2008年1月31日木曜日

教派の「教」は教義学の「教」(2/3)

「これこれ、そこのお若いの。あんたは元気でよろしいね。だけど、あんまりむきになりなさんな。あんた一人にどんなことがおできになるのかね?大口を叩きたければ、ひとまずカール・バルト先生の九千頁を全部読みなさい。あの中にすべてが言い尽くされていると思うよ。あれ以上のことを、お前さんごときが言えるとでも思っているのかね?」と大先輩たちはアドバイスしてくださるかもしれません。バルトの『教会教義学』でしたら、ドイツ語版と日本語版の全巻を(約10年かけて古書店を探し回ることによって)約10年前までに買い揃え、かいつまんだところ、そして重要なポイントは、だいたい読みました。ただ、全体が余りにも長いので、読み進めているうちに前のほうに何が書いてあったかを忘れてしまったり、また内容的に繰り返しが多いので、退屈で退屈で仕方がない部分が苦痛で飽きてしまったりという事情があるゆえに、パーフェクトな意味で「全巻を通読しました」と言い切ることまではできません。あの本は、内容が高度で難解で大量なので「読むことができない」のではなく、内容が余りにも退屈なので「読む気がしない」。だって同じことの繰り返しなのですから。時代遅れのたとえですが、壊れたレコードのようです。同語反復も大概にしてほしい。同語反復もあそこまで極めると立派であるという見方もできるかもしれませんが、あの種の繰りごとに付き合うほど、我々もひまではありません。バルトの退屈な書物に時間をとられているくらいなら、ファン・ルーラーの書物をオランダ語で読むほうがはるかに楽しいし、刺激的だし、信仰生活と牧師の仕事に益します。「もう少し要旨を簡潔にまとめてほしい」。それがバルト先生に伝えたい私の感想です。この点で、バルトの『教義学要綱』(Dogmatik im Grundriß, 1947)は、短いから好きです。『カール・バルト著作集』(新教出版社)に収録されている版はずいぶん前に読みましたが、最近「新教セミナーブック」の版で読み直しています。井上良雄先生の訳は素晴らしい。「バルト主義者」になることは私にはもはや全く不可能ですが、口幅ったいついでに言わせていただくなら、バルト先生が非常に熱烈に抱いておられたと感じられる「教義学への探究心」に対しては、持ちうるかぎり最大限の敬意を持っております。(さらにつづく)