2008年1月15日火曜日

家族との時間

今日は休日(成人の日)、家族で「イオン」に行きました。家族で、と言っても息子は友人たちと別行動でした。休日までカントは読みません。聖書も読みません。神学書も読みません。新聞もニュースも見ません。携帯電話は一応持って出かけましたが、自動車の中に置きっぱなしでした。そういう日があってもよいと信じています。しかし、です。私という人間はなんと哀れで面白味のない人間なのでしょう!「イオン」での私の行き先は書店、そして買ったのはカントの『純粋理性批判』(岩波文庫)の下巻でした。学生時代には間違いなく買ったはずなのですが、この一冊だけが見つかりません。学校を卒業して以来とにかく引っ越しばかりしていましたので、どの時点かは分かりませんが、失われてしまったようです。帰宅後は結局、メールが気になってパソコンを開き、ニュースを読み、テレビのスイッチを入れ、いろんなことが気になりだしました。昨日の説教で自分が語ったことが気になり、聞きながら難しそうな顔をしておられた方の姿を思い起こし、それではどう語れば納得していただける言葉になりえたのだろうかと考えはじめる。聖書を開き、昨日の説教原稿を読み直し、教会員一人一人の姿と状況を(祝福と平安を祈る思いの中で)確認する。それと共に、繰り返し読んできた神学書のあの言葉、この言葉を思い起こす。買ってきたばかりのカントの本も開いてみたくなる。「篠田英雄訳」という検索語でネットを調べてみると「誤訳が多い」だの「読みにくい」だのとさんざん叩かれてきたものであることを知る。出版や学者の世界のことは私のような一般人には知る由もありませんが、自分たちの翻訳のほうが優れていると主張したいがために(という動機が見え隠れする)、先人の取り組みをめちゃくちゃに批判し、読者の関心を自派の出版物のほうへと誘導していく(ように感じられる)やり方は、なんとなくえげつないし、いやらしい。加えて、「篠田訳」を叩いている人々が「あちらよりもこちらのほうが正確で読みやすい」と勧めている別の訳本は、価格を調べると、だいたいどれも「篠田訳」よりも割高であるという点も気になります。割安ならば「買ってみようかな」と動く食指もあるのですが、なんとなく言葉巧みに割高なほうへと誘導されているように感じると(現場の事実はそのようなものではないのかもしれませんが、部外者がその文面から率直に感じるところを言えば)急に興ざめするものがあります。「誤訳叩き」など、それこそ誰でも(私でも)できることです。篠田英雄氏に対して何の個人的な恩義も関係もない人間でありながら、自分が金を払って買った本が多くの人々からこっぴどく叩かれていたことを知ると、心底嫌な気分にさせられます。こうして結局、休日もいつもと同じようになっていく自分自身に気づかされます。「もう少し人生を楽しまなければ」と思い、書店で『フランス風家庭料理の作り方』などをパラパラめくってみましたが、「無理!」とすぐ閉じてしまいました。家族との精神的な距離をうまくとれる人が、うらやましいです。今年は「家族との時間」について真剣に考えてみたいです(「考える」だけに終わるかもしれません)。