「神の外にある世界」(アウグスティヌス)と「世界の外にある神」(カント)の両者はいずれにせよ何らかの関係にあるという点までは、(懐疑論者でないかぎり)神学者と哲学者の間で一致していると見てよいのではないでしょうか。しかし、カントは「神の存在証明=自然神学=一般啓示論」を否定し、またその路線を現代神学者カール・バルトが受け継ぎました。
ただし、カントの場合はいわゆる《上からの哲学》としての「啓示の哲学」(Wijsbegeerte der openbaring/Philosophy of Revelation、ヘルマン・バーフィンクの表現)のような立場はとらないはずですから、《下からの哲学》としての「人間学」をひっさげて、理性の限界まで昇り詰めて行く他はない。他方、バルト以後の現代神学者たちは、《下からの神学》に逆戻りすることには大いに躊躇がある。《上からの神学》にとどまりながら(自然神学による解決を避けながら)、世界と神の相互関係を適切に評価する道を探っている段階にあると言ってよいでしょう。
たとえば、20世紀中盤に活躍した「バルト後の改革派教義学者」アーノルト・A. ファン・ルーラー[1908-1970]は、おそらくカントあたりから言わせればドクマティスムス(このコンテクストでは「教義至上主義」くらいに訳したい)の骨頂である「三位一体論」で両者の関係を考えました。三位一体論には「キリスト論」(Christologie)から相対的に独立している「聖霊論」(pneumatologie)が含まれるので、そこに、人間存在に内住(inhabitatio)することによって神と人間の媒介となるGeist(神の霊、聖霊)の問題を正当に扱う場(locus)があると見たからです。
また、現在のオランダプロテスタント神学大学総長でユトレヒト大学教授である実践神学者ヘリット・イミンクはファン・ルーラーの聖霊論的パースペクティヴをさらに哲学的に翻訳し、「神と人間の相互主観的(ないし共同主観的)関係性」(intersubjectieve betrekking tussen God en mens)という概念をもってキリスト教的実践の土台の再構築を試みています。
私はキリスト者なので、ドグマティスムス(独断論、ですか。まあそうかもしれません)と罵られようと何と言われようと、ファン・ルーラーからイミンクへと継承された「三位一体論的聖霊論」こそが両者の関係をつなぐ唯一かつ最良の道であると(いささかの臆面もなく)語ることができるのですが、キリスト教信仰を受け入れない哲学者たち(哲学者のすべてがキリスト教信仰を受け入れないという意味ではない)にとっては、そう易々とはドグマティスムスに白旗を上げることはできないかもしれません。
しかし、たとえばあのヘーゲルの『精神現象学』(Phänomenologie des Geistes)を「聖霊現象学」と翻訳することによって《自然神学に拠らない上からの哲学》を追求する勇気のある哲学者は、日本にいないでしょうか。ヘーゲルの意図が一種の「聖霊論」を目指すものであったことは、火を見るより明らかです。「上から」とか言った瞬間にまともに相手にしてくれる人は極端に少なくなるのだろうなあと思いながら、これを書いています。