2008年1月31日木曜日

教派の「教」は教義学の「教」(3/3)

話を元に戻します。私にとって、教派の「教」は教義学の「教」です。私は「改革派教義学」(dogmatica reformata)を結婚相手として選んだのです。出会った日にひとめぼれし、やがて「結婚したい」と願うようになりました。しかし、それを周囲が許してくれそうもないことを悟ったので、「駆け落ち」したのです。妻以外の誰にも相談せず、日本基督教団の教師を夫婦揃って退任し、日本キリスト改革派教会に教師として加入しました。唯一、日本基督教団時代の最後にわずか10ヶ月間牧師として働かせていただいた教会の方々に対してだけは、牧師家族を温かく受け入れ、手厚い配慮をしてくださっていましたので、多大な御迷惑をかけたことを今でも申し訳なく思っています。今さら何を言ってもお許しいただけないかもしれませんが、この負い目を生涯負い続けることによって償いたいと願っています。しかし私の「駆け落ち」はそうする以外にどうすることもできなかったものです。この点にはいささかの後悔もありません。私にとって「教義学」は真理探究のための一つの道です。それは「飯の種」以上のものであり(実際に「飯の種」になったことは一度もありません)、それなしには魂の平安を得ることができないものです。ただし、「真理探究のための一つの道」の「一つ」は排他的な「唯一」ではなく「多くの中の一つ」です。そういうものとしてまた同時に、教義学は「三位一体の神のみわざ」(opera Dei trinitatis)全体を見通すことを本旨とする、最も広大な考察領域を有する古くて新しい学問です。教義学者が立つアリーナは非常に広い。「コップの中の嵐」で終わらせてよいような、ちんけな学問ではありません。(おわり)