰り返し言われたり、ところ構わず大声で叫ばれたり、どこにでもつきまとわれたりすると、気の短い人なら、いらいらして怒鳴りつけるかもしれません。そう、おそらくパウロは、とても気の短い人だったのです。



この女性が、その後どうなったかについては何も書かれていないと、先ほど申しました。「占いの霊が彼女から出て行った」という点は、記されていることですので確実に言えることです。しかし、「パウロたちの仲間に加わった」とも書かれていません。大声で怒鳴りつけられた人の仲間になろうと思うでしょうか。パウロのやり方には何の問題もなかったと言えるでしょうか。伝道とは怒鳴りつけることでしょうか。こういうことも、タブーにしないで、一つ一つ丁寧に考えてみる必要があると思います。



しかし、それらのことをよく考えてみた上で、やはり最も大きな問題は、パウロたちが結果的に町の人々から嫌われ、捕まえられ、役所に連れて行かれることになってしまった真の理由ないし原因です。それは、事実として、パウロの語った言葉によってこの女性が占いの仕事をやめたことによって「金もうけ」ができなくなったこと、すなわち「経済的損失」を被る人々が現れた、ということです。



これは、パウロたち自身の意図するところではなかったはずです。つまり、パウロたちは、その町の人々が、あるいはその中の特定の人々がどのような仕方で収入を得ていたのかというあたりの詳しい情報を知り抜いた上で、故意に、あるいは意図的に他人の不利益を生じさせるように立ち回ったわけではなかったはずです。すべては結果として生じたことです。いわば、全くのとばっちりを受けたのです。



しかし、逆の方向に考えてみますと、そのような機会にこそ、パウロたちは、おそらく非常に多くのことを学んだに違いないとも思われるのです。わたしたち人間たちは、経験をとおしてさまざまな学習をする存在です。パウロたちも人間です。旅先で遭遇するさまざまな出来事、またその中でいろんな痛い目に会うたびに彼らが学んだであろうことは、彼らが宣べ伝えているイエス・キリストの福音は、結果として、思わず知らず、社会的に大きな影響ないし波紋を呼び起こすものでもあったのだ、ということです。



一人の人が救われ、洗礼を受け、教会員になる。信仰生活を始める。それによってその人自身は喜びと感謝の生活を始めることができるでしょう。しかしまた、それによって、別の人々のもとには不利益が生じることがありえます。その人々の不満や激怒、さらには攻撃や迫害の原因を、わたしたちのキリスト教信仰そのものが生み出すことがありうるのです。「その結果がどうなるかなんて、全く分かりませんでした」と言うだけでは済まされない問題もある、ということです。



しかし、です。今申し上げていることを私は、「だから伝道などすべきではありません。洗礼を受けることも教会生活を始めることも、できそうにもありません。そのようなことは現実的には不可能です」というような意味で言っているわけではもちろんありません。そのようなことを、この私が言うはずがありません。事実は正反対です。わたしたちには“結果責任”までとる必要があると申し上げているだけです。



わたしたちの伝道と受洗と教会生活の開始によって不利益を生じる人々がどこにおり、その人々がどのような感情を抱き、どのような反応を起こすかということを、あらかじめ十分かつ徹底的に考え抜く必要があると言っているだけです。



そして、その人々に対してできるだけ丁寧に説明し、理解を求めることが必要であると言っているだけです。



何を言っても全く理解していただけない場合があります。その場合はどうするか。



洗礼を受け、信仰生活を始めるのを思いとどまれとは決して言いません。そうではなく、そのときから始まるあらゆる試練を覚悟し、腹をくくる必要があると言っているだけです。



イエス・キリストが「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(マタイ10・38、ルカ14・27)と言われたとおりです。



(2008年1月13日、松戸小金原教会主日礼拝)