大木教授の教義学講義は、私の教会生活に小さからぬ影響を及ぼすことにもなりました。神学大学に入学した日からちょうど二年三か月通った教会の牧師から「破門」を言い渡される事態に発展しました。その教会は日本基督教団内の「ホーリネスの群」と称するグループに属していました。当時の私は「ホーリネス」が何であるかというようなことを理解していたわけではないし、私自身がそのようなものであるかどうかについての自覚は全く無かったのですが、神学大学入学の際の出身教会の牧師の勧めに応じ、その教会に通っていました。ところが、大木教授の講義が示す方向をめざして歩みはじめた私の心の中に「私という人間はどうやらホーリネスというようなものではありえないようだ」という強い思いが芽生え、そのとおりの言葉を当時の牧師(現在は故人となっている)に率直に伝えましたところ、「じゃあ、君はもう、来週からこの教会に来ないでくれ」と言い渡されました。当時私は20歳。1986年6月末のことでした。「破門」後、杉並区のその教会から三鷹市の神学大学までの帰路(井の頭通りでした。まもなく吉祥寺駅というあたり)、50ccのスクーターを運転していた私は、目の前を走っていた小型トラック(白ナンバー)が急に車線変更をしてきて接触、転倒。スクーターはガードレールに当たって大破。中学・高校時代に柔道を少しかじっていたおかげで頭部を地面に打ちつけることはなかったことと(とっさに受け身をしたようです)、梅雨の時期でその日も雨が降っており、厚めの雨合羽を着ていて体の露出度が少なかったため、流血騒ぎにまではなりませんでした。しかし頚椎を捻挫し(受け身の際に首をひねりすぎたようです)、またトラックの金属部分に接触した右の脇腹が紫色に腫れ上がり、悶絶。通りがかりの人が呼んでくれた救急車に、生まれて初めて乗りました。骨折は無かったものの、首は痛いわ、脇腹は痛いわ。そして何より「破門」の二文字が渦巻く心が痛い。その事故の数日後から二ヶ月間、徳島県と高知県の県境に位置する教会で夏期伝道実習を予定通り行いました。これまた生まれて初めての夏期伝道実習だったので、緊張もあり、慣れない地で病院通いもリハビリもできず、とにかく「痛い痛い夏」を過ごす羽目になりました。頚椎の痛みは、その後10年間、私をさいなむことに。子供の頃からひどく甘ったれで、痛みや苦しみから逃げることばかり考える人間だった私は、そのときやっと「人生とは痛いものだ」と悟るに至りました。