2008年1月14日月曜日

日曜日の仕事

この日記は、原則として毎日書くことにしました。三日以上日記を続けることができたためしがない人間による、新たな挑戦です。と思っていたら、昨日はさっそく書くことができませんでした。パーフェクトに毎日書くのは無理のようです。

日曜日が最も忙しい職業です。日曜日だけ牧師をするというわけではなく、毎日牧師をしています。牧師でない日は、(引退するまでは)一日もありません。「『日曜日の人』と言われることを恥と思うな」と学生時代に教えられた言葉を励みに、この仕事を1990年から続けてきました。

いまだに大真面目な顔で(そしておそらく善意の様子で)「牧師さんて、『お仕事』はしておられないんですよね?」と訊ねられることがあります。私が「牧師の仕事」という言葉を発すると、「『仕事』ではない。牧師の場合は『奉仕』と言うべきである」と、(ちょっと怖い顔で)わざわざご丁寧に正してくださる方にさえ実際に出会ったことがあります。何をおっしゃりたいのかはよく分かりませんが、これを私は間違いなく「仕事」であると捉えていますし、わざわざ「仕事でなくて奉仕」などと正される筋合いにはないし、「牧師は仕事をしていない」とか言われると、「何を言ってやがる」と憤懣やるかたない思いになります。

プロバイダとの契約やネットの通販を利用する際に申込者の職業を明かすことを求められる場合がありますが、とくに国内のサイトの場合、プルダウンメニューやボタンの中に「牧師」という選択肢を見つけることは皆無に等しく、やむをえずいつも「その他」を選択しなければならないことを、なんだかとても不愉快に思っています。「そっかー、オレたちって、『その他』なのかー」と、不幸な現実を突きつけられて、がっかりします。

「サラリーマン牧師」という極めつけの言葉を聞くと(関口はそうであるという意味で、私に面と向かってこのようなことをおっしゃる方に出会ったことは一度もありませんが)、私自身はうれしくなりますが、通常サラリーマンと呼ばれている方々に対して失礼な言い方に思えて申し訳ない気持ちになります。「サラリーマン」がなぜ批判的な意味で用いられるのでしょうか。そのような言葉の背景にどのような哲学があるのかが気になります。

牧師たちは汗も水も流していないとでも思われているのでしょうか。ぞっとするような誤解です。私がしていることは間違いなく「仕事」です。十分な意味で、汗も水も流して(または「たらして」)おります。

我々が「職業としての牧師」であることに徹すること、すなわち、我々がこの仕事の専門性を徹底的に追求していくことは、長い目で見ると教会の信頼性を高めることにつながります。それこそが、牧師たちが社会と教会にとって真に役立つ存在になっていけるための道であると信じています。