2008年1月25日金曜日

それはまた「実践神学の廃止」でもない

およそ学問とはすべて、突然ポッと天から降ってくるものではなく、いずれにせよ先人の営みを批判的に継承すべきものであるということは広く了解していただけることでしょう。この理由から、私自身もまた、両者とも古く長い伝統を有する教義学と実践神学との二分野を合体させるという道筋を考えざるをえないために、両者を統合したものであるという意味で「実践的教義学」という名称を、とりあえず暫定的に付けてみただけです。この名称自体にこだわりを持っているわけではありません。私の密かな思いは、この「実践的教義学」こそが「改革派教義学」の本旨を受け継いでいるということでもあります。しかし、事柄の趣旨を明確にするために、ある特色をもった名称を付けることは便利で有益なことでもあるでしょう。名称の意図は、今日日本国内の少なからざる大学に「政治経済学部」や「法経学部」といった学部があることを考えていただくことによって必ずご理解いただけることです。政治学と経済学、法学と経済学など、一見すると異なる学問領域どうしが同居している学部です。学校経営上の苦肉の策としての統合という面もあるのかもしれませんが、表向きに語られていることは、たいてい、統合の積極的な側面です。経済問題に無頓着な政治も、反対の政治問題に無頓着な経済も、とても危なっかしいものであるというふうに語られます。あるいは、政治や経済には必ずや法的裏打ちというものが不可欠であるというふうに語られます。「実践的教義学」の主張にも、これと似たような理由があります。いずれにせよ、統合の積極的側面を強調したいと願っています。説教、牧会、宣教、礼拝など(旧来の)実践神学的諸課題に対して無頓着ないし無関心であるような「教義学」は、危なっかしいとかいう以前に、存在理由さえ不明です。逆も然り。教義学的基礎づけを失った一般的行動理論としての「実践神学」は、「神学」を自称することを早くやめるべきです。教義学と実践神学との関係は、《統合》という帰結をほとんど必然化していると確信できるほどに密接不可分の関係にある。これが「実践的教義学」という名称の意図です。しかし、教義学と実践神学の《統合》を語るときに予想される反発や反論の多くは、おそらく実践神学の側から出てくるものであろうと思われます。その理由を説明するのは簡単です。両者の歴史を比較すると、教義学のほうがはるかに古く、実践神学はごく最近のもの(と言っても二世紀ほど前)です。そもそも「実践神学」は教義学の中から分かれ出たものです。あるいはもっと根源的な言い方をすれば、そもそも「神学」には「教義学」しか無かったのです。この点から言えば、教義学と実践神学を統合すべきであるという私の提案は、歴史の逆行であり、時計の逆回しであり、実践神学の側から見れば、自分たちが長年かけて築いてきたものの「廃止」を意味するのではないかと感じられるでしょうから、その点からの反発を呼び起こすものになることは必至です。しかし、私の意図はそういうことではありません。この点の断り書きは、繰り返し強調しなければならないことでしょう。何より、今の欧米の現実が私の行く手を阻みます。「実践神学」は魅力的な学としてもてはやされていますが、「教義学」は全く人気がないものになっているということを、私は知っています。専任の「教義学者」は存在しないが「実践神学者」はたくさんいるという神学部や神学校が欧米にはたくさんあるということを知っています。教義学の書物のほうは全く売れませんが、実践神学の書物は飛ぶように売れています。その現実を知らずに言っているわけではないのです。「実践神学の廃止」など言おうものなら、その次の瞬間に何が起こるかを分かっているつもりです。「教義学」というのが今でも存続する「学問」であると認識しているキリスト者は、今の世界の中ではごく僅かになっていることも分かっています。「教義」とかそういうのは、ハリー・ポッターの通うホグワーツ魔法学校の教科書に書いてあるようなことではないかというくらいに思われている。しかし、私自身の願っていることは「実践神学の廃止」ではなく「教義学の実践化」です。そして、この「教義学の実践化」が目指していることは、近年流行している表現でいえば、「教理と生活の一致」であり、「生活化された教理」です。あるいは、現在のオランダプロテスタント神学大学総長であるF. G. イミンク教授の教える「生活として営まれる信仰」(geleefde geloof)です。ただし、イミンク先生は「実践神学者」です。イミンク先生御自身が「教義学の廃止」までお語りになることはありませんし、そのようにお語りになることはありえないことだと思いますが、御自身を教義学者と称されることも、おそらく決してないでしょう。私はイミンク先生を心から尊敬している者ですが、あえてイミンク先生の反対の道を進みたい。「実践神学者になりたい」とはどうしても思えない。教義学(しかも「改革派の」教義学)に魅了され続けています。また私は「教理の実践化」や「教理の生活化」ということを語るだけでは満足できません。「教義学的思索そのもの」の実践化ないし生活化を求めています。その地点に到達するまでは、我々人間の精神や肉体の存在が真の満足や安心を得ることはできそうもないと感じています。加えて言えば、「教義学」は教義学者だけによって営まれるものではありえませんが、しかしまた、少なくとも「教義学者」と呼ばれるこの道の専門家たち自身が人生の楽しみや遊びを十分に満喫しないかぎり、「教義学の実践化ないし生活化」という目標は、達成されることも、完成の日を見ることも、ありえそうにありません。教義学を最大限に実践化すること。まさに文字通りの「庶民的生活感覚」と深く刺激的に絡み合えるほどまでに、教義学を日常生活化すること。人生を楽しむ教義学者が世に立つこと。そして、そのようにして「教会の学としての教義学」(Dogmatik als Wissenschaft der Kirche)が、このわたしの人生の楽しみになること。この切なる願いが、今や、私の生きる力、人生の希望になっています。