手書きの手紙なら年に二、三通も書けば多いほうだった人間が、メールを始めた途端、年に千件以上も送信するようになりました。たぶんそれと同じことがブログにも当てはまるのではないかと予感しています。日記というものを書くことができない人間でした。まさに文字通り三日以上続けることができたためしがありません。しかしブログなら続くかもしれない。そのような気持ちでいます(先のことは分かりませんが)。
さて、カントには「面白くない著作群」と「面白い著作群」の両方があると私には思われます。前者としては、三つの《批判書》(『純粋理性批判』・『実践理性批判』・『判断力批判』)やそれらの批判作業によって獲得された新しい哲学的認識論に基づく《体系書》としての『道徳形而上学』があります。後者としては、彼が雑誌や新聞などに寄稿したいずれも比較的小規模の論文があります。
社会的具体性をもっているという意味で面白いのは「啓蒙とは何か」(1784年)や「世界公民的見地における一般史の構想」(1784年)や「永遠平和のために」(1795年)などです。また、教義学の観点から見て面白いのは「人類の歴史の憶測的起源」(1786年)や「万物の終わり」(1794年)や「理論と実践」(1793年)などです。
うれしいことに、それらの多くがかなり以前から日本語に訳されています。今や私のような初学者にも容易に近づくことができるようになったのは、先人たちの血の滲むような努力あってのことです。
ところで、『純粋理性批判』を読みはじめて分かってきたことの一つは、カントの読み方にはコツがありそうだということです。それは、上記の二種類の著作群の前者と後者、つまり「面白くない著作群」と「面白い著作群」との両者の間を行ったり来たりしながら読むほうが良さそうだということです。
そのように、両者を「同時に」読むこと(この「同時に」は厳密な言い方ではありませんが)によって得られる恩恵はたくさんあると思います。何より、「面白くないもの」を読み続けることには、人間の通常の精神にとって耐えがたいものがあるからです。「面白いもの」と「面白くないもの」を行ったり来たりすることが精神のバランスを保つためにも良さそうですし、飽きないためのコツでしょう。
また両者を「同時に」読んで得られる恩恵の第二点は、月並みな言い方かもしれませんが、カントの哲学は、それが「哲学」であるかぎり、単なる抽象的で味気ない数字や記号の羅列のようなものであったはずはなく、むしろ、きわめて現実的で具体的な事実や危急の事態の中で考え抜かれた実践的思索でもあったのだ、ということを味わい知ることができることです。
とはいえ、もちろん、私の立てる「面白いもの」と「面白くないもの」の区別そのものは、個人の主観であり、独断論であり、憶測であり、趣味・嗜好の問題であると付け加えておくほうがよさそうです。「理論」(theoria)が面白いと感じられる人にとっては前者のほうが「面白い著作群」でしょうし、私のように「実践」(praxis)のほうにより多くの関心を抱き続けている人間にとっては逆の判断になる、という消息ではないかと愚考します。