2008年1月11日金曜日

哲学と神学

『純粋理性批判』を毎日少しずつ読んでいます。読みながらともかく感じていることは、カントの時代はある意味で幸せだったようだということです。

どういうことか。カントの時代においては、数学や物理学、あるいは言語学や心理学といった諸学がそれぞれの自治権を主張して独立していく前の、いわばそれらすべてがごちゃ混ぜで混とんの中にあるような、その意味でプリミティヴな思索を一個の統一した(?)「哲学」として提示できたようだということです。

今日のような「理系」と「文系」の区別もない。よく言えば両刀使いでバランスがとれている。悪く言えばどちらも中途半端。スペシャリストというよりはジェネラリスト。事柄を広く浅く、そして大づかみに知っている蘊蓄人間。

カント自身がそういう人物であったに違いないと言っているわけではありません。提示されている「哲学」の性格がそのような人間の教育を目指すものであるように思われると言っているのです。

また、悪い意味で言っているのでもありません。むしろ、うらやましい。関心や能力において極端な偏りがあるエキセントリックでアンバランスな人間(たとえば私)よりもはるかに周囲の信頼を得られそうな人間像を期待できます。

しかしその上で感じることは、現代の「神学」との決定的な違いです。現代の「神学」は、言うまでもなく、もはや「諸学の女王」(regina scientiarum)ではありえません。それどころか、今や、神学者にして説教者である人自身が、自分の仕事を指して「余計なものとして生の外側に立っているように見える永遠の見張り番」(A. A. ファン・ルーラー)であると語るほどになっています。要するに我々の存在と仕事はこの世界の中では役立たずの無用の長物のように見えるだろうということを、現代の神学者たちは強く自覚しているのです。

しかしこのことをファン・ルーラーは自嘲や謙遜として言っているのではありません。我々は「永遠の見張り番」として「まさに根本的に生きている」のであり、「庶民の生に可能なすべての事柄に首を突っ込む」存在であると言っているのです。

また、現代においてはもし「神学」と「説教」が物知り博士の知識の披瀝のようなもの、さらには、諸学と人類にとっての「最後の答え」のようなものになってしまっている場合には、もはや、根本的かつ致命的な間違いを犯しているとみなされます。なぜなら、「神学」こそが、あるいは「説教」こそが、諸学と人類に対して「最初の問い」を不断に投げかけ続けるべきものだからです。

神学と説教の発する問いに、哲学と諸学が答えるべきです。そう、強いて言うならば、「世界の外にある神」の発する問いに、「神の外にある世界」が答えるべきです。三位一体の神は、なんら「答え」ではなく「謎」そのものです。