今夜は少年補導員の仕事をしてきました。二時間ほどで終わりました。牧師室に引きこもって読書ばかりしているわけではないつもりです。
「カントを読み解くコツ」に一点補足しておこうと思いました。カントの著作の中に「教義学の観点から見て面白いもの」があると書いた点に関することです。それは内容を読めばすぐに分かることです。
「人類の歴史の憶測的起源」(1786年)は、旧約聖書のモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の釈義であり、その内容は教義学における「創造論」に対応するものです。
「万物の終わり」(1794年)は、新約聖書のヨハネ黙示録の釈義であり、教義学における「終末論」に対応するものです。
「理論と実践」(1793年)については、これと教義学の直接的な対応関係を語ることにはいくらか難しい面がありますが、強いて言うとしたら「教義学序論」との対応関係を考えることができそうですし、さらに、「神学諸科解題(ないし神学百科)」における教義学と実践神学の関係の問題などを考えていくために大いに参考になりうるものです。
するとどうなるか。たしかに言いうることは、カントには少なくとも彼なりの「創造論」があり、また彼なりの「終末論」があったのだということです。この意味に限って言えば「カントは一種の教義学者であった」と語ることができそうです。
そして驚かされることは、カントの「創造論」と「終末論」の内容は、教会の伝統的聖書解釈から逸脱しているものであると言われるならばもちろんそのとおりかもしれませんが、どうしてどうして、現代人的感性をもって読めばけっこう面白いものであるということです。
また、間違いなく重要な指摘もあります。一例を挙げておきます。
「人類の最初の歴史を上述のように説明することは、人間にとって有益であり、また教訓や改善にも役立つのである。かかる説明によって我々に明らかにされるのは、次の二事である。第一は、人間に重くのしかかる数多くの害悪があるからといって、その責任を摂理に帰してはならない、ということである。また第二に、人間は自分の犯した過ちを人類の先祖の原罪に帰するいわれはない、ということである。この祖先の犯したのと同様の過ちを犯す性癖のようなものが、原罪によって子孫に遺伝されている(しかし人間が自分の意志に従って為すところの行動に、遺伝的なものが随伴する筈はない)と考えるのは誤解であって、人間は自分の犯した過失から生じたところのものを、まさしく彼自身の所為と認め、従ってまた彼の理性の濫用から発生した一切の害悪については、その責めをすべて自分自身に帰せねばならない」
(カント「人類の歴史の憶測的起源」『啓蒙とは何か 他四篇』篠田英雄訳、岩波文庫、1974年改訳版、79ページ)。
カントが言っていることに、わたしたちは腹を立ててはならないのだと思います。
彼の言いたいことは、「神の摂理」(providentia Dei)や「原罪」(peccatum originale)などの教義学的概念を一種の殺し文句のように持ち出して事足れりとすることはできないということです。教会の教義用語を、真理探究における《思考停止》の言い訳や、道義的ないし社会倫理的な問題における《責任回避》の隠れ蓑にしてはならないということです。
カントの指摘しているこの点は、「現代の」教義学においては、当然顧慮されるべき重要な要素です。