2008年1月22日火曜日

日記を書かないほうが良さそうな日

日曜日はやはり日記を書くことができませんでした。書けない理由にも気づきました。礼拝説教と結婚準備会と受洗準備会を行いました。結婚準備会は、結婚式そのものの準備もさることながら、若い二人の一生の問題を聖書の教えに照らして考えることの大切さをしっかり語っていますので、まさに求道者会さながらです。ご本人たちもそのような学びのときを喜んでおられます。受洗準備会は、これをしているとき「牧師をしていてよかった」と最も実感できる喜びの瞬間です。私にとってその実感は、礼拝説教のときに感じるもの以上です。イースター礼拝での洗礼式をめざしています。礼拝説教は、毎週5500~6000字程度の原稿を書きおろし、すべてをブログにアップし、希望者にメールマガジンで配信しています。どのみち、二度と同じ原稿を同じ講壇の上で読み上げることは、私の場合はありません。そういうことはしない主義です。どれほど時間をかけて書いてもわずか30分足らずで読み終わる、一生に一度かぎり用いるだけの原稿です。そういうものは、牧師室の書棚にファイルして眠らせておくよりも、いつでもだれかに読んでいただけるようにウェブ上にさらしておくほうが意味があるのではないかと考えた末の公開です。そもそも説教とは公開されるべきものです。説教とは「パブリック・スピーキング」なのです(石丸新先生の『パブリック・スピーキングとしての説教』(聖恵授産所出版部、1990年)は優れた書物です)。「公開できない説教」は言葉の矛盾です。しかも説教は本来「無料で」提供されるべきものです。説教者がいただく謝儀は「講演料」ではありません。有料で書店に並べられている「説教集」には、言葉の矛盾があるような気がしてなりません。いつでもだれでも無料で読むことができる「インターネット説教集」は現時点においては最良の提示方法ではないかと思っています。しかし、です。結婚準備会と受洗準備会は「公開できないもの」あるいは「公開してはならないもの」です。それは個人情報であり、守秘事項です。日曜日の仕事において牧師たちが扱っているものは、「地の果てまで公開されるべき事柄」(説教)だけではありません。ちょうど正反対の「決して公開されてはならない事柄」(牧会)をも扱っているのです。日曜日に日記を書くことができない理由は、私の場合、どうやらこのあたりにありそうだと気づきました。三日以上続けるために、その時その時の関心を率直に書くことにした日記です。「公開すべき事柄」と「公開してはならない事柄」が私の頭と心の中いっぱいに詰まっている日曜日には、この日記を書くべきではない。うっかりポロリしてしまうかもしれません。