2008年1月28日月曜日

教義学との出会い

昨日は教会の年一回の定期会員総会でした。牧師が議長を務めます。とても穏やかな会議が行えて、ほっとしました。さて。私が「教義学」に初めて出会ったのは、1985年のことです。当時19才でした。現在42才ですので、23年間の付き合いになります。まだそう長くもない人生の半分以上の長さになりました。神学大学二年生のときです。専門科目は原則的には三年次から履修可となりますが、一年生から入学した者には「組織神学 I」と称する教義学の履修が許されました。一学年上の人々のために行われている講義の教室に、19才の二年坊主たちが入らせてもらえました。その年の教義学の担当者は、スイスのバーゼルで『バルト』(講談社「人類の知的遺産」シリーズ)を書き上げて帰国なさったばかりの大木英夫教授(現在は学校法人聖学院理事長・院長)でした。興奮と感動をもって大木先生の講義に聴き入りました(このときの講義内容が後に『組織神学序説 プロレゴーメナとしての聖書論』(教文館、2003年)として出版されたときは本当にうれしかったです。私の人生を決定づけた講義なのですから)。ほとんどが生まれて初めて接する内容ばかりでしたが、何も分からないなりに必死でノートをとり、それを何度も読み返しながら、語られていることの意味を考えました。講義の中で引用ないし紹介される書物は見たことも聞いたこともないものばかりでしたので、とにかく入手しなければ何も始まらないと思い、可能なかぎり買いあさり、また古書店を探し回りました。パソコンは「98」と呼ばれるドデカイものが非常に高価な値段で売られていた頃、またインターネットなどは一般人は聞いたこともなかった頃でしたので、ひたすら足を使って動き回るしかありません。学びえた場所が「東京」だったことは、情報入手の観点からいえば非常に好都合であったことだけは間違いありません。銀座やお茶の水、また西荻窪や神田にはよく行きました。そこで見るものすべてが感動でした。その頃の記憶は寮と大学と教会と書店をグルグル回っていたこと(図書館には余りいませんでした。読んでも当時は理解できない本ばかりでしたから)。他のことはほとんど忘れてしまいました。19才の少年から見た大木先生の姿は穏やかな中に威厳を感じられ、こちらから近づくことはできませんでした。ところが大木先生のほうは講義中に学生たちに質問して答えをお求めになったり、あるいは定期的に講義レポートを書くようにお命じになり、その中でよく書けているものを選んでみんなの前で発表する機会を与えてくださったりと、学生たちに積極的に近づいてくださいました。私も一度だけ、「久松真一の無神論」をテーマに書いたレポートを大木先生が気に入ってくださり、みんなの前で発表させていただいたことがあります。とてもうれしくて、妙に得意げだったそのときの自分の姿を思い起こすと恥ずかしいです。その後も大木先生には公私にわたって非常にお世話になりました。ともかくはっきりしていることは、私と教義学の最初の出会いは「書物」によるものではなかったということです。温かい血の通った「人格」がそこに介在していました。その日そのときから、私の神学研究のすべてが始まったのです。牧師として立つ根拠を得た、と言ってもよい。これらの経緯ゆえに、私の教義学はいつも、少し会津訛りなのです。