2008年1月27日日曜日

目標は「教義学の改革」である

私の提案の目的は、他者の領域を侵犯することではなく、教義学そのものの改革です(その中には『教義学教本』の全面的改訂という面も当然含まれます)。すなわち、「教義学の実践化」であり「日常生活化」です。それは、20世紀的な「キリスト論的集中の教義学」が温存されたままでは決して実現しえないものであると、私は信じています。固定された同一の視点から繰り出される言葉が九千頁の書物を生み出すことができたとしても、それが人の視野を広げることにはならず、かえって狭める結果をもたらすのです。我々の教義学改革を遂行するためには、「キリスト論」よりももっと広い視野を持っている、「三位一体の神のみわざ」の全体を考察対象とする、そのような根本構造を有する教義学の(古くて新しい)枠組みが再構築されることが必須的な前提条件です。そしてもしそのような枠組みを獲得できるならば、その中に現行の実践神学部門が扱っている考察領域のすべてがすっぽり収まるでしょう。「実践的教義学」が現行の実践神学的課題のすべてを扱い尽くしてしまうとしたら、その後に残っている実践神学プロパーの課題は何でしょうか。説教者のヴォイス・トレーニングとか、人格的コミュニケーションの方法とか、牧会的カウンセリングのテクニックとか、礼を失しない挨拶の仕方などだけかもしれません(いずれも間違いなく重要な課題ではあります!)。しかし、「実践的教義学」のほうがまだ形をなしていない段階ですので、先走って大口を叩くことは控えなければなりません。しかし、そのような広大な視野と考察内容を有する教義学の(もちろんきわめて荒削りでプリミティヴな)前例を過去の歴史の中から探しだすとしたら、「改革派教義学」(dogmatica reformata/ Gereformeerde Dogmatiek/ Reformed Dogmatics)以外には見つからないのです(疑う向きがあるなら、御自分でお探しになったらよいと思います)。過去の荒削りの「改革派教義学」において思索されてきた事柄の核心(ザッヘ)を、我々現代人の「庶民的生活感覚」の奥底に至るまで届かせること。そのために重要な「翻訳」(translation/ vertaling)という手続きにも丁寧かつ熱心に取り組むこと。事柄の核心に触れて人は感動し、喜びと感謝の生活を開始する。そういう展開を期待しているのです。