2008年1月30日水曜日

どちらが人に優しいか

昨日は松本零士氏的な擬音を用いて言えば「ドテポキグシャ」な体験を書きました。あのときは、正直死ぬかと思いました。22年経った今でも、白いトラックの金属部分(巻き込み防止用バーです)が右脇腹に激突してきたあの瞬間の恐怖を、昨日のことのように覚えています。しかし、「破門」と「事故」との間に直接的な関連性があると、私自身が考えているわけではありません。不幸というものはしばしば、まるで追い討ちをかけられているのではないかと感じられるほどに連続的に起こるものである。それがどうやら我々の体験的現実であると、それくらいのことは一応考えています。しかし、私が考えることはそれ以上のことではないしそれ以下のことでもありません。それとも私は、この場面でこそ「それは神の摂理であった。すべては神の予定であった」というような言葉を発するべきでしょうか。改革派教義学(dogmatica reformata)を土台とする「実践的教義学」はそのような短絡的な結びつけ方をあまり快く思わないところがあります。そのような短絡的な言葉づかいを耳にするたびに、それは第三戒違犯、すなわち「主の名をみだりに唱える罪」ではないのかと思われて仕方がありません。「予定論」(praedestinatio Dei)や「摂理論」(providentia Dei)はなんら万能教義ではありません。それらはモーセの十戒、とりわけ「道徳律法」(lex moralis)によって規制される必要があります。カルヴァンもツヴィングリもブリンガーも、ハイデルベルク信仰問答の作者やウェストミンスター信仰規準の制定者たちも、第二次宗教改革の教義学者たちも、そして近現代の改革派教義学者たちも、「予定論」や「摂理論」は絶対的で不動の教義であるが、「道徳律法」は相対的で可動的な(不都合が生じた場合は撤回可能な)教説にすぎないなどというような(不道徳への逃げ口上を助けるような)悪しき二元論を教えたことはありません。前者も後者も同様に等しく重んじられるべき意義と価値を持っています。そして、「現実の人間との近さ」という観点をもって見るならば、後者(道徳律法)のほうが前者よりも「人間に近い距離にあること」は明らかです。心や体に傷を負った人の前で「破門は神の摂理である」とか「事故は主の予定である」などと(無遠慮に)語ることと、「主の名をみだりに唱える罪」を犯さないように不断の注意を払うこと。そのどちらが「人に優しいか」という問いを真剣に考えてみるべきではないのかと、「実践的教義学」は、私に強く問いかけてくるのです。