話を元に戻します。私にとって、教派の「教」は教義学の「教」です。私は「改革派教義学」(dogmatica reformata)を結婚相手として選んだのです。出会った日にひとめぼれし、やがて「結婚したい」と願うようになりました。しかし、それを周囲が許してくれそうもないことを悟ったので、「駆け落ち」したのです。妻以外の誰にも相談せず、日本基督教団の教師を夫婦揃って退任し、日本キリスト改革派教会に教師として加入しました。唯一、日本基督教団時代の最後にわずか10ヶ月間牧師として働かせていただいた教会の方々に対してだけは、牧師家族を温かく受け入れ、手厚い配慮をしてくださっていましたので、多大な御迷惑をかけたことを今でも申し訳なく思っています。今さら何を言ってもお許しいただけないかもしれませんが、この負い目を生涯負い続けることによって償いたいと願っています。しかし私の「駆け落ち」はそうする以外にどうすることもできなかったものです。この点にはいささかの後悔もありません。私にとって「教義学」は真理探究のための一つの道です。それは「飯の種」以上のものであり(実際に「飯の種」になったことは一度もありません)、それなしには魂の平安を得ることができないものです。ただし、「真理探究のための一つの道」の「一つ」は排他的な「唯一」ではなく「多くの中の一つ」です。そういうものとしてまた同時に、教義学は「三位一体の神のみわざ」(opera Dei trinitatis)全体を見通すことを本旨とする、最も広大な考察領域を有する古くて新しい学問です。教義学者が立つアリーナは非常に広い。「コップの中の嵐」で終わらせてよいような、ちんけな学問ではありません。(おわり)
2008年1月31日木曜日
教派の「教」は教義学の「教」(2/3)
「これこれ、そこのお若いの。あんたは元気でよろしいね。だけど、あんまりむきになりなさんな。あんた一人にどんなことがおできになるのかね?大口を叩きたければ、ひとまずカール・バルト先生の九千頁を全部読みなさい。あの中にすべてが言い尽くされていると思うよ。あれ以上のことを、お前さんごときが言えるとでも思っているのかね?」と大先輩たちはアドバイスしてくださるかもしれません。バルトの『教会教義学』でしたら、ドイツ語版と日本語版の全巻を(約10年かけて古書店を探し回ることによって)約10年前までに買い揃え、かいつまんだところ、そして重要なポイントは、だいたい読みました。ただ、全体が余りにも長いので、読み進めているうちに前のほうに何が書いてあったかを忘れてしまったり、また内容的に繰り返しが多いので、退屈で退屈で仕方がない部分が苦痛で飽きてしまったりという事情があるゆえに、パーフェクトな意味で「全巻を通読しました」と言い切ることまではできません。あの本は、内容が高度で難解で大量なので「読むことができない」のではなく、内容が余りにも退屈なので「読む気がしない」。だって同じことの繰り返しなのですから。時代遅れのたとえですが、壊れたレコードのようです。同語反復も大概にしてほしい。同語反復もあそこまで極めると立派であるという見方もできるかもしれませんが、あの種の繰りごとに付き合うほど、我々もひまではありません。バルトの退屈な書物に時間をとられているくらいなら、ファン・ルーラーの書物をオランダ語で読むほうがはるかに楽しいし、刺激的だし、信仰生活と牧師の仕事に益します。「もう少し要旨を簡潔にまとめてほしい」。それがバルト先生に伝えたい私の感想です。この点で、バルトの『教義学要綱』(Dogmatik im Grundriß, 1947)は、短いから好きです。『カール・バルト著作集』(新教出版社)に収録されている版はずいぶん前に読みましたが、最近「新教セミナーブック」の版で読み直しています。井上良雄先生の訳は素晴らしい。「バルト主義者」になることは私にはもはや全く不可能ですが、口幅ったいついでに言わせていただくなら、バルト先生が非常に熱烈に抱いておられたと感じられる「教義学への探究心」に対しては、持ちうるかぎり最大限の敬意を持っております。(さらにつづく)
教派の「教」は教義学の「教」(1/3)
今日の午前中は松戸小金原教会の水曜礼拝でした。マルコによる福音書10・32~52を学び、全員で祈りました。出席者14名。さて。「私という人間はどうやらホーリネスというようなものではありえないようだ」。私がかつて確かに語ったこの発言は、私に限っては、ホーリネスの人々やその信仰への《批判》として語ったものではありません。発言した当時もそうでしたし、今はますますそうです。《違和感》という言葉も勢いが強すぎて全く当てはまりません。まして軽視ないし軽蔑などの意図は全くありません。どういうふうに表現したらよいか迷います。表現しにくいものを無理やり表現しようとすると墓穴を掘ると言うのか馬脚を現すと言うのか、要するにろくなことはなさそうで嫌なのですが、それでもこの場面では何か書き留めておきたい気持ちです。いちばん近いかもしれないのは・・・(やはり難しい)・・・強いて言えば・・・(う~ん)・・・「恋愛的な」(?)あるいは「結婚したいと思う」(?)感情を相手に抱きうるか否かという話に近い(違うかな)、そんな感じです。私には妻がいますが、「一人の女性に妻になっていただくこと」(「なっていただく」というこの響きを重んじたい)や「妻を愛すること」が妻以外のすべての女性を「批判」することを意味するか。そのような意味になるわけがありません。教派の問題、エキュメニズムの問題についても私は基本的に同じような感覚を(「感覚を」です)持っています。現在私は日本キリスト改革派教会の教師ですが、他のすべての教派を《批判》ないし《否定》した結果としてここにいるという事情ではありません。「そうではない」ということを、どこでもかしこでも声を大にして言いたいと願っています。私がかつてそこに属するメンバーであり、また教師としても仕えた日本基督教団は、こと最近「我々は教派ではない」という点を、中心的な人々がまさに声を大にして一生懸命語ってくださいますので、私の言葉にはなんら矛盾がないことを証明していただいている次第です。私自身は「教派であること」を選択しただけです。「教派であること」をローラーで強引に押しつぶそうとする危険な圧力を感じたので、「教派であり続けることができる場所」へとそっと移動しただけです。そしてそれは、とりもなおさず改革派教会の信仰告白の内容(特定の一信条文書ということとはいくらか違う意味です)を「愛する」ことを願った結果です。そして牧師である者として、すなわち教会教育の全般に責任を負う者として、「改革派教義学」(dogmatica reformata)の発展と普及にも寄与しうる者になりたいと願った結果です。とにかく付き合い始めてみて、先に行ってうまく行かないことが分かったら、その時点で別れればいい、離婚すればいい、やめればいいとは全く思いません。そのような「あなた任せ」の人生を、「教会の学としての教義学」(Dogmatik als Wissenschaft der Kirche)に関するかぎり、私は思い描くことすらできません。もし改革派教会の教義内容に間違いがあるならば(もちろん我々は間違いうる存在です)、その内容を徹底的に修正し、改善していく責任が、この私にもある。そのように考えています。(つづく)
2008年1月30日水曜日
どちらが人に優しいか
昨日は松本零士氏的な擬音を用いて言えば「ドテポキグシャ」な体験を書きました。あのときは、正直死ぬかと思いました。22年経った今でも、白いトラックの金属部分(巻き込み防止用バーです)が右脇腹に激突してきたあの瞬間の恐怖を、昨日のことのように覚えています。しかし、「破門」と「事故」との間に直接的な関連性があると、私自身が考えているわけではありません。不幸というものはしばしば、まるで追い討ちをかけられているのではないかと感じられるほどに連続的に起こるものである。それがどうやら我々の体験的現実であると、それくらいのことは一応考えています。しかし、私が考えることはそれ以上のことではないしそれ以下のことでもありません。それとも私は、この場面でこそ「それは神の摂理であった。すべては神の予定であった」というような言葉を発するべきでしょうか。改革派教義学(dogmatica reformata)を土台とする「実践的教義学」はそのような短絡的な結びつけ方をあまり快く思わないところがあります。そのような短絡的な言葉づかいを耳にするたびに、それは第三戒違犯、すなわち「主の名をみだりに唱える罪」ではないのかと思われて仕方がありません。「予定論」(praedestinatio Dei)や「摂理論」(providentia Dei)はなんら万能教義ではありません。それらはモーセの十戒、とりわけ「道徳律法」(lex moralis)によって規制される必要があります。カルヴァンもツヴィングリもブリンガーも、ハイデルベルク信仰問答の作者やウェストミンスター信仰規準の制定者たちも、第二次宗教改革の教義学者たちも、そして近現代の改革派教義学者たちも、「予定論」や「摂理論」は絶対的で不動の教義であるが、「道徳律法」は相対的で可動的な(不都合が生じた場合は撤回可能な)教説にすぎないなどというような(不道徳への逃げ口上を助けるような)悪しき二元論を教えたことはありません。前者も後者も同様に等しく重んじられるべき意義と価値を持っています。そして、「現実の人間との近さ」という観点をもって見るならば、後者(道徳律法)のほうが前者よりも「人間に近い距離にあること」は明らかです。心や体に傷を負った人の前で「破門は神の摂理である」とか「事故は主の予定である」などと(無遠慮に)語ることと、「主の名をみだりに唱える罪」を犯さないように不断の注意を払うこと。そのどちらが「人に優しいか」という問いを真剣に考えてみるべきではないのかと、「実践的教義学」は、私に強く問いかけてくるのです。
2008年1月29日火曜日
教義学と「痛い経験」
大木教授の教義学講義は、私の教会生活に小さからぬ影響を及ぼすことにもなりました。神学大学に入学した日からちょうど二年三か月通った教会の牧師から「破門」を言い渡される事態に発展しました。その教会は日本基督教団内の「ホーリネスの群」と称するグループに属していました。当時の私は「ホーリネス」が何であるかというようなことを理解していたわけではないし、私自身がそのようなものであるかどうかについての自覚は全く無かったのですが、神学大学入学の際の出身教会の牧師の勧めに応じ、その教会に通っていました。ところが、大木教授の講義が示す方向をめざして歩みはじめた私の心の中に「私という人間はどうやらホーリネスというようなものではありえないようだ」という強い思いが芽生え、そのとおりの言葉を当時の牧師(現在は故人となっている)に率直に伝えましたところ、「じゃあ、君はもう、来週からこの教会に来ないでくれ」と言い渡されました。当時私は20歳。1986年6月末のことでした。「破門」後、杉並区のその教会から三鷹市の神学大学までの帰路(井の頭通りでした。まもなく吉祥寺駅というあたり)、50ccのスクーターを運転していた私は、目の前を走っていた小型トラック(白ナンバー)が急に車線変更をしてきて接触、転倒。スクーターはガードレールに当たって大破。中学・高校時代に柔道を少しかじっていたおかげで頭部を地面に打ちつけることはなかったことと(とっさに受け身をしたようです)、梅雨の時期でその日も雨が降っており、厚めの雨合羽を着ていて体の露出度が少なかったため、流血騒ぎにまではなりませんでした。しかし頚椎を捻挫し(受け身の際に首をひねりすぎたようです)、またトラックの金属部分に接触した右の脇腹が紫色に腫れ上がり、悶絶。通りがかりの人が呼んでくれた救急車に、生まれて初めて乗りました。骨折は無かったものの、首は痛いわ、脇腹は痛いわ。そして何より「破門」の二文字が渦巻く心が痛い。その事故の数日後から二ヶ月間、徳島県と高知県の県境に位置する教会で夏期伝道実習を予定通り行いました。これまた生まれて初めての夏期伝道実習だったので、緊張もあり、慣れない地で病院通いもリハビリもできず、とにかく「痛い痛い夏」を過ごす羽目になりました。頚椎の痛みは、その後10年間、私をさいなむことに。子供の頃からひどく甘ったれで、痛みや苦しみから逃げることばかり考える人間だった私は、そのときやっと「人生とは痛いものだ」と悟るに至りました。
2008年1月28日月曜日
教義学との出会い
昨日は教会の年一回の定期会員総会でした。牧師が議長を務めます。とても穏やかな会議が行えて、ほっとしました。さて。私が「教義学」に初めて出会ったのは、1985年のことです。当時19才でした。現在42才ですので、23年間の付き合いになります。まだそう長くもない人生の半分以上の長さになりました。神学大学二年生のときです。専門科目は原則的には三年次から履修可となりますが、一年生から入学した者には「組織神学 I」と称する教義学の履修が許されました。一学年上の人々のために行われている講義の教室に、19才の二年坊主たちが入らせてもらえました。その年の教義学の担当者は、スイスのバーゼルで『バルト』(講談社「人類の知的遺産」シリーズ)を書き上げて帰国なさったばかりの大木英夫教授(現在は学校法人聖学院理事長・院長)でした。興奮と感動をもって大木先生の講義に聴き入りました(このときの講義内容が後に『組織神学序説 プロレゴーメナとしての聖書論』(教文館、2003年)として出版されたときは本当にうれしかったです。私の人生を決定づけた講義なのですから)。ほとんどが生まれて初めて接する内容ばかりでしたが、何も分からないなりに必死でノートをとり、それを何度も読み返しながら、語られていることの意味を考えました。講義の中で引用ないし紹介される書物は見たことも聞いたこともないものばかりでしたので、とにかく入手しなければ何も始まらないと思い、可能なかぎり買いあさり、また古書店を探し回りました。パソコンは「98」と呼ばれるドデカイものが非常に高価な値段で売られていた頃、またインターネットなどは一般人は聞いたこともなかった頃でしたので、ひたすら足を使って動き回るしかありません。学びえた場所が「東京」だったことは、情報入手の観点からいえば非常に好都合であったことだけは間違いありません。銀座やお茶の水、また西荻窪や神田にはよく行きました。そこで見るものすべてが感動でした。その頃の記憶は寮と大学と教会と書店をグルグル回っていたこと(図書館には余りいませんでした。読んでも当時は理解できない本ばかりでしたから)。他のことはほとんど忘れてしまいました。19才の少年から見た大木先生の姿は穏やかな中に威厳を感じられ、こちらから近づくことはできませんでした。ところが大木先生のほうは講義中に学生たちに質問して答えをお求めになったり、あるいは定期的に講義レポートを書くようにお命じになり、その中でよく書けているものを選んでみんなの前で発表する機会を与えてくださったりと、学生たちに積極的に近づいてくださいました。私も一度だけ、「久松真一の無神論」をテーマに書いたレポートを大木先生が気に入ってくださり、みんなの前で発表させていただいたことがあります。とてもうれしくて、妙に得意げだったそのときの自分の姿を思い起こすと恥ずかしいです。その後も大木先生には公私にわたって非常にお世話になりました。ともかくはっきりしていることは、私と教義学の最初の出会いは「書物」によるものではなかったということです。温かい血の通った「人格」がそこに介在していました。その日そのときから、私の神学研究のすべてが始まったのです。牧師として立つ根拠を得た、と言ってもよい。これらの経緯ゆえに、私の教義学はいつも、少し会津訛りなのです。
2008年1月27日日曜日
「宣教と社会」
http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2008-01-27.pdf (印刷用PDF)
使徒言行録17・1~15(連続講解第43回)
日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康
「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟たちを町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。『世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、「イエスという別の王がいる」と言っています。』これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取った上で彼らを釈放した。」今日の個所に紹介されていますのは、使徒パウロの第二回伝道旅行の途中に立ち寄ったテサロニケとベレアという二つの町で行われた宣教活動の様子です。パウロと共にシラスとテモテが同行しています。この個所を読んですぐに分かることが一つあります。彼らの伝道旅行には、喜びの面もあった。しかし、苦しみの面もあった、ということです。
最初に紹介されているのはテサロニケの町での出来事です。ここで分かることはパウロが採用した宣教活動の方法はいくらか過激なものであったということです。どこが過激なのでしょうか。パウロがしたことは、ユダヤ人の会堂の中で毎安息日に行われている礼拝に出席し、そこに集まっている人々と聖書の内容をめぐって論争することでした。
言い方を換えれば、このやり方がいかに過激であるかをもう少し理解していただけるかもしれません。パウロはユダヤ人であり、元ユダヤ教徒でした。ユダヤ教の会堂に入り、礼拝に出席することに妨げられる理由はないし、彼にはそうする権利もあったと言えます。しかし、明らかに言いうることは、この時点でパウロはすでにユダヤ教の信仰を持っていなかったということです。キリスト教の信仰を持っていました。つまりパウロは、明確なキリスト教信仰をもってユダヤ教の礼拝に出かけ、そこに集まっている人々にキリスト教信仰を宣べ伝えるという方法を用いたのです。ですから、パウロがしたことは、いわゆる「道場破り」のようなことだったのだと説明することができます。
しかし、その方法は「そんなのひどいじゃないか」と責められなければならないようなことではないと思われます。陰に隠れてこそこそと行ったことではなく、みんなの前で正々堂々と行ったことだからです。いずれにせよ、そのとき行われた論争のテーマは、聖書に記されていることは何なのかということでした。あるいはまた、聖書に記されている言葉はどのように解釈されるべきかということでした。そのような議論が公の場で正々堂々と行われたのです。
その場合重要なことは、とにかくそこに聖書があったことです。ユダヤ人たちとパウロたちとの目の前に置かれていたのは聖書でした。今のように各自が一冊ずつ聖書を持っている時代とは異なります。ユダヤ教の会堂には聖書の巻物が置かれていました。しかし、ユダヤ人の聖書とパウロの聖書は、言うまでもなく同じ聖書でした。別々の聖書ではありません。共通の聖書、その意味での“一冊の聖書”をめぐって、論争が行われたのです。
この観点で私は、現在わたしたちが使用している新共同訳聖書には価値があると考えています。翻訳の内容についての不満は、たくさん聞いています。しかし、プロテスタント教会とカトリック教会が同じ聖書を持つことそれ自体が重要なのです。両教会の違いは、もちろんあります。いまだに非常に違います。しかし新共同訳聖書の誕生によって両教会は共通の一冊の聖書をめぐって論争することができるようになりました。それは、共通の土俵の上で論争できるようになったということです。それは感謝すべきことなのです。
パウロのやり方は「道場破り」にも似て過激なものでした。しかし、それは責められるようなことではありません。考えてよいことは、そこにいたユダヤ人たちも愚かではないということです。もしパウロの言っていることが間違っていると感じたとしたら、人々がパウロたちに従うこともなかったでしょう。しかし、実際には、パウロたちに従って来る人々がたくさん現れました。パウロたちの聖書の解釈を正しいと認めることができたから、その内容に納得することができたから、従ったのです。
しかしまた、パウロたちに従ったのはそこにいた全員ではなかったという点も明らかにされています。これを私は残念なことだったとか、がっかりすべきことだったというふうには思いません。むしろ偲ばれることは、パウロが実際に行った論争の語り口はどのようなものであったかという点です。「反対すれば地獄に落ちるぞ」的な脅迫を交えて押しつけがましく語るというようなことは、パウロに限ってはありえなかっただろうと思われるのです。
重要なことは、とにかくそこに聖書があったということです。聖書に書いてあるのは、文字であり、言葉です。言葉の解釈をめぐっての論争は、冷静な論理を用いて行うことができます。大きな声で騒ぐ必要がない。パウロたちの語る冷静な論理を受け入れることができた人が、パウロたちに従ったのです。しかし、それに納得できなかった人々もいた。それは、ある意味で人間に与えられている自由の要素に属することです。わたしたち人間は、ロボットや操り人形ではないのです。わたしたちには信じる自由も与えられていますが、同時に信じない自由も与えられているのです。この点が十分に了解されているところにこそ、伝道や論争も成り立つのです。
しかし、それはともかく、聖書の解釈をめぐってパウロたちとユダヤ人たちが論争し、その結果としてキリスト教信仰を受け入れることができた人々が多く起こされたことは、宣教活動にとっての喜びの要素です。わたしたち教会の者たちにとって何がうれしいかと言うと、そこに一人でも新しく信仰を受け入れてくださる人が与えられることがうれしいのです。人の数が増えるということももちろんうれしいことですが、もっと重要なことは、この信仰によって救われる人が起こされるということです。この信仰をもって生きる人が増えることがうれしいのです。ところが、パウロたちの宣教活動には苦しみの要素もありました。そのことが続く個所から分かります。
パウロたちを苦しめたものは、何でしょうか。それを一言でいいますと、パウロたちについての全く出鱈目な宣伝と中傷誹謗です。つまり、人間の言葉です。事実に反する言葉であり、悪意に満ちた言葉です。これが、パウロたちを傷つけ、苦しめたのです。
よく考えてみますと、パウロたちが宣べ伝えているのも言葉です。論争に用いられるのも言葉です。それを口で伝えるか、字に書いて伝えるのか。その字を自分の手で書くか、活字にするのか。手紙にするのか、論文にするのか。書物にするのか、チラシにするのか。人に言葉を伝える方法には、いろんなやり方があると思います。
パウロたちに敵対した人々が用いているのも、言葉です。しかし、この人々にとってはパウロたちが問題にしている聖書の解釈などどうでもよかったのです。どうしたらパウロたちがこの町から居なくなるか、この町にキリスト教の影響が及ばないで済むかということだけが、彼らにとって問題でした。そのために、陰に隠れてこそこそと動き回り、政治的な権力までも利用して、パウロたちの口を封じようとしました。
言葉を用いる人間であるという意味では牧師も同じです。そのため、私が心していることは、言葉を用いる人間であるかぎり、正々堂々と公明正大に語りたいということです。それは言うまでもないことです。
しかし、今申し上げた点と同時に考えさせられたことがある。それは、かの有名な諺が言っているとおり、「人の口には戸が立てられない」ということです。この諺の意味は良い噂より悪い噂のほうが伝わるスピードがはるかに速いということです。噂の内容が事実であるかどうかは問題にならない。とにかく面白ければ、それでよい。人の興味を引くことだけが目的の話のほうこそ持てはやされる社会があるのだ、ということです。
しかしまた、明らかなことは、そのような社会の中に、わたしたち自身も生きているのだということです。社会のすべてがこういう人々たちばかりであると言っているわけではありませんが、社会の中には必ずこういう人々がいるということは、わたしたちの体験的事実です。そうであることをわたしたちはよく知っています。
しかし、です。たとえそのことが事実であっても、この社会がたとえどのようなものであろうとも、わたしたちは、この社会の中から逃げ出すことはできないのです。そして、わたしたちはどんなことがあっても「この社会に向かって」福音を告げ知らせ、神の言葉を語り続けなければなりません。その理由ははっきりしています。神の言葉を受け入れず反発する人々も「社会の中に」必ずいますが、神の言葉に飢え渇き、救いを求めている人々もまた「社会の中に」いるからです。そのような単純な事実の前にわたしたちはしっかり立たねばなりません。そこで怯んではならないのです。
ですから、このことを考えるとき、パウロたちの宣教活動には苦しみの要素があったというこの点は、今のわたしたちにとっても何ら変わることがない、言うなれば教会の歴史と共にある、あるいは人類の歴史と共にある、まさに避けがたい現実であったということをご理解いただけると思います。教会と伝道者たちには、福音を受け入れる人も・福音を受け入れない人も共存しているこの社会の前に、勇気をもって立つことが求められているのです。だからこそ、パウロたちの宣教活動にも苦しみの要素があった。その苦しみから逃れる道はなかったのです。
来年(2009年)は、日本にプロテスタント信仰が宣べ伝えられてから150周年に当たります。来年は私ども日本キリスト改革派教会もかかわるいくつかの記念会が行われる予定になっています。最初に来たのは「アメリカ・オランダ改革派教会」(Dutch Reformed Church in America)、今は「アメリカ改革派教会」(Reformed Church in America)と名称を変更している教派から派遣された宣教師でした。
考えてみたいことは、150年前の日本に来た宣教師たちはパウロたちと同じ気持ちだったのではないでしょうかということです。日本に来た彼らの目の前に(隠れキリシタンたちはともかく)キリスト者は一人もいなかったのです!
宣教師たちの側にも、日本で最初に信仰を受け入れた人たちの側にも、さまざま闘いや苦労、悩みや葛藤や失望があったことが知らされています。その苦しみは今のわたしたちに至るまで続いていますし、これからも続いていくでしょう。わたしたちも苦しんでいる。だから彼らの気持ちが分かる。そういう面もあるのです。
しかし、いずれにせよ、はっきりしていることは、もし150年前に宣教師たちが日本に来ていなかったら今のわたしたちはなかったということです。日本のプロテスタント教会は存在しなかったのです。苦しみを味わった人々のおかげで、わたしたちは今、救われているのです。伝道に伴う苦労は、神の恵みなのです。
(2008年1月27日、松戸小金原教会主日礼拝)
今週のまとめ
かれこれ10年以上、私の頭と心の中で渦巻くばかりであった事柄を一気に吐露した一週間でした。もう少し煮詰めてみたいのですが、その時間がありません。せめてPDF文書にしておけば、全体を検討しなおすときに楽かもしれないと思いました。一つにまとめてみて分かったことは、この一週間で書いた内容は、私の読み上げ速度ならば、アドリブを交えながらでも、90分くらいで終わってしまう分量であるということです。つまり、大学の講義でいえば、たった一回分。まだまだ先は長そうだと、「見上げるほど長い上り坂 今僕の目の前に」と、コブクロの「蒼く 優しく」を口ずさみました。「引き返してしまえばまた 後悔だけが僕を待ってる下り坂」(あ~)。
「実践的教義学」の構想(1) 教義学と実践神学の統合の提案(ドラフト)
http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics001.pdf
目標は「教義学の改革」である
私の提案の目的は、他者の領域を侵犯することではなく、教義学そのものの改革です(その中には『教義学教本』の全面的改訂という面も当然含まれます)。すなわち、「教義学の実践化」であり「日常生活化」です。それは、20世紀的な「キリスト論的集中の教義学」が温存されたままでは決して実現しえないものであると、私は信じています。固定された同一の視点から繰り出される言葉が九千頁の書物を生み出すことができたとしても、それが人の視野を広げることにはならず、かえって狭める結果をもたらすのです。我々の教義学改革を遂行するためには、「キリスト論」よりももっと広い視野を持っている、「三位一体の神のみわざ」の全体を考察対象とする、そのような根本構造を有する教義学の(古くて新しい)枠組みが再構築されることが必須的な前提条件です。そしてもしそのような枠組みを獲得できるならば、その中に現行の実践神学部門が扱っている考察領域のすべてがすっぽり収まるでしょう。「実践的教義学」が現行の実践神学的課題のすべてを扱い尽くしてしまうとしたら、その後に残っている実践神学プロパーの課題は何でしょうか。説教者のヴォイス・トレーニングとか、人格的コミュニケーションの方法とか、牧会的カウンセリングのテクニックとか、礼を失しない挨拶の仕方などだけかもしれません(いずれも間違いなく重要な課題ではあります!)。しかし、「実践的教義学」のほうがまだ形をなしていない段階ですので、先走って大口を叩くことは控えなければなりません。しかし、そのような広大な視野と考察内容を有する教義学の(もちろんきわめて荒削りでプリミティヴな)前例を過去の歴史の中から探しだすとしたら、「改革派教義学」(dogmatica reformata/ Gereformeerde Dogmatiek/ Reformed Dogmatics)以外には見つからないのです(疑う向きがあるなら、御自分でお探しになったらよいと思います)。過去の荒削りの「改革派教義学」において思索されてきた事柄の核心(ザッヘ)を、我々現代人の「庶民的生活感覚」の奥底に至るまで届かせること。そのために重要な「翻訳」(translation/ vertaling)という手続きにも丁寧かつ熱心に取り組むこと。事柄の核心に触れて人は感動し、喜びと感謝の生活を開始する。そういう展開を期待しているのです。
ただちに制度を変えてほしいと願っているわけでもない
私が思い描く「実践的教義学」の構想、すなわち、教義学と実践神学との統合についての提案は、神学大学や神学部や神学校で営まれている「実践神学」の講座を廃止すべきであるとか、教師学科試験の科目から「実践神学」を除去すべきであるというような、現行制度の改変を要求しようとしているものではありません。そのような要求は、前述のとおり、時代の逆行を意味するものでありましょうし、現実のニードに反するものでしょう。しかしまた、この提案は実践神学に対する教義学の側からのチャレンジを意味していないかと問われるなら、「そういう意味もある」と答えねばならないと考えています。私自身は、主に20世紀という一時代において通用してきた実践神学的思索を全く支配してきたと思われる、非常に一面的な仕方でなされてきた「キリスト論的基礎づけ」はもはや不可能であると確信しているのです。この場面では名前を挙げてはっきり言うほうがよいと思っています。カール・バルトやディートリヒ・ボンヘッファーの説教学、あるいはエドゥアルト・トゥルンアイゼンの牧会学などは新しい時代の幕開けを機に終わりのときを迎えるべきであったということです。「実践神学のキリスト論的基礎づけ」のすべてが間違っていると言っているのではありません。それを一つの入口もしくは出発点にすることは大切なことでもあります。しかし今さら確認するまでもないことは、「キリスト論」(leer van Christus/ Christologie)は教義学の一全体の中の一項目にすぎないということです。教義学のすべてが最初から最後まで「キリスト論」一色であるわけではありません。教義学は「キリスト論」よりも広く大きいものであり、それは神学のすべてのみならず、「三位一体の神のみわざ」(opera Dei trinitatis)のすべてを視野におさめることを本旨としているものです。また、こうも言いうる。キリスト教は「キリスト論」よりも広く大きいものです。バルトが主著『教会教義学』などの中で繰り返し「キリストと関係ないような神学はキリスト教ではない」と述べていることは、完全な間違いではありませんが、あまりにも一面的で、狭すぎます。この問題について今ここで詳述することはできませんが、短く書き置くとしたら、そのようなキリスト論への一面的な集中は我々の認識を即事的(ザッハリヒ)なあり方から遠ざけるように機能してきた面もあると私は考えています。要するに、あらゆることをキリストの名に結びつけようとする人々が現れ、またしばしば強引なこじつけが行われてきたこともあるということです。しかしまた、そのようにしてキリストと結びつけられた現実についての解釈は、しばしば絶対的な意味を含ませようと意図されているゆえに、反論不可能なものにもされやすいのです。批判を許さないゆえに、反省も、そして反省に基づく改善も、起こりようがないのです。反対に、キリストとの関係に言及しないような言説のほうはキリスト者の生にとっては何の意味も関係もないものであるかのように判断されることもありえたということです。何か出来事が起こるたびに「これとキリストとの関係は何か。これとキリストとの関係は何か。これとキリストとの関係は何か」と、いつも考え込む。その思索と瞑想の中で得られた「キリスト論的認識」(Christological knowledge)というべきただそれだけが(いわば)絶対的な真理であり、それ以外の認識については(絶対的なものの前では価値を持たない)相対的な真理であると判断されることがありえたということです。バルトやトゥルンアイゼンやボンヘッファーたち自身はもっと広い認識や判断力を持っていたに違いないのですが(彼らの神学思想に心酔するあまりこの神学者たち自身の弁護をしようとするファンクラブ会員のような人々との論争に勝てる自信はありません)、彼らの書物を繰り返し熟読し、それに心酔することによって「視野が狭くなった」人がいると、私には思われてならないのです。しかし、ここまで来ると余計なお世話の域に達してしまっているかもしれません。私の「実践的教義学」の構想が現在の実践神学へのチャレンジを意味していること自体は否定しませんが、何らかのレスポンスをしていただけるのか全く無視なさるのかは実践神学の人々の自由です。彼らの尊厳は何ら毀損されるべきではありません。ただ、彼らの姿をやや遠目に見ておりまして、今の実践神学は基礎づけの根本的な差し替えが必要ではないか、そのようにしないかぎり、彼らの将来はどんどん先細っていくばかりではないかと感じて心配しているだけです。しかし繰り返し申せば、私の主張の意図は実践神学の講座を廃止すべきであるとか教師試験科目から実践神学を外すべきであるということではありません。仮にそのような制度変更の提案ができる日が来るとしても、私の見方では、22世紀頃ではないかと思っています。
2008年1月26日土曜日
前例がないわけでもない
「実践的教義学」の構想について、やや得意げな調子で長々と書いてきました。しかし、前例が全くないと思っているわけではありません。私の関知するかぎりのことですが、現代オランダの、主として実践神学の側に、これまで書いてきたことにかなりの点で似ている例があります。すでに言及したオランダプロテスタント神学大学総長でユトレヒト大学教授であるヘリット・フレデリク・イミンク教授(prof. dr. Gerrit Frederik Immink)の主著『信仰論』(原題In God gelovenを直訳すると『神を信じる』)や、長くアムステルダム自由大学神学部で牧会学を教えてこられ、今は引退しておられるヘルベン・ヘイティンク先生(dr. Gerben Heitink)の主著『実践神学』(Praktische Theologie)などのなかに繰り返し出てくるpraktische-theologische wetenschap (英訳すればPractical-Theological Science)という表現が、それです。強いて日本語に訳すとしたら「実践的・神学的学問」でしょうか。旧来の「実践神学」という語の「実践」と「神学」の間に中黒を入れただけです。しかし、そのような解決法では日本語として何のことかさっぱり分からないこと、またイミンク先生やヘイティンク先生がpraktischeとtheologischeの間に小さなハイフンをつけている意図の深いところを日本語として表現しようとする場合、小さな中黒一つ付けて事足れりとすることで許されるとはどうしても思われないことなど、いくつかの点で不満や心配が残ります。また同じハイフン付きのpraktische-theologische wetenschapという表現にしても、イミンク先生とヘイティンク先生の間でその意図が微妙にあるいは明確に異なっているとも感じられるため、事柄がいっそう複雑化します。イミンク先生がおっしゃる場合のpraktische-theologische wetenschap(実践的・神学的学問)は、私の思い描く「実践的教義学」(Practical Dogmatics)のイメージに非常に近いものです。かたや、ヘイティンク先生の場合のそれは、むしろ「神学的行動理論」(Theological Action Theory)というべきものです。この違いは、同じ実践神学者とはいえ、イミンク先生が主に「説教学者」であるのに対して、ヘイティンク先生のほうは主に「牧会学者」ないし「牧会心理学者」であるという差異から生じているものかもしれません。イミンク先生の『信仰論』もヘイティンク先生の『実践神学』もいわゆる「実践神学概論ないし基礎論」の教科書として書かれたものですが、前者(イミンク)の論述のかなりのスペースが聖書的・教義学的裏付けのために割かれているのに対して、後者(ヘイティンク)の論述においては、教会史や神学史や哲学史を含む思想史的裏付けのために割かれています。しかし、以上の例は、前述のとおり実践神学側に見られるものです。それでは教義学側ではどうか。真に「実践的」(praktisch)であることを徹底的に追求している教義学(dogmatiek)の前例があるでしょうか。私はそのような例を寡聞にして知りません。「実践的教義学」とは、いわゆる「信徒向けの実用的で分かりやすい教理入門書」のことではありません。そのような入門的な書物には価値がないと言っているわけではなく(それは全くの誤読です)、「実践的教義学」の意図はそのようなものではないと言っているのです。それではそれは何なのか。ここまで書いたことでお分かりいただけそうなことは、私の「実践的教義学」の構想には、現代オランダの最も代表的な実践神学者たちが続けてこられた血の滲むような努力に対する、教義学側からの真摯なレスポンスとしての意図がある、ということです。
2008年1月25日金曜日
それはまた「実践神学の廃止」でもない
およそ学問とはすべて、突然ポッと天から降ってくるものではなく、いずれにせよ先人の営みを批判的に継承すべきものであるということは広く了解していただけることでしょう。この理由から、私自身もまた、両者とも古く長い伝統を有する教義学と実践神学との二分野を合体させるという道筋を考えざるをえないために、両者を統合したものであるという意味で「実践的教義学」という名称を、とりあえず暫定的に付けてみただけです。この名称自体にこだわりを持っているわけではありません。私の密かな思いは、この「実践的教義学」こそが「改革派教義学」の本旨を受け継いでいるということでもあります。しかし、事柄の趣旨を明確にするために、ある特色をもった名称を付けることは便利で有益なことでもあるでしょう。名称の意図は、今日日本国内の少なからざる大学に「政治経済学部」や「法経学部」といった学部があることを考えていただくことによって必ずご理解いただけることです。政治学と経済学、法学と経済学など、一見すると異なる学問領域どうしが同居している学部です。学校経営上の苦肉の策としての統合という面もあるのかもしれませんが、表向きに語られていることは、たいてい、統合の積極的な側面です。経済問題に無頓着な政治も、反対の政治問題に無頓着な経済も、とても危なっかしいものであるというふうに語られます。あるいは、政治や経済には必ずや法的裏打ちというものが不可欠であるというふうに語られます。「実践的教義学」の主張にも、これと似たような理由があります。いずれにせよ、統合の積極的側面を強調したいと願っています。説教、牧会、宣教、礼拝など(旧来の)実践神学的諸課題に対して無頓着ないし無関心であるような「教義学」は、危なっかしいとかいう以前に、存在理由さえ不明です。逆も然り。教義学的基礎づけを失った一般的行動理論としての「実践神学」は、「神学」を自称することを早くやめるべきです。教義学と実践神学との関係は、《統合》という帰結をほとんど必然化していると確信できるほどに密接不可分の関係にある。これが「実践的教義学」という名称の意図です。しかし、教義学と実践神学の《統合》を語るときに予想される反発や反論の多くは、おそらく実践神学の側から出てくるものであろうと思われます。その理由を説明するのは簡単です。両者の歴史を比較すると、教義学のほうがはるかに古く、実践神学はごく最近のもの(と言っても二世紀ほど前)です。そもそも「実践神学」は教義学の中から分かれ出たものです。あるいはもっと根源的な言い方をすれば、そもそも「神学」には「教義学」しか無かったのです。この点から言えば、教義学と実践神学を統合すべきであるという私の提案は、歴史の逆行であり、時計の逆回しであり、実践神学の側から見れば、自分たちが長年かけて築いてきたものの「廃止」を意味するのではないかと感じられるでしょうから、その点からの反発を呼び起こすものになることは必至です。しかし、私の意図はそういうことではありません。この点の断り書きは、繰り返し強調しなければならないことでしょう。何より、今の欧米の現実が私の行く手を阻みます。「実践神学」は魅力的な学としてもてはやされていますが、「教義学」は全く人気がないものになっているということを、私は知っています。専任の「教義学者」は存在しないが「実践神学者」はたくさんいるという神学部や神学校が欧米にはたくさんあるということを知っています。教義学の書物のほうは全く売れませんが、実践神学の書物は飛ぶように売れています。その現実を知らずに言っているわけではないのです。「実践神学の廃止」など言おうものなら、その次の瞬間に何が起こるかを分かっているつもりです。「教義学」というのが今でも存続する「学問」であると認識しているキリスト者は、今の世界の中ではごく僅かになっていることも分かっています。「教義」とかそういうのは、ハリー・ポッターの通うホグワーツ魔法学校の教科書に書いてあるようなことではないかというくらいに思われている。しかし、私自身の願っていることは「実践神学の廃止」ではなく「教義学の実践化」です。そして、この「教義学の実践化」が目指していることは、近年流行している表現でいえば、「教理と生活の一致」であり、「生活化された教理」です。あるいは、現在のオランダプロテスタント神学大学総長であるF. G. イミンク教授の教える「生活として営まれる信仰」(geleefde geloof)です。ただし、イミンク先生は「実践神学者」です。イミンク先生御自身が「教義学の廃止」までお語りになることはありませんし、そのようにお語りになることはありえないことだと思いますが、御自身を教義学者と称されることも、おそらく決してないでしょう。私はイミンク先生を心から尊敬している者ですが、あえてイミンク先生の反対の道を進みたい。「実践神学者になりたい」とはどうしても思えない。教義学(しかも「改革派の」教義学)に魅了され続けています。また私は「教理の実践化」や「教理の生活化」ということを語るだけでは満足できません。「教義学的思索そのもの」の実践化ないし生活化を求めています。その地点に到達するまでは、我々人間の精神や肉体の存在が真の満足や安心を得ることはできそうもないと感じています。加えて言えば、「教義学」は教義学者だけによって営まれるものではありえませんが、しかしまた、少なくとも「教義学者」と呼ばれるこの道の専門家たち自身が人生の楽しみや遊びを十分に満喫しないかぎり、「教義学の実践化ないし生活化」という目標は、達成されることも、完成の日を見ることも、ありえそうにありません。教義学を最大限に実践化すること。まさに文字通りの「庶民的生活感覚」と深く刺激的に絡み合えるほどまでに、教義学を日常生活化すること。人生を楽しむ教義学者が世に立つこと。そして、そのようにして「教会の学としての教義学」(Dogmatik als Wissenschaft der Kirche)が、このわたしの人生の楽しみになること。この切なる願いが、今や、私の生きる力、人生の希望になっています。
それは「教義学的実践神学」でも「教義学の闘争理論化」でもない
明日の夕方も東京です。アジア・カルヴァン学会の運営委員会です。今年もまた忙しくなるのでしょうか。
さて、「実践的教義学」について書きながら同時に考えていたことは「教義学的実践神学」(dogmatische-praktische theologie)のほうはどうだろうかという問題です。
もちろんそういうのは十分ありうるものでしょう。そういうものを実際に見た記憶があります(そういうことを主張している本を見た記憶があるという意味ではなく、そういう調子の実践神学がどこかの教室で教えられていた場面を見た記憶があるという意味です)。
しかし、「教義学的実践神学」とは何かを考えはじめると、ぼんやりとではありますが私には余り興味を持てそうになさそうなものが心に浮かんできます。悪い意味での「独断論的(dogmatische!)実践神学」のようなものが。
そちらの方向に進んでいくならば、実践神学の自治性や固有性を阻害することになってしまうのではないかと危惧を感じます。
また「教義学的実践神学」と聞くとやはり、「教義学」のほうは純粋理論であるとみなされ、その純粋理論の実際的な応用が「実践神学」であるとみなされているかのようです。しかし、私の考える「実践的教義学」は、そのような旧来の固定的な思想の枠組みを打破するものです。
「実践的教義学」は、もちろん教義学です。しかし、その教義学は、現実世界から受ける影響やすべての不純物から浄化され精錬された真空の中にのみ成立しうる「純粋理論」というようなものではありえません。全く正反対です。
それではそれはどういうものか。ファン・ルーラーが好んで用いる表現を借りて言えば「庶民的生活感覚」(gewone levensgevoel)が、思索の奥深くにしっかりと組み込まれているような教義学です。御言葉の奉仕者が語る言葉、抱く気持ちの中にそのような生活感覚ないし感性がしっとり馴染んでいるようなところに生まれ出てくる教義学である、と言っておきます。「生活臭がする教義学」あたりが最も端的なキャッチフレーズかもしれない。
そういう汗臭そうなの、あるいは泥臭そうなのはご勘弁願いたい(そうでなくても抹香臭く、胡散臭いのに)と敬遠する向きがあることは、よく分かっているつもりです。
しかし「実践的教義学」と言っても、私に限っては、「実践」の名のもとにあって、緻密な理論と政略性を有するギラギラした「行動理論」(action theory)をかび臭い教義学の中に組み込むことによって、あるいはそのような「実践的行動理論を教会用語に翻訳すること」によって、社会的闘争の神学の構築をめざすべきであるというような過激なアクチュアリズムを主張したいわけではありません。
そのような作為的で計略的で全く押しつけがましく尊大で狡猾なやり方は、それこそ私の感性には全く合わないものです。そういうのは、どうか、今すぐにでもお引き取りいただきたいとさえ願っています。
私の求めている道は、もうちょっと穏やかで、公明正大で、正々堂々としていそうなものです。穏やかだけど、人の心の中の疑問や悩み、悲しみや嘆きを深く読みとる力を持っている教義学、のようなもの。個人と社会の現実の壁を乗り越える勇気と知恵をもった教義学、のようなもの。ずばり「これである」と表現するのは、とても難しいものです。
2008年1月24日木曜日
「実践的教義学」とは何か
教義学と実践神学の合体形としての「実践的教義学」(praktische dogmatiek)というものを考え始めたのは神戸改革派神学校で学んでいたときです。そこで得た体験は、教義学者による説教学講義でした。それは実に素晴らしいものであり、それまで学んできたいかなる説教学講義よりも優れたものであり、あらゆる面で他者を凌駕していました。そのとき私に判明したことは、全く単純な事実でした。すなわち、説教学は徹底的に教義学的基礎づけを必要としているということでした。あるいは、こうも言いうる。実践神学の一教科としての説教学はむしろ教義学の一項目としての「説教論」(leer van het preek/ doctrine of the preaching)であるべきであり、できれば教義学における「聖霊論」(pneumatologie)という大項目の内部に位置づけられるべきであるということでした。また、その後まもなく私はファン・ルーラーの研究に没頭しはじめるのですが、オランダ・アペルドールン神学大学の引退教授J. J. レベルのユトレヒト大学神学博士号請求論文『聖霊論的視座における牧会学―A. A. ファン・ルーラーの思索に基づく神学的レスポンス』(1981年)を読んで感動を覚えました。それによって、牧会学(牧会論)もまた教義学における「聖霊論」にこそ位置づけられるべきであるということが判明しました。さらに、宣教学(宣教論)についても同様のことがありました。やはりファン・ルーラーを題材にした学位論文であるJ. M. ファント・クルイスの『宣教運動としての聖霊―宣教論の今日的議論における改革派神学の役割と責任についての研究』(1997年)に触発され、宣教論が教義学的(聖霊論的)基礎づけをいかに必要としているかを認識しました。こうして私は、説教学、牧会学、宣教学といった旧来は実践神学部門の主要教科として知られてきたものは、すべて教義学の中に、とりわけ「聖霊論」の中に吸収されるべきものであると考えるに至りました。しかしまた、このように私が考えることで目指していることは、旧来の実践神学部門のすべてを教義学が吸収することによって実践神学的考察領域そのものの固有性や自治性を妨げることにあるのではありません。事態はむしろ逆で、教義学こそが、しばしば陥りやすい抽象性のすべてから解放され、本来有すべき「実践性」を回復することにあります。私が抱く単純かつ根本的な問いは、「教会の学としての教義学」(Dogmatik als Wissenschaft der Kirche)が、どうして説教や牧会や宣教といった教会の現場の具体的・実際的・現実的課題から切り離されて論じられてよいだろうかということです。また、実践神学は単なるハウツーに終わるものであってはならないとも思います。「聖霊論」は教会論を当然内包しますが、教会論に尽きるものではありません。「聖霊論」は内在的三位一体論(父・子・聖霊)と経綸的三位一体論(創造・贖い・聖化と完成)とを前提するものであり、とくに「創造」(Creatio)と「贖い」(Redemptio)のジンテーゼとしての「聖化と完成」(Sanctificatio et perfectio)のみわざを「聖霊」が担うという充当論的理解に立ちます。つまり、我々の聖霊論は、「聖霊」とは「贖いによる創造の本来性の回復としての再創造(recreatio)」を生起する三位一体の第三位格であるという理解に立つのです。その場合、聖霊のみわざによって「再創造」が生起する領域は教会の壁の内(intra muros ecclesiae)のみならず、教会の壁の外(extra muros ecclesiae)を含むことは明白です。そして「教会の壁の外」とは、言うまでもなく、「被造的現実」(created reality/ geschapen werkelijkheid)のすべてであり、換言すれば、神が創造された「世界」そのものです。こうして「聖霊論」とは教会論と(いわば)世界論とを併せ持つものであり、広大な視野を我々に提供するものであると説明することができます。その中に位置づけられる説教論、牧会論、宣教論の基本性格とはどのようなものでしょうか。私の考えはここでも単純です。教義学からいくぶん切り離されたところで論じられてきた従来の実践神学的説教学がしばしばその面に偏ってきたと私には思われる「教会の内から外なる世界へ」という(多くの場合《世俗主義批判》を帰結する)視線は、「実践的教義学」における「聖霊論」の思惟過程のなかでいったん反転され、「教会の外なる世界から教会の内へ」という(ある意味での《教会批判》をうながす)視線を正当な神学的考察対象として受け入れることができるようになります。牧会学、宣教学においても然り。このようにして、私の思い描く「実践的教義学」は、教会と世俗主義は常に対立しあい、罵倒しあい、憎み合うべきものなどではありえず、むしろ対話と協力の関係をこそ積極的に構築していくべきであるという(今日においては広く了解されている)事実を、論理的・神学的に示しうるでしょう。
若き教義学者へ 追伸
「補助学」(Hilfswissenschaft)としての教会史研究という点について。私の体験から見た問題点は、とっくの昔に語り尽くされていることかもしれません。ちなみに私は、教会史ないし歴史神学の中に「狭義の聖書学」を含めるべきではないかと考えています。聖書学と教会史とに共通する方法論的基盤としての歴史学は、組織神学や実践神学に比べると、学術的体裁を取りやすいものです(事実、現在の日本の神学大学や神学部や神学校の「紀要」に掲載されている論文の多くが歴史学的体裁をとっています)。しかし、まさに学術的体裁を取りやすい分、研究者自身の「実存」がストレートには問われない面があります。「学問の衣」をまとって、シレッとしていられるところがある。語学が達者である。高度で難解な論理を自在に操ることができる。しかし人格的・倫理的には全く破綻している。教会には通わない。そのような「教会史研究者」にも、実際に出会ったことがあります。教義学と実践神学、あるいは両者を合体させた「実践的教義学」は、間違いなく「実存的学問」であると表現できます。「あなた自身は何を信じ、どのように伝えようとしているのか」がはっきり分かるものです。常に闘いの矢面に立ち、あるいは常に十字架の上に張りつけにされているような「学」です。私が出会ってきた典型的な歴史的相対主義者の何人かは、「あの人はこう言っている、この人はこう言っている」と紹介するだけでした。「分かりました。それでは、先生御自身はどのように信じておられるのですか」と質問しても、愚問をあしらうような目でにらまれるばかりで、答えてもらえない方々でした。しかし、歴史研究を「補助学」と呼ぶのは、それを「不要」とみなすことではなく、むしろ「必要不可欠」であり、「助けになるもの」とみなすことでもありましょう。ただ、気持ちとしては、歴史研究の部分を(バルトと同じように)小さなポイントの字で書き、教義学の部分を大きな字で書いてほしい。私が考えているのはその程度のことであり、ある意味で技術的なことにすぎません。
2008年1月23日水曜日
若き教義学者へ
私の頭と心を支配している一つの事柄は、今が日本における改革派神学の「再興期」なのか、それとも「衰退期」なのかの判断は甚だ微妙であるということです。だれか一個人の責任であると言っているわけではありません。国際的にも似たような現象があると感じられます。一言でいえば、現在の改革派神学は「世俗化」(Secularization/ ontkerkelijking)の問題に対して余りにも無策すぎるのではないかと思われてならないのです。バルトやモルトマンのように(「WCCやWARCのように」と言い換えてもよいかもしれません)なっていけばよいとは思っていません。「世における教会」・「世と共にある教会」・「世のための教会」を語ることによって事実上の教会解体論を訴える人々を、私は痛いほど見てきました。しかし他方、だからといって我々が「教会への引きこもり」を是としてよいわけでもない。教会や神学校を「マサダの要塞」にしてしまってはならない。むしろ我々はキリスト者と自分自身に向かって、ファン・ルーラーのように「世を前にして立つ勇気を持て!」(Heb moed voor de wereld!)と呼びかけねばならない。「世の問題から目を背ける罪」について語らなければならない。しかも、私が「世の問題」という場合には、言うまでもなく政治や社会の問題を含めて述べようとしているのですが、「世における教会」・「世と共にある教会」・「世のための教会」というものが常に「世に抵抗する教会」・「世を罵倒する教会」・「世を憎む教会」という様相を呈するだけのものであってはならないと思っているのです。極度の世俗化受容に基づく「教会解体論」は暴力です。しかしまた、かたや「教会の(一方的な)世俗主義批判」のほうも、私に言わせていただけば、れっきとした暴力の一種なのです。具体的に言えば、世と教会との板挟みの位置で苦しんでいるキリスト者たちの精神と肉体を、我々の語る「説教」が不断に・継続的に・連続的に攻撃し続けた結果、最悪の場合は破滅の道に人を追いやることがありうるのです。現在最も気になっていることは、今の多くの改革派神学者が取り組んでいる「(改革派的)霊性の神学」の行方です。二点、率直に申し上げます。私が気になっている第一の点は、それを探究していく手法として「源泉複初」(ad fontes)の道を進むことは妥当かという問題です。ある人々は「カルヴァン」へと複初する。他の人々は「第二次宗教改革」に。あるいは「カルヴァン」と「第二次宗教改革」の両方に、といった具合に。歴史的源流に遡ることが学問において不可欠であることは、当然です。しかし、私はここで急にバルト主義者になります。教会史ないし歴史神学の研究は、教義学にとっての「補助学」(Hilfswissenschaft)です!「教義学」と「歴史神学」はもはや別の分野であるとみなされるべきです。「教義学」は、むしろ「実践神学」のほうにより近く立つべきです。しかしまた、「(改革派的)霊性の神学」の教義学的・実践神学的取り組みにおいて私が期待していることは、内面性の問題にとどまらないこと。(あえていえば)外面性の問題を考え抜くこと。さらに、内面性と外面性との相互関係や交換運動を把握することです。すなわち、“内から外へと出ていく運動”、あるいは“内と外との間で不断に繰り返される往復運動”、さらに“「内から外を見る視点」と「外から内を見る視点」との交換運動”などを、精密かつ広範にとらえつくすことです。それは、概念的にはファン・ルーラーの主張する「アポストラートの神学」や「聖霊論」の中にすべて含まれてしまうものかもしれません。しかし、私が期待していることは、(日本語に訳されるところの)「伝道」とか「教会形成」というような次元をもう少し超えたところです。「伝道」にせよ「教会形成」にせよ、それらの概念において支配的な視点は「教会の視点」であり「牧師の視点」です。悪く言えば「教会経営者の視点」です。この視点を逆転させてみる。ごく卑近な例で言えば、「教会に行ってみたいが何となく敷居が高いと感じている人々の視点」とか、「教会に通い始めてみたが古参の人々が教会のまんなかにどっかり座っていて新入りには冷たいと感じたので通うのを止めた人々の視点」とか、「チラシをもらって恐る恐る礼拝に行ってみたが、説教が専門用語の羅列でチンプンカンプンだったので馬鹿にされていると感じられて腹が立った。あんなところに二度と行くものかと心に誓った人々の視点」など(他にもたくさんあると思います)。これらの視点から見えるものを「教義学的・実践神学的に」評価していく。そして、もちろん大いに反省材料とする。一方のキリスト者と教会の存在を「外から」見ている人々が持っている真理と他方の純粋神学的ないし教義学的真理との両者は、カントの言葉を借りれば「アンチノミー」(二律背反)であると私には思われます。私が気になっている第二の点は、「(改革派的)霊性の神学」は社会倫理を生み出すことができるでしょうかという点です。ある意味で熊野義孝的な問いかもしれません。これは私が以前から申し上げてきた「現代の改革派神学には一種独特のセンチメンタリズムがある」という意見の裏側にある問いでもあります。改革派センチメンタリズムは、「内面性への引きこもり」をますます助長する道ではないでしょうか。「慰め」も「喜び」も、まことに結構なことではあります。ファン・ルーラーに「喜びの神学」があるという点は、私も声を大にして語りたいことです。しかし、その面ばかりを極度に押し進めるだけならば「自慰的である」との非難を必ず受けるでしょう。純粋神学の砦に立てこもり、自分自身と自説の理解者たちのみを慰め、励まし、喜びを分かち合う。その種の(悪い意味での)「ゲットー化」とはちょうど正反対の道を進んでいくことが我々の課題ではないかと私は考えています。しかも、それを私はあくまでも「改革派教義学」の枠組みの中で考えていくべきであると信じています。
静かなる、僅かなる前進
今日は、私が最も尊敬している日本の若き教義学者に宛てて、非常に長いメールを書きました。ありとあらゆることを思いめぐらしながら一生懸命に書いたので、ちょっとくたびれました。今日も部屋の中に響いている音は、私の打つキーボードの音だけです。まさに近づきつつある新しい時代の足音がズシンズシン鳴り響いているのは、私の心の中だけです。道は開けるでしょうか。このところ、カントを読むことができません。伊東美咲さんも米倉涼子さんも見ることができません。テレビそのものを見ていないわけでもなく、昨日と今日と続けて見たのは「恋ノチカラ」(主演 深津絵里さん)の再放送だったりする。数年前、夢中になって見たドラマです。今年もこんな感じで、集中力のない、ありとあらゆる方向へ意識が拡散していく生活を送ることになるのでしょう。ある先生から「牧師をするか勉強するかは、あれかこれかだよ」と教えられたことがあります。「牧師をしたことがない神学者」も「神学を学ぼうとしない牧師」も私にとっては全く受け入れることができない存在ですが、「意識の無際限の拡散」と「意識を集中して書物を書くこと(論文執筆や翻訳などを含む)」はたぶん決して両立しえない二極であることも体験的かつ実証的な事実ではあります。私の性格の問題もあるでしょう。毎年一冊ずつといったペースで次々と著書や訳書を物していく「神学的牧師」の存在は、私の目から見ると、奇跡以外の何ものにも見えません。
2008年1月22日火曜日
日記を書かないほうが良さそうな日
日曜日はやはり日記を書くことができませんでした。書けない理由にも気づきました。礼拝説教と結婚準備会と受洗準備会を行いました。結婚準備会は、結婚式そのものの準備もさることながら、若い二人の一生の問題を聖書の教えに照らして考えることの大切さをしっかり語っていますので、まさに求道者会さながらです。ご本人たちもそのような学びのときを喜んでおられます。受洗準備会は、これをしているとき「牧師をしていてよかった」と最も実感できる喜びの瞬間です。私にとってその実感は、礼拝説教のときに感じるもの以上です。イースター礼拝での洗礼式をめざしています。礼拝説教は、毎週5500~6000字程度の原稿を書きおろし、すべてをブログにアップし、希望者にメールマガジンで配信しています。どのみち、二度と同じ原稿を同じ講壇の上で読み上げることは、私の場合はありません。そういうことはしない主義です。どれほど時間をかけて書いてもわずか30分足らずで読み終わる、一生に一度かぎり用いるだけの原稿です。そういうものは、牧師室の書棚にファイルして眠らせておくよりも、いつでもだれかに読んでいただけるようにウェブ上にさらしておくほうが意味があるのではないかと考えた末の公開です。そもそも説教とは公開されるべきものです。説教とは「パブリック・スピーキング」なのです(石丸新先生の『パブリック・スピーキングとしての説教』(聖恵授産所出版部、1990年)は優れた書物です)。「公開できない説教」は言葉の矛盾です。しかも説教は本来「無料で」提供されるべきものです。説教者がいただく謝儀は「講演料」ではありません。有料で書店に並べられている「説教集」には、言葉の矛盾があるような気がしてなりません。いつでもだれでも無料で読むことができる「インターネット説教集」は現時点においては最良の提示方法ではないかと思っています。しかし、です。結婚準備会と受洗準備会は「公開できないもの」あるいは「公開してはならないもの」です。それは個人情報であり、守秘事項です。日曜日の仕事において牧師たちが扱っているものは、「地の果てまで公開されるべき事柄」(説教)だけではありません。ちょうど正反対の「決して公開されてはならない事柄」(牧会)をも扱っているのです。日曜日に日記を書くことができない理由は、私の場合、どうやらこのあたりにありそうだと気づきました。三日以上続けるために、その時その時の関心を率直に書くことにした日記です。「公開すべき事柄」と「公開してはならない事柄」が私の頭と心の中いっぱいに詰まっている日曜日には、この日記を書くべきではない。うっかりポロリしてしまうかもしれません。
2008年1月20日日曜日
「宣教と家庭」
http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2008-01-20.pdf (印刷用PDF)
使徒言行録16・25~40(連続講解第42回)
日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康
今日の個所のパウロとシラスがいる場所は、フィリピの町の牢の中です。その中に閉じ込められています。彼らはなぜ、このような場所にいるのでしょうか。経緯は先週学んだとおりです。占いの霊(ピュトンの霊)に取りつかれていた女性がパウロたちとの出会いによって占いの仕事をやめるという出来事が起こりました。すると彼女の占いによる収入の道が途絶えたため、それを当てにして生活してきた主人たちが、パウロたちを逆恨みしました。パウロたちは捕まえられ、役人たちのところに連れて行かれ、牢の中に閉じ込められてしまったのです。
ところが、です。今日の個所に描かれているパウロとシラスの姿はあまり苦しんでいるようには見えません。うれしそうとか楽しそうというのは、当たらないかもしれません。しかし、彼らは牢の中で賛美歌をうたい、また神に祈っていたというのです!
「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。『自害してはならない。わたしたちは皆ここにいる。』」
パウロたちはなぜ、牢に閉じ込められてもそういうことができたのでしょうか。やはり普通の人とはちょっと違う感覚や能力を持っていたからでしょうか。そうだと認めざるをえない面があると思います。それではそれは何なのでしょうか。この謎を解くヒントは、使徒言行録の次の言葉にあります。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5・41)。そうです、キリストの弟子たちは、キリストの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを「喜ぶ」人々だったのです。
そういうのはどうかしている。おかしな人々だ。そのように見る人々もいると思います。しかし、イエス・キリストの弟子たちにとっては、それはどうもしていないし、おかしなことでもありませんでした。理由ははっきりしています。イエス・キリストというこの方こそが御自身の弟子たちのために辱めを受けることを喜んでくださった方であったということです。イエスさまは弟子たちに裏切られても、イエスさまのほうが弟子たちを裏切られることは一度もありませんでした。そのことを弟子たちは、イエス・キリストの十字架上の苦しみと復活の出来事の後に深く知ったのです。
もう二度とイエスさまを裏切るまい。そのように彼らは決心し、約束し、新しい歩みを始めたのです。パウロとシラスも、まさにキリストの弟子です。彼らはイエス・キリストを信じる「信仰者」であることを、またイエス・キリストの名を宣べ伝える「伝道者」であることを、やめることができませんでした。それをやめることは、イエス・キリストに対する裏切り行為である。イエスさまを裏切るくらいならば、イエスさまのために苦しむ者になる道を選ぶ。それが彼らの信仰告白だったのです。
そしてパウロたちは、牢の中で賛美歌をうたいました。「うるさい」だの「黙れ」だのと罵る人は、そこにはいませんでした。むしろ「聞き入っていた」。賛美歌には、人の心の中の凍りついた部分を溶かす力がある。そのように信じてよいのです。
しかし、そのとき、大きな、また不思議な出来事が起こりました。大地震が起こって、牢の戸がみな開いたにもかかわらず、パウロたちと共に牢に入れられていた囚人たちが、誰一人逃げようとしなかったという出来事です。なぜ囚人たちは逃げなかったのでしょうか。明らかに関連付けられていることは、彼らがパウロたちの賛美歌だけではなく、祈りの言葉をも聞いていたということです。そこでパウロたちが何を祈っていたかは記されていません。しかし、当然考えてよいことは、神に助けを求める祈りであっただろうということです。その祈りの言葉が、すなわち、神に対する信頼と確信に満ちた祈りの言葉が、囚人たちの心に届いた。だから、誰も逃げなかったのです。
ところが、です。それら一連の出来事の中で、激しく動揺した人がいました。牢の番をしていた看守です。
「看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。』二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。」
看守は自害しようとしました。しかし、囚人たちは誰も逃げなかった。おそらく看守の耳にもパウロたちの祈りと賛美の声が聞こえていました。囚人たちが逃げなかった理由がそれであると、看守には分かったのです。そして、看守に分かったもう一つのことがありました。それは、まさにそのパウロたちの祈りと賛美が、自害しようとした自分自身の命を救ったのだということでした。そうであるという事情をはっきり理解できたのです。
だから看守は激しく動揺しました。そしてその動揺がまもなく求道心へと変わりました。「救われるためにはどうすべきでしょうか」。それに対する答えが「主イエスを信じなさい」ということであり、「そうすれば、あなたも家族も救われます」ということだったのです。
ここで少し立ちどまりたいと思います。今日の個所を読みながら考えさせられた一つの点についてお話しします。それは、パウロたちがこのフィリピで苦しみに会い、牢にまで閉じ込められたことの意味です。苦しみそのものに意味などあるわけがないと考えるべきかもしれません。しかし、です。パウロたちが、まさにキリストの弟子として、「イエス・キリストの名のゆえに辱めを受けるほどの者になったこと」から逃げることなく、むしろそれを「喜び」として引き受けた結果として実際に起こったことは、分析すると少なくとも五つあると、私には思われます。
第一は、パウロたちが牢の中にとにかく“入ることができた”ということです。これがどういう意味かは、後ほど説明いたします。
第二は、パウロたちが牢の中に入ることができたことによって、そこに閉じ込められていた人々に、正しい祈りと賛美の声を届けることができたということです。
第三は、パウロたちが牢の中に入り、囚人たちに祈りと賛美を届けることができたことによって、看守の命が守られたということです。
第四は、そのようにして看守の命が守られたことによって、看守のうちに救いを求める心が与えられ、洗礼を受ける決心にまで至ったということです。
第五は、この一人の看守の救いは、その人一人に終わるものではなく、この人の家族や友人たちの救いにつながるものになったということです。
これら少なくとも五つの出来事が、ひとつながりの出来事、一筆書きの出来事のように起こったと見ることができます。しかし、この中で、第一に挙げました「牢に入ることができた」という点は、とても奇妙な言い方であると思われるのは当然のことです。しかし、私が申し上げたいことは、はっきりしています。そのような場所は、普通の人にとっては滅多なことでは入ることさえできないところであるという意味です。
以前もお話ししたことがあると思います。実を言いますと、私も刑務所に入ったことがあります。このように言いますとびっくりなさる方が必ずおられるのですが、私の場合は刑務所教誨師をしておられた先輩牧師の補佐役を務めたことがあるという意味です。妻も当時は牧師でした。生まれたばかりの長男も連れて行ったことがありました。一家揃って刑務所に出入りしました(こう言うとまた誤解されそうです)。クリスマス集会のお手伝いなどをさせていただきました。
普通の人は入ることができない場所です。願って入れてもらうようなところではないかもしれません。しかし、です。もし我々がその中にあえて入っていこうとしないならば、イエス・キリストの救いを知ることも信じることもなく、自分の犯した罪を悔い改めることもないままに一生を終えなければならない人々がいるということについて、教会が何の手立ても祈りも持たないことになってしまうのです。その最初の一歩をパウロたちは踏み出すことができたのだということです。それは、祈っても願っても得ることができない、その意味で貴重な機会でもあるのだということです。
そして、いずれにせよはっきり語りうることは、パウロたちにとってこれらの出来事は全く意図も計画もしていなかったことであるということです。それだけは間違いなく言えます。そもそも、第二回伝道旅行の目的は、第一回伝道旅行のときに洗礼を受けた人々が、その後どのような信仰生活を送っているかを見届けることだけでした(15・36以下参照)。牢に入ることも、看守と家族を救うことも、あらかじめの計画がパウロたちの側にあって起こったことであると語ることは絶対に不可能です。パウロの側から言えば、文字どおりズルズルと巻き込まれるような仕方で牢の中まで引きずり込まれたのです。行きたくないところに連れて行かれたのです。
しかし、ここで考えておくべきことがあります。それは、それではすべては“偶然”に起こったことなのだろうかということです。パウロたちは“運が悪かった”のでしょうか。そういう面もあることは認めなければならないかもしれません。しかしまた、わたしたちの人生には“偶然に起こった”とか“運が悪かった”ということだけでは納得できない面のほうが多いのではないだろうかと私には思われます。
何がどうなっているのかさっぱり分からないようなゴタゴタの連続の中で、パウロたちの側から言えばただのいい迷惑だけだったような出来事の中で、しかし、とにかく一人の命が守られた。この人がとにかく死なずに済んだ。生きる望みが残されたのです。
そして、ここでこそ重んじられるべきだと私が考えるのは、要するに、この看守の視点です。つまり、「わたしは救われた」とはっきり自覚することができた人自身の視点です。一連の出来事は、少し後ろに引いたところで傍観者的に見ている他の人々の目から見ると、「すべては偶然であり、パウロたちは運が悪かったのである」ということになるかもしれません。しかし、自分の命が救われたと自覚できたこの看守の目から見ると、自分と家族の救いが起こるまでのすべての出来事のことを「偶然」の一言で片づけることはできないことではないだろうかと思われるのです。
この看守の目から見ると、このわたしの救いのためにすべてを神が計画してくださったのだと分かる。もちろん、パウロたちと女奴隷との出会いのところから神のご計画です。そして彼らが牢に入れられたことさえも、看守とその家族を救うというその目的のために、主なる神御自身が計画してくださったことである。そのように見ることが、この看守には、そしてわたしたちには、許されると思うのです。
皆さんに、ぜひ信じていただきたいことがあります。「このわたしが神のご計画によって救われたのだから、わたしの家族も神のご計画によって救われるのだ」と信じていただきたいのです。それは迷信でもきれいごとでもありません。申し上げていることの意味は、このわたしの存在が神のご計画のために「用いられるのだ」ということです。わたしたちは、「どうか神よ、このわたしを主の御用のために用いてください。このわたしを通して、わたしの家族に救いを与えてください」と祈らなければならないのです。
(2008年1月20日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年1月19日土曜日
「蕾」と「桜」
昨日の日中は葬儀、夜はある地域ボランティア団体の新年研修と新年会でした。ハードでしたが、心は平安で満たされています。地域ボランティアの活動には約四年前から加わっています。委嘱された経緯などから、正体を特に明かさないで来ました。しかし、昨夜は司会者から「若い世代を代表してスピーチを」と指名されましたので(最年少だったようです)、これも好い機会かと初めて「牧師」であることを明かしました。案の定驚かれ、私のテーブルが宗教の話題で持ちきりになってしまいました。「私も子供の頃、日曜学校に通ってたことがあるのよ。まあ三年くらいでやめちゃったけどね。でも主の祈りとかは覚えてるし〔その場で主の祈りを諳んじてくださいました〕、日曜学校で教えられた奉仕の精神は、今でも自分の中に生きていると思っているわよ」とか、「実家は仏教だけど、私は無宗教だね」とか、「宗教なんて、まああれだ、要するに集団の規律を守るために作られたものだと思っているよ。そういう意味では大切なものだと認めてはいるけどね」とか、「日本人は、葬式は仏教でやるけど結婚式はキリスト教でやったりして、いいかげんなもんだ。でも、そういうのがいかにも日本人らしくていいんじゃないかね」など。だいたい予想通りの反応をいただきました。席を白けさせてしまったかなと反省もあり、カラオケに参加することにしました(そういう席で歌うのは十数年ぶりのことです)。歌ったのは、いつも車の中で聞いているコブクロの「蕾」(つぼみ)と「桜」(さくら)でした。「蕾」は昨年の日本レコード大賞曲、「桜」はコブクロ結成のきっかけとなった名曲です。牧師が当代の流行曲を(意外に上手に?)熱唱している姿に再び驚かれ、またけっこう喜んでもらえました。とりあえず顔と名前だけはお歴々に覚えてもらえたのではないかと。その意味では収穫あったよねと、自分に(都合よく)言い聞かせています。帰り際、イケメンの男性店員が「蕾、いい歌ですよね」と、耳元でささやいてくださいました。そんなこんなで、せっかく再開を決意したウォーキングに行く時間と気力がありません。カントの『純粋理性批判』の読書も中断したままです。人間関係を広げていくことと物事に集中することは、反比例の関係にあるようです。ただの言い訳ですが。
2008年1月18日金曜日
長寿者を賞した短命首相
詳しい事情を書くのは控えますが、昨日、私は生まれて初めて、「百歳」の方のもとに総理大臣から届く賞状というものをこの目で見させていただきました。金色の額縁が輝いていました。それを今、教会でお預かりし、飾ってあります。美しい花も会堂内にたくさん飾られています。総理大臣は、安倍晋三氏の名前です。この賞状は将来希少価値が出るかもねと、何人かと顔を見合わせて笑いました。百年もの命を生き抜いてこられた立派な方々に「賞」を授与するエライ立場の人が、あれほど短命では。ここは笑ってよい場面か、怒るべきかはよく分かりません。話はうんと飛びますが、希少価値とかタイミングという点で書いておきたいことは、現在の参議院議長の江田五月氏は私の卒業した高校の大先輩であるということです。「私は今の参議院議長と同じ学校の卒業生である」と胸を張って(そんな胸は張らんでよい)言えるようになりました。中学校の割と近い(が三学年上であるようで重なっていない)先輩としては、水道橋博士氏と甲本ヒロト氏と中川智正氏がおられる(先輩ですので敬語表現)ようです。どの方も国民的有名人ですが、どの方とも面識は全くありません。私にはどんなに間違っても「国民的有名人になりたい」というような願いなどはありませんし、そのような願いは持つべきではないと考えておりますが、自分の取り組んでいることや、その内容については、広く知られてほしいなあと願っております。私は伝道者なのですから。「道を伝える者」なのですから。国民的に有名な「参議院議長」と「お笑い芸人」と「パンクロッカー」と「受刑者」とを先輩に持つ者としては、この方々とは表現形態は全く異なりますが、「道を伝える者」自身ではなく、その者が伝える「道」そのものが国民的に有名になっていくことを願っております(もしこの願いをもたないような伝道者がいるとしたら、その人の存在意義は何なのでしょうか)。しかし、そのためにはどうしたらよいのでしょうか。何もできないまま短命に終わるのか。頭を抱えるばかりです。
2008年1月17日木曜日
ある書簡
今の人数に見合った規模のものを建てると、どうなるか。伝道者が替わり、ぐんぐん成長し始めたときに、「人間が入るところがない」ということで困り果ててしまうのです。実際、ある先生は「あまりの会堂の小ささ」に絶望的な苦しみを味わっておられます。伝道者は必ず替わるのです。今は伸びていなくても伝道者が替われば飛躍的に伸びる教会もあるのです。そのことを私はいつも自分に言い聞かせています。
私が願っているのは○○地区です。できれば病院の窓から見える高い十字架の塔が欲しいところです。「病院伝道」などと銘打つ必要は全くありませんが、「あの地域に行くとなんだか救われた気がする」と感じてもらえるような建て方が、新しい町の雰囲気作りに永続的に貢献できるように思います。
ただし教会が「葬儀会場」の機能ばかり果たしているような印象を、とくに病院に入院しておられる方々に対して与えるようでは困ります(象徴的な意味で申しております)。説教においては、人生の喜び、生きる希望、そして感謝の生活(ハイデルベルク信仰問答の第三部!)を熱心に語り、また(付近が静かな時間帯には)入院している方や家族の方々の心に届くような賛美の声を鳴り響かせたいところです(機械的な鐘の音ではなく、人間の心から発せられた賛美の歌声をです)。
ある先生が危惧されていた「農村的特徴を持つ地域住民との関係」という点は、私にとってはあまり問題ではないと感じられます。あのような大きな病院があると、教会の姿を目にする人々の範囲が非常に広くなります。悪い意味で「ごく限られた近隣地域の人々とのお付き合い」だけに縛られないで済むのではないかと思います。また今は何と言ってもインターネットの時代です。農村の人々もネットをふんだんに活用し、あらゆる情報を入手しています。「農村的うんぬん」という判断は、いつまでも変わりえない要素ではありません。
病院との関係はもちろん間接的な事柄です。シンボリカルな要素であり、雰囲気や印象のたぐいです。しかし、そういう空気のような要素が教会の伝道にとっては非常に重要です。「聖霊」はロジカルなもの(「屁理屈」と翻訳しておきます)だけでは捉えきれません。風のような、空気のような要素が必ず伴うものです。駅前などの人通りが多いところがよいというだけならば、典型的な商業主義の発想です。しかし、教会はコンビニエンスストアではありません。商業主義は、流行ると栄えるかもしれませんが、廃れるときもあるものです。
「信仰」とは流行り廃れを超えたところで成り立つものであると、私は信じています。また、狭い道の脇に立てられた、普通の住宅と見間違えるような建物にも賛成できません。階を増やして人がたくさん入れるようにしても駄目です。そのような建物を、それこそ地方都市の人々は「教会」として認識しません。外には高い塔があり、内側は天井が高い開放的なスペースがある。それが「教会」です。
私は岡山県岡山市の出身者ですが、そちらの雰囲気や状況(東京からの距離感など含む)が岡山市に酷似しているので、だいたい分かります。ちなみに、岡山市は今年中に「政令指定都市」になることを目指しているようです。
また、ある先生がおっしゃったとおり、教会には「サナトリウム」の要素があります。サナトリウムが、人ごみのど真ん中にあるでしょうか。せっかく治りかけの病気がますます悪化しそうです。少し人目を避けて入ることができる、静かで落ち着いた場所に教会は建てられるべきです。
以上の考えを、私は、よほどのことがないかぎり変更しないことにします。「よほどのこと」とは先生御自身が明確に反対なさる場合です。それ以外の場合は変更しませんので、そのようにカウントしていただけますとうれしいです。
2008年1月16日水曜日
SOHOとしての牧師
「牧師は仕事をしていない」という全く落胆させられる誤解が生じるのは、電車やバスなどに乗って職場通いをするという意味での「通勤」という行為をしていない牧師が多い(なかには「通勤している牧師」もいます)ことにも一因があるのではないかと思われます。
牧師の仕事は、もしそう言ってよいならば、いわば「SOHO」です。たとえば、今日も牧師室で(今ここで)、今かかわっている三つほどの委員会の仕事をしました。非常に多くのメールのやりとりをしました。その中で、委員会会議の日程を調整し、開催通知を発行し、いくつかのクレームを処理し、深々と謝罪もし、そしてまた重要な相談や決定を行いました。電話も数件かかってきました。具体的な内容は書けません。
最近の例でいえば、「神学校を紹介してほしい」、「結婚式の司式をしてほしい」、「現在通っている教会とうまく行っていない」、「教会の建物をお借りしたいのですが」、「疲れた」、「どうすれば死ねるのですか」など。
それらはいずれも教会員からの電話ではありません。ほとんどが予告なく突然、また初めて電話してこられる方々です。「電話帳で」あるいは「ネットで」連絡先を知りました、と言ってかけてこられるケースが多い。
その中には、当然のことながら、二つ返事で了承できない依頼も少なくありません。どうしたら相手を怒らせずに断るかで、神経を使います。
もちろんその中に「電話を光ファイバーに変えませんか」、「畳の張り替えをしませんか」、「屋根の塗り替えをしませんか」、「新しいコピー機に買い替えませんか」などの電話はひっきりなし。「そういうのはもう二度とかけてこないでください」と大きな声で言って、がしゃりと切ってしまったことも何度かあります。
今日一日に限っては、教会のチャイムを鳴らしてドアの中に入ってこられたお客さんは一人もいませんでした。直接顔を合わせたのは妻子だけです。それはそれは静かな一日でした。聞こえるのは(電話以外は)石油ストーブの燃える音と、私が打つキーボードの音くらいです。BGMは気が散るので、ほとんどかけません。牧師室には(まさか)テレビはありません。
電車にもバスにも自動車にも乗っておりません。歩いた距離は牧師館から教会までの10メートルくらいです(この点は反省しなければなりません。後ほどウォーキングに行こうと思います)。
しかし、です。私は今日一日だけでも非常に大勢の人とのコミュニケーションを行いました。昼食は食パン一枚かじっただけです。ゆっくり食べている時間がありませんでした。今の時間はなんだか心も体もぐったりしています。肩こりと偏頭痛と腰痛には最近再び悩まされています。
「六本木ヒルズのオフィスから地上を見下ろすと、世界を征服した気分になる」という趣旨の発言をした人がいました。そういう人の目から見ると、牧師は何に見えるでしょう。しかし、この地上の世界には実に様々な形態の「仕事」があるのだということを、多くの人々に知ってもらいたいと願っています。
我々牧師たちも、もしかしたら「宗教家」と呼ばれなければならない存在なのかもしれませんが、まさか「読書と瞑想」だけをしているわけではありません。説教の原稿だけを書いているわけではありません(説教の手を抜いているという意味ではありません)。
大学や神学校のようなところで教鞭をふるっている牧師、ラジオやテレビの番組に出演している牧師、附属の幼稚園や保育園や福祉施設の理事長をしている牧師、政治家になったり各種政治運動に参加していたりしている牧師だけが忙しく立ち働いていて、それ以外の牧師は「遊んでいる」わけではありません。
「何を御冗談を」と言いたくなります。言葉の正しい意味での「労働者」なのだと自覚しています。
2008年1月15日火曜日
家族との時間
2008年1月14日月曜日
牧師は「雇われて」いない
牧師の仕事に関しては、もう一つ、一刻も早く払拭されることを願ってきた、とんでもない誤解があります。その誤解とは「牧師を雇う」という表現です。
牧師たちはだれからも、あるいはどこからも「雇われて」いません。牧師は教会によって「招聘」されます。しかし、牧師と教会の関係は「雇用契約」に基づくものではありません。少なくとも改革派教会の考え方においてはそうです。また日本の宗教法人法の規定においてもそうです。
牧師たちは「雇用」されていませんので、「失業」という言葉も当てはまりません。事実、雇用保険に加入することができませんので、失業手当はありません。これは、私が日本基督教団の教師を退任し、日本キリスト改革派教会に加入した際に体験したことですから、明言できることです。
宗教法人法の規定において牧師は「宗教法人代表役員」です。法の理念において「法人の代表役員」とは、強いて言えば「雇用する側」の代表者です。「雇用する人」が「雇用される」ことはありえません。また「牧師を雇用する」という観念そのものを教会は持つべきではありません。教会は会社とは根本的に性質が異なるからです。
「牧師は仕事をしていない」という先述の誤解は、「会社勤務」や「賃金労働」のみを「仕事」と称することを許してきた時代遅れの判断に依拠するものと思われます。たとえば、会社勤務や賃金労働をしていない主夫ないし主婦に「無職」という失礼な呼称を強いてきた前時代的思想は一刻も早く葬り去られるべきです。「お前は誰の稼ぎのおかげで食っていると思っているのか」などの暴言は今や犯罪以外の何ものでもありません。主夫ないし主婦は、他方の配偶者に「雇用」されているわけではありません。
同様に、牧師たちもまた、「お前は誰の稼ぎのおかげで食っていると思っているのか」などという暴言に苛まれなければならない存在ではありません。
日曜日の仕事
日曜日が最も忙しい職業です。日曜日だけ牧師をするというわけではなく、毎日牧師をしています。牧師でない日は、(引退するまでは)一日もありません。「『日曜日の人』と言われることを恥と思うな」と学生時代に教えられた言葉を励みに、この仕事を1990年から続けてきました。
いまだに大真面目な顔で(そしておそらく善意の様子で)「牧師さんて、『お仕事』はしておられないんですよね?」と訊ねられることがあります。私が「牧師の仕事」という言葉を発すると、「『仕事』ではない。牧師の場合は『奉仕』と言うべきである」と、(ちょっと怖い顔で)わざわざご丁寧に正してくださる方にさえ実際に出会ったことがあります。何をおっしゃりたいのかはよく分かりませんが、これを私は間違いなく「仕事」であると捉えていますし、わざわざ「仕事でなくて奉仕」などと正される筋合いにはないし、「牧師は仕事をしていない」とか言われると、「何を言ってやがる」と憤懣やるかたない思いになります。
プロバイダとの契約やネットの通販を利用する際に申込者の職業を明かすことを求められる場合がありますが、とくに国内のサイトの場合、プルダウンメニューやボタンの中に「牧師」という選択肢を見つけることは皆無に等しく、やむをえずいつも「その他」を選択しなければならないことを、なんだかとても不愉快に思っています。「そっかー、オレたちって、『その他』なのかー」と、不幸な現実を突きつけられて、がっかりします。
「サラリーマン牧師」という極めつけの言葉を聞くと(関口はそうであるという意味で、私に面と向かってこのようなことをおっしゃる方に出会ったことは一度もありませんが)、私自身はうれしくなりますが、通常サラリーマンと呼ばれている方々に対して失礼な言い方に思えて申し訳ない気持ちになります。「サラリーマン」がなぜ批判的な意味で用いられるのでしょうか。そのような言葉の背景にどのような哲学があるのかが気になります。
牧師たちは汗も水も流していないとでも思われているのでしょうか。ぞっとするような誤解です。私がしていることは間違いなく「仕事」です。十分な意味で、汗も水も流して(または「たらして」)おります。
我々が「職業としての牧師」であることに徹すること、すなわち、我々がこの仕事の専門性を徹底的に追求していくことは、長い目で見ると教会の信頼性を高めることにつながります。それこそが、牧師たちが社会と教会にとって真に役立つ存在になっていけるための道であると信じています。
2008年1月13日日曜日
「宣教と経済」
http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2008-01-13.pdf (印刷用PDF)
使徒言行録16・16~24(連続講解第41回)
日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康
今日お読みしました個所の出来事が起こった町の名はフィリピ(12節)です。フィリピではすでにリディアがパウロの話を聴いて信仰に導かれ、家族と共に洗礼を受けました。ですから、今日の個所に登場するのは、パウロたちがフィリピに来て二番目に出会った、特筆すべき人物であるということになります。
その人は「占いの霊に取りつかれている女奴隷」と呼ばれています。この女性もまた、パウロたちとの出会いの中で一つの救いを体験いたしました。次のように記されています。
「わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。『この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。』彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。『イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。』すると即座に、霊が彼女から出て行った。」
この女性に取りついていた「占いの霊」とはどのようなものであったかについて分かることを申し上げておきます。原文には「ピュトンの霊」と記されています。ピュトンとはギリシア神話に登場する蛇の名前です。この蛇はデルフィ(デルポイ)という名の神託所を守護する存在でしたが、アポロンという名の神によって殺されたと伝えられています。アポロンによって殺された蛇の霊が「占いの霊」です。
そして、その霊に「取りつかれている」この女性が占いを語る方法は、口を動かさずに語る、いわゆる腹話術でした。つまりこの女性は、腹話術を使っていろんな占いの言葉を巧みに語っていた人であると考えることができるのです。
しかも、ここに二点とても気になることが記されています。第一はこの女性が「女奴隷」として紹介されていることです。第二はこの女性が「占いをして主人たちに多くの利益を得させていた」と書かれていることです。この二つの点は当然互いに関係し合っています。考えてよさそうなことは、この女性は、主人たちの奴隷として金もうけをさせられていたのであり、おそらくその金銭収入はもっぱら主人たちのものとされるのであり、彼女自身にはほとんど得るものはなかったであろう、ということです。無理やり仕事をさせられ、収入はすべて巻き上げられ、挙句の果てに捨てられる。そのような、考えてみればとてもかわいそうだとも言いうる存在、それが今日の個所に出てくる女性です。
この女性に対して(より正確にはこの女性に取りついている「霊」に対して)パウロが語った言葉は、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」というものでした。すると、即座に霊が彼女から出て行くという出来事が起こりました。これは文字通り霊が出て行ったのだと考えるべきです。しかしまたそのことが同時に意味することは、この女性は、もはやそれ以上、主人たちのもとで腹話術師として働くのをやめたということであり、また、はっきり言えば、人をだます占いの言葉を語るのをやめたということでもあるわけです。
つまり、この女性に起こった出来事の本質ないし核心は、彼女の奴隷状態からの「解放」です。また、人をだまして金もうけをしようとする罪と悪の力からの「救出」です。この意味での「解放」と「救出」こそが救いです。そのような出来事がパウロたちとの出会いによって、そしてイエス・キリストの福音を宣べ伝える彼らの言葉によって、彼女の身に起こったのです。
しかし、この女性がその仕事をやめたとなりますと、少し心配な面が出てきます。それは、この後この女性はどうなったのだろうかということです。主人たちに殺されるのではないだろうか、殺されるまでは行かなくても相当痛い目にあわされるのではないだろうかと考えざるをえません。どこかに逃げることができたのか、それともパウロたちの仲間に加わり、彼らの庇護のもとに置かれる存在になったのか。いずれにせよ、この女性の身柄は安全な場所に保護されないかぎり、大きな危険にさらされたであろうことは、ほぼ違いありません。しかし、そのあたりのことは、残念ながら何も記されていません。
むしろ、ここに記されているのは、この主人たちが腹立ちまぎれに向けた攻撃の矛先はパウロたちであったということです。
「ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。」
ここにたしかに記されていることは「金儲けの望みがなくなってしまった」ということです。ですから、この女性が占いをやめたという点は、確実に言いうることです。そして主人たちは、彼女が占いの仕事をやめるに至った原因は、パウロたちキリスト教の連中が来たことにあると見て、逆恨みした。つかまえて役所に連れて行った。これが今日の個所のあらすじです。
これを読みながら、いろいろ考えさせられることがあります。何よりもまず思うことは、この主人たちはこの女性を働かせて得る収入だけで生きていたのだろうかということです。自分たちは遊んで暮らしていたのだろうか。もしそうだとしたら、かなり問題のある人々であったと考えざるをえません。
あるいは、あまり乱暴にあるいは断定的にあれこれ言ってしまわないで、もう少し丁寧に考えてみる必要があるかもしれません。デルフィの神託所は、今でもそうだと思いますが、町の観光名所でした。日本でいえば、古来の神社仏閣のようなところです。そして、この女性はまさに神のお告げを語る巫女でした。彼女はそれなりに訓練を受けていた可能性があります。他の女性あるいは男性では簡単に替わることができない特別な訓練を受け、能力を与えられた人であった。その訓練にもそれなりに費用がかかった。その人が突然、仕事をやめた。我々のこれまでの苦労が水の泡だ、という思いが主人たちの心に起こった。そのように考えてみることができるかもしれません。
そして、私はまだ、パウロたちの側が彼女に対して行ったことの詳しいところは述べておりません。17節以下に書かれていることです。この女性が、パウロたちの後ろについて来て、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫んだ。それを何日も繰り返すのでパウロとしては「たまりかねて」(18節)、先ほど紹介しました言葉、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」とパウロのほうも、おそらく大声で怒鳴りつけたのです。
以前私はこの使徒言行録の学びの中で「パウロ先生はすぐ怒る」ということをいくらか批判的な観点から申し上げたことがあります。おそらく思い起こしていただけるはずです。何かあると、すぐに腹を立て、大きな声で怒鳴りつける。向かう相手を威圧する。けんか腰で語る。そのようなパウロの怒りっぽい性格と、第一回伝道旅行の際パウロとバルナバの助手として同行したヨハネ・マルコが伝道旅行の途中でエルサレムに逃げ帰ったこと、その後もパウロと行動を共にしなくなったこととは、もしかしたら関係あるかもしれない、とまで申し上げました。
女性が言っている「この人たちは、いと高き神の僕で、救いの道を宣べ伝えている人々です」という点は、でたらめではなく、事実ではありませんか。事実を事実として言っているだけです。もちろんたしかに、同じことを何度も繰り返し言われたり、ところ構わず大声で叫ばれたり、どこにでもつきまとわれたりすると、気の短い人なら、いらいらして怒鳴りつけるかもしれません。そう、おそらくパウロは、とても気の短い人だったのです。
この女性が、その後どうなったかについては何も書かれていないと、先ほど申しました。「占いの霊が彼女から出て行った」という点は、記されていることですので確実に言えることです。しかし、「パウロたちの仲間に加わった」とも書かれていません。大声で怒鳴りつけられた人の仲間になろうと思うでしょうか。パウロのやり方には何の問題もなかったと言えるでしょうか。伝道とは怒鳴りつけることでしょうか。こういうことも、タブーにしないで、一つ一つ丁寧に考えてみる必要があると思います。
しかし、それらのことをよく考えてみた上で、やはり最も大きな問題は、パウロたちが結果的に町の人々から嫌われ、捕まえられ、役所に連れて行かれることになってしまった真の理由ないし原因です。それは、事実として、パウロの語った言葉によってこの女性が占いの仕事をやめたことによって「金もうけ」ができなくなったこと、すなわち「経済的損失」を被る人々が現れた、ということです。
これは、パウロたち自身の意図するところではなかったはずです。つまり、パウロたちは、その町の人々が、あるいはその中の特定の人々がどのような仕方で収入を得ていたのかというあたりの詳しい情報を知り抜いた上で、故意に、あるいは意図的に他人の不利益を生じさせるように立ち回ったわけではなかったはずです。すべては結果として生じたことです。いわば、全くのとばっちりを受けたのです。
しかし、逆の方向に考えてみますと、そのような機会にこそ、パウロたちは、おそらく非常に多くのことを学んだに違いないとも思われるのです。わたしたち人間たちは、経験をとおしてさまざまな学習をする存在です。パウロたちも人間です。旅先で遭遇するさまざまな出来事、またその中でいろんな痛い目に会うたびに彼らが学んだであろうことは、彼らが宣べ伝えているイエス・キリストの福音は、結果として、思わず知らず、社会的に大きな影響ないし波紋を呼び起こすものでもあったのだ、ということです。
一人の人が救われ、洗礼を受け、教会員になる。信仰生活を始める。それによってその人自身は喜びと感謝の生活を始めることができるでしょう。しかしまた、それによって、別の人々のもとには不利益が生じることがありえます。その人々の不満や激怒、さらには攻撃や迫害の原因を、わたしたちのキリスト教信仰そのものが生み出すことがありうるのです。「その結果がどうなるかなんて、全く分かりませんでした」と言うだけでは済まされない問題もある、ということです。
しかし、です。今申し上げていることを私は、「だから伝道などすべきではありません。洗礼を受けることも教会生活を始めることも、できそうにもありません。そのようなことは現実的には不可能です」というような意味で言っているわけではもちろんありません。そのようなことを、この私が言うはずがありません。事実は正反対です。わたしたちには“結果責任”までとる必要があると申し上げているだけです。
わたしたちの伝道と受洗と教会生活の開始によって不利益を生じる人々がどこにおり、その人々がどのような感情を抱き、どのような反応を起こすかということを、あらかじめ十分かつ徹底的に考え抜く必要があると言っているだけです。
そして、その人々に対してできるだけ丁寧に説明し、理解を求めることが必要であると言っているだけです。
何を言っても全く理解していただけない場合があります。その場合はどうするか。
洗礼を受け、信仰生活を始めるのを思いとどまれとは決して言いません。そうではなく、そのときから始まるあらゆる試練を覚悟し、腹をくくる必要があると言っているだけです。
イエス・キリストが「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(マタイ10・38、ルカ14・27)と言われたとおりです。
(2008年1月13日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年1月12日土曜日
「世間におもねる神」と「世間に挑戦する神」
母に育てられている子供が転校先の小学校で教師を質問攻めにする。「1+1はなんで2なの?」から始まって、いろいろ。クラスの子供たちは最初「こいつはバカだ」「バカだ、バカだ」とはやし立てるが、転校生なりの発想に基づく説明にだんだん納得させられ、「教科書に書いてある」とか「他の子たちのことも考えて」という理由で転校生の質問をまともに取り上げようとしない教師たちに子供たちが反発しはじめる。興味深く見ました。
「空気を読めない」「常識が足りない」などの言葉が子供たちのユニークな発想を妨げているかもしれない、将来の天才博士の芽をつぶしているかもしれないということへの反省を促そうとしてくれているのかなと、とりあえず受けとめました。
神学の問題も同時に考えました。現代の代表的神学者の一人A. A. ファン・ルーラーは、牧師や神学者の仕事を指して「余計なものとして生の外側に立っているように見える永遠の見張り番」と呼びました。今の言葉で言い直せば、牧師や神学者は「KY」の一種と見られても仕方ない存在であるということになるかもしれません。
しかし、ファン・ルーラーは、牧師や神学者はまさに「生の外側」から、「最初の問い」を諸学と世界に向けて「不断に投げかける」存在なのだとも言っています。なるほど考えてみれば「空気を読んで世間におもねる神」(?)には違和感が無くもありません。「常識にとらわれた世間に向かって常にラディカルに最初の問いを投げかける神」(!)のほうが、我々が現代神学を通して教えられてきた神です。
しかし、です。私は、ここで話を終えるべきではないだろうとも感じます。「世間におもねる神」(?)と「世間に挑戦する神」(!)は対立関係にあるのでしょうか。葛藤は当然あるでしょう、しかしどちらか一方が真理で、反対は誤謬であると常に判断しうるのか。事柄は単純ではなさそうだと、「エジソンの母」の続きに期待しながら考えさせられました。
木曜日に始まった「交渉人」(主演 米倉涼子さん)も見ました。今春は面白そうなテレビドラマが並び、久々にわくわくしています。
このように書くと、カントばかり読み、テレビばかり見ているのかと思われそうです。現代の牧師たちも、少しは「空気を読む」努力をしているのです、ということにしておきます。
カントの「創造論」と「終末論」
「カントを読み解くコツ」に一点補足しておこうと思いました。カントの著作の中に「教義学の観点から見て面白いもの」があると書いた点に関することです。それは内容を読めばすぐに分かることです。
「人類の歴史の憶測的起源」(1786年)は、旧約聖書のモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の釈義であり、その内容は教義学における「創造論」に対応するものです。
「万物の終わり」(1794年)は、新約聖書のヨハネ黙示録の釈義であり、教義学における「終末論」に対応するものです。
「理論と実践」(1793年)については、これと教義学の直接的な対応関係を語ることにはいくらか難しい面がありますが、強いて言うとしたら「教義学序論」との対応関係を考えることができそうですし、さらに、「神学諸科解題(ないし神学百科)」における教義学と実践神学の関係の問題などを考えていくために大いに参考になりうるものです。
するとどうなるか。たしかに言いうることは、カントには少なくとも彼なりの「創造論」があり、また彼なりの「終末論」があったのだということです。この意味に限って言えば「カントは一種の教義学者であった」と語ることができそうです。
そして驚かされることは、カントの「創造論」と「終末論」の内容は、教会の伝統的聖書解釈から逸脱しているものであると言われるならばもちろんそのとおりかもしれませんが、どうしてどうして、現代人的感性をもって読めばけっこう面白いものであるということです。
また、間違いなく重要な指摘もあります。一例を挙げておきます。
「人類の最初の歴史を上述のように説明することは、人間にとって有益であり、また教訓や改善にも役立つのである。かかる説明によって我々に明らかにされるのは、次の二事である。第一は、人間に重くのしかかる数多くの害悪があるからといって、その責任を摂理に帰してはならない、ということである。また第二に、人間は自分の犯した過ちを人類の先祖の原罪に帰するいわれはない、ということである。この祖先の犯したのと同様の過ちを犯す性癖のようなものが、原罪によって子孫に遺伝されている(しかし人間が自分の意志に従って為すところの行動に、遺伝的なものが随伴する筈はない)と考えるのは誤解であって、人間は自分の犯した過失から生じたところのものを、まさしく彼自身の所為と認め、従ってまた彼の理性の濫用から発生した一切の害悪については、その責めをすべて自分自身に帰せねばならない」
(カント「人類の歴史の憶測的起源」『啓蒙とは何か 他四篇』篠田英雄訳、岩波文庫、1974年改訳版、79ページ)。
カントが言っていることに、わたしたちは腹を立ててはならないのだと思います。
彼の言いたいことは、「神の摂理」(providentia Dei)や「原罪」(peccatum originale)などの教義学的概念を一種の殺し文句のように持ち出して事足れりとすることはできないということです。教会の教義用語を、真理探究における《思考停止》の言い訳や、道義的ないし社会倫理的な問題における《責任回避》の隠れ蓑にしてはならないということです。
カントの指摘しているこの点は、「現代の」教義学においては、当然顧慮されるべき重要な要素です。
カントを読み解くコツ
さて、カントには「面白くない著作群」と「面白い著作群」の両方があると私には思われます。前者としては、三つの《批判書》(『純粋理性批判』・『実践理性批判』・『判断力批判』)やそれらの批判作業によって獲得された新しい哲学的認識論に基づく《体系書》としての『道徳形而上学』があります。後者としては、彼が雑誌や新聞などに寄稿したいずれも比較的小規模の論文があります。
社会的具体性をもっているという意味で面白いのは「啓蒙とは何か」(1784年)や「世界公民的見地における一般史の構想」(1784年)や「永遠平和のために」(1795年)などです。また、教義学の観点から見て面白いのは「人類の歴史の憶測的起源」(1786年)や「万物の終わり」(1794年)や「理論と実践」(1793年)などです。
うれしいことに、それらの多くがかなり以前から日本語に訳されています。今や私のような初学者にも容易に近づくことができるようになったのは、先人たちの血の滲むような努力あってのことです。
ところで、『純粋理性批判』を読みはじめて分かってきたことの一つは、カントの読み方にはコツがありそうだということです。それは、上記の二種類の著作群の前者と後者、つまり「面白くない著作群」と「面白い著作群」との両者の間を行ったり来たりしながら読むほうが良さそうだということです。
そのように、両者を「同時に」読むこと(この「同時に」は厳密な言い方ではありませんが)によって得られる恩恵はたくさんあると思います。何より、「面白くないもの」を読み続けることには、人間の通常の精神にとって耐えがたいものがあるからです。「面白いもの」と「面白くないもの」を行ったり来たりすることが精神のバランスを保つためにも良さそうですし、飽きないためのコツでしょう。
また両者を「同時に」読んで得られる恩恵の第二点は、月並みな言い方かもしれませんが、カントの哲学は、それが「哲学」であるかぎり、単なる抽象的で味気ない数字や記号の羅列のようなものであったはずはなく、むしろ、きわめて現実的で具体的な事実や危急の事態の中で考え抜かれた実践的思索でもあったのだ、ということを味わい知ることができることです。
とはいえ、もちろん、私の立てる「面白いもの」と「面白くないもの」の区別そのものは、個人の主観であり、独断論であり、憶測であり、趣味・嗜好の問題であると付け加えておくほうがよさそうです。「理論」(theoria)が面白いと感じられる人にとっては前者のほうが「面白い著作群」でしょうし、私のように「実践」(praxis)のほうにより多くの関心を抱き続けている人間にとっては逆の判断になる、という消息ではないかと愚考します。
2008年1月11日金曜日
哲学と神学
どういうことか。カントの時代においては、数学や物理学、あるいは言語学や心理学といった諸学がそれぞれの自治権を主張して独立していく前の、いわばそれらすべてがごちゃ混ぜで混とんの中にあるような、その意味でプリミティヴな思索を一個の統一した(?)「哲学」として提示できたようだということです。
今日のような「理系」と「文系」の区別もない。よく言えば両刀使いでバランスがとれている。悪く言えばどちらも中途半端。スペシャリストというよりはジェネラリスト。事柄を広く浅く、そして大づかみに知っている蘊蓄人間。
カント自身がそういう人物であったに違いないと言っているわけではありません。提示されている「哲学」の性格がそのような人間の教育を目指すものであるように思われると言っているのです。
また、悪い意味で言っているのでもありません。むしろ、うらやましい。関心や能力において極端な偏りがあるエキセントリックでアンバランスな人間(たとえば私)よりもはるかに周囲の信頼を得られそうな人間像を期待できます。
しかしその上で感じることは、現代の「神学」との決定的な違いです。現代の「神学」は、言うまでもなく、もはや「諸学の女王」(regina scientiarum)ではありえません。それどころか、今や、神学者にして説教者である人自身が、自分の仕事を指して「余計なものとして生の外側に立っているように見える永遠の見張り番」(A. A. ファン・ルーラー)であると語るほどになっています。要するに我々の存在と仕事はこの世界の中では役立たずの無用の長物のように見えるだろうということを、現代の神学者たちは強く自覚しているのです。
しかしこのことをファン・ルーラーは自嘲や謙遜として言っているのではありません。我々は「永遠の見張り番」として「まさに根本的に生きている」のであり、「庶民の生に可能なすべての事柄に首を突っ込む」存在であると言っているのです。
また、現代においてはもし「神学」と「説教」が物知り博士の知識の披瀝のようなもの、さらには、諸学と人類にとっての「最後の答え」のようなものになってしまっている場合には、もはや、根本的かつ致命的な間違いを犯しているとみなされます。なぜなら、「神学」こそが、あるいは「説教」こそが、諸学と人類に対して「最初の問い」を不断に投げかけ続けるべきものだからです。
神学と説教の発する問いに、哲学と諸学が答えるべきです。そう、強いて言うならば、「世界の外にある神」の発する問いに、「神の外にある世界」が答えるべきです。三位一体の神は、なんら「答え」ではなく「謎」そのものです。
2008年1月10日木曜日
「自然神学に拠らない上からの哲学」の可能性
ただし、カントの場合はいわゆる《上からの哲学》としての「啓示の哲学」(Wijsbegeerte der openbaring/Philosophy of Revelation、ヘルマン・バーフィンクの表現)のような立場はとらないはずですから、《下からの哲学》としての「人間学」をひっさげて、理性の限界まで昇り詰めて行く他はない。他方、バルト以後の現代神学者たちは、《下からの神学》に逆戻りすることには大いに躊躇がある。《上からの神学》にとどまりながら(自然神学による解決を避けながら)、世界と神の相互関係を適切に評価する道を探っている段階にあると言ってよいでしょう。
たとえば、20世紀中盤に活躍した「バルト後の改革派教義学者」アーノルト・A. ファン・ルーラー[1908-1970]は、おそらくカントあたりから言わせればドクマティスムス(このコンテクストでは「教義至上主義」くらいに訳したい)の骨頂である「三位一体論」で両者の関係を考えました。三位一体論には「キリスト論」(Christologie)から相対的に独立している「聖霊論」(pneumatologie)が含まれるので、そこに、人間存在に内住(inhabitatio)することによって神と人間の媒介となるGeist(神の霊、聖霊)の問題を正当に扱う場(locus)があると見たからです。
また、現在のオランダプロテスタント神学大学総長でユトレヒト大学教授である実践神学者ヘリット・イミンクはファン・ルーラーの聖霊論的パースペクティヴをさらに哲学的に翻訳し、「神と人間の相互主観的(ないし共同主観的)関係性」(intersubjectieve betrekking tussen God en mens)という概念をもってキリスト教的実践の土台の再構築を試みています。
私はキリスト者なので、ドグマティスムス(独断論、ですか。まあそうかもしれません)と罵られようと何と言われようと、ファン・ルーラーからイミンクへと継承された「三位一体論的聖霊論」こそが両者の関係をつなぐ唯一かつ最良の道であると(いささかの臆面もなく)語ることができるのですが、キリスト教信仰を受け入れない哲学者たち(哲学者のすべてがキリスト教信仰を受け入れないという意味ではない)にとっては、そう易々とはドグマティスムスに白旗を上げることはできないかもしれません。
しかし、たとえばあのヘーゲルの『精神現象学』(Phänomenologie des Geistes)を「聖霊現象学」と翻訳することによって《自然神学に拠らない上からの哲学》を追求する勇気のある哲学者は、日本にいないでしょうか。ヘーゲルの意図が一種の「聖霊論」を目指すものであったことは、火を見るより明らかです。「上から」とか言った瞬間にまともに相手にしてくれる人は極端に少なくなるのだろうなあと思いながら、これを書いています。
「世界の外にある神」と「神の外にある世界」の関係
ところで、実を言うと、今日は二つほど私にとって興味深い《発見》があったのです。
第一の《発見》は、熊野純彦氏の『カント 世界の限界を経験することは可能か』(NHK出版、2002年)の69ページ、「神は世界のそとにある。このことは、カントにとって『超越論的感性論』で確立された、空間と時間の超越論的観念性からみちびかれる、ひとつの決定的な帰結であった」という言葉がヒントになって気づかされたことです。
この熊野氏の言葉はお世辞でなく本当に素晴らしい。これほどの明晰なカント解説を熊野氏の本以前に読んだことがありません。熊野氏はあとがきで「かならずしもカント哲学を専門に勉強してきたわけではない」とおそらく謙遜で書いておられますが、カント哲学を自家薬籠中の物にしている人にしか書けないような見事な要約であると思いました。
さて、この言葉から気づかされたこととは何か。カントにおける「世界の外なる神」(熊野氏)とは、あの西暦四世紀のラテン教父にして教義学者であるアウグスティヌスの『三位一体論』の命題、「三位一体の神の外なるみわざは区別されない」(opera Dei trinitatis ad extra sunt indivisa)をちょうど裏側から言っているものではないかということです。
「三位一体の神の外なるみわざ」は経綸的三位一体(economische triniteit)のことであり、神の経綸的みわざとしての「創造」(Creatio)、「贖い」(Redemptio)、「聖化と完成」(Sanctificatio et perfectio)のことを指します。三位一体論の神秘においては、神の「創造」のみわざによって造られた「世界」(mundum)は「神の外」(extra Dei)にある。
この真理は西暦四世紀の神学者が語っていたことです。熊野氏によるとカントの結論は、「神」は「世界の外」にある。「神の外にある世界」(アウグスティヌス)と「世界の外にある神」(カント)という二つの命題は、内容的には全く同じことであり、ちょうど裏側から言い直されているだけのものではないでしょうか。
第二の《発見》は、熊野氏ではなく、20世紀のオランダ改革派教会の「三大」教義学者の一人であるエプケ・ノールドマンスの次の言葉です。
「カントは自然神学、すなわち一般啓示論を批判した」(Kant kritiseerde de natuurlijke theologie, de leer van de algemene openbaring. In: Oepke Noordmans, Verzamelde Werken, deel 3, Uitgeversmaatschappij J. H. Kok- Kampen, 1981, p. 439)。
核心的な事柄を短く一言で言い表せる人が真の学者であると私は思います。熊野氏とノールドマンスは真の学者です。それはともかく。カントがその不可能性を暴いてみせた「神の存在証明」とはすなわち「自然神学」(theologia naturalis)のことである。これは理解していました。しかし、「自然神学」とはすなわち「一般啓示論」(doctrina revelatio generalis)のことである。この点は今日ノールドマンス(の本)に指摘されるまではぼんやりしていたところでした。そう、カントはなるほどたしかに「一般啓示論」を批判したのです。
一般啓示論は歴史上の「改革派教義学」の十八番でした。改革派教義学は16世紀のカルヴァンから19世紀末のアブラハム・カイパーやヘルマン・バーフィンクあたりに至るまで一貫して「一般啓示論」を肯定的に語り続けました。
しかし、20世紀最大の教義学者カール・バルトが「一般啓示論」を事実上否定しました。あらゆる「下からの神学」(theology from below)をバルトは否定したのです。このバルトにカントの強い影響があったことが知られています。面白くなってきました。
2008年1月9日水曜日
本の人を動かす力
しかし、私はそのようなことがとても重要であると思っているのです。書店に本が並んでいて、それを読んで触発され、それまでしたこともなかったようなことを新たに開始する。私の場合は、熊野氏の本を読んだ数日後にamazonでカントの『純粋理性批判』の原書を注文するに至り、二日後には原書が手元に届き、それを読みはじめるや否や、すぐさまDogmatikerの訳語を「独断論者」とする従来の解釈は妥当か、などとブログに綴りはじめるに至りました。
拙速といえば、これほど拙速なやり方はない。よくいえばスピーディー(自分で言わないほうが良さそうです)。この速度は、ひと昔前では考えられなかったことです。
しかし、もし熊野氏の本を読まなかったとしたら、あるいは、もし熊野氏の本の装丁が美しくなく、手にとって読んでみようと感じられないようなものであったとしたら、あるいは、熊野氏の本が「本」ではなくて、たとえばブログのような形態のものであったとしたら、GoogleやYahooでちょいちょいと検索すればパッと出てくるようなデータであったとしたら、私はamazonに原書を注文しようと決心するまでに至っただろうか、私の場合はそうはならなかったに違いないと、そんなことを考えてみるのです。
やはり「本」という物体(Thing/Ding)のもつ、人を動かす力はものすごいものだと純粋にリスペクトする者です。ブログは、なんというか、ブログでしかない。弱く、繊細で、はかない存在のように思えてなりません(ブログが果たして「存在」(Being/Sein)ないし「形態」(Form/Gestalt)なのかどうかも私にはよく分からない)。こういう感想(「ブログはしょせんブログでしかない、やはり本でなくちゃね」的な物言い)自体が、カントに言わせると「独断論的」なものかもしれませんが。
理由の分析
重要なことは、自分の言葉や行為の意味をできるだけ正確あるいは精密に把握しておくことです。そのようにして、自分の言葉や行為に対して、いつでも責任をとれるように(答弁可能な状態に)しておくことです。
間違いなく言える第一の点は、その本を買う前に「カント」という名前を私が知っていたということです。中学だったか高校だったかは忘れましたが、社会科の授業で習ったのが最初です。大学時代にはカントの本(すべて日本語版です)を買い集めた時期もあります。「カント」の名前を学校で習って知っていた。かつては真剣に読んでみようと思ったこともあった。これが、熊野氏の本を買う気になった理由の第一点です。逆に考えれば、学校教育の現場で「教師が告げ、生徒が聞く」言葉はやはり重い、ということでもある。日本でキリスト教の書物がちっとも売れないと言われる原因に「学校で教えられたことがない名前の人の本だから」という点も少なからずあるのではないかと、これから疑ってみようと思います。
第二点は、装丁の美しさでした。つまり「見た目」ないし「外見」です。カント的にいえば「直観(Anschauung)によって直接認識される対象」です。一昨年くらいに出版された竹内一郎氏の『人は見た目が九割』(新潮新書)という本を私も読みました。「本」も「見た目が九割」ではないかと言いたくなります。熊野氏の本は、見た目が美しかった。
第三点は、値段です。定価1,000円(税別)は、カント入門書としては手頃と感じられました。あとは、著者が「東京大学」の先生であるとか出版社が「NHK出版」であるとかいうある面の権威を感じられる要素があることも加えたいところですが、「東大+NHKの最強タッグチームの作品であるゆえに買いたくなった」というわけでは全くなく、「おっ、面白そうだ」と思えた本を買ってみると、書いた人が東大の先生で、出版に携わったのがNHKさんだったという順序でした。「さすがだなあ」とは思いました。
カントを読もうと考えた理由
きっかけは単純でした。たぶん一年くらい前ですが、近くの「すばる書店」の思想書コーナーで熊野純彦氏の『カント 世界の限界を経験することは可能か』(NHK出版、2002年)という小さな本を見つけました。著者(熊野氏)の名前を知っていたわけではなく、またカント自身に対する関心も、学生時代ほどにはありませんでした。その本を手にとって開く気になったのは、「装丁がきれいだな」という点に関心を抱いたからでした。
家族と一緒だったので、子供たちがマンガを選んでいる間の時間つぶしだと、熊野氏の本をパラパラめくってみました。「おっ、なんか面白そうだぞ」と感じはじめた頃に「お父さーん、マンガ買ったから、もう帰るよー」と子供たちの声。熊野氏の本は買わずじまいとなりました。
しかしその日以来、その書店に行くたびに、その本が気になって気になって仕方なくなりました。ついに買ったのが、昨年末でした。もしかしたら、一年ほど前にパラパラめくったのと同じ本が(売れないまま)待っていてくれたのかもしれません。熊野氏の本はとても面白かったです。
直接カントを読んでみようと考えた理由は、いわばこれだけです。
2008年1月8日火曜日
Dogmatikerを「教義学者」と訳せないかと考えている理由
私の関心は誤訳かどうかという点にはほとんどありません。これは今回のケースだけではなく常にそうです。私には他人の間違いを指摘して喜ぶような悪い趣味はありません。また、翻訳という事柄に少しでもかかわったことのある人は、「どこにも突っ込みどころがないような完璧な翻訳など、この世に存在しない」ことをどこかで知っています。
カントの哲学は、キリスト教神学、とりわけ私自身の最大の関心事である「改革派教義学」にとっていかなる関係にあるのかを、可能なかぎり正確にとらえたいと願っているだけです。そのためにカント自身の言葉を、できるかぎり当時の思想史的背景に照らし合わせながら「歴史的に」把握したいだけです。
また、まさかカントを「敬虔なキリスト者」や「教義学者」に仕立て上げたいわけでもありません。そんなことは不可能ですし、意味がない。事柄は正反対であって、カント哲学は歴史上の「改革派教義学」の最大のライバルであり続けたし、今でも一人の巨人として、我々の行く手を阻む存在であり続けています。
私の関心事は、そうであるという自覚がカント自身にどれくらいまであったのかという点です。
換言すれば、自分の発言が後代の歴史(とくに改革派教義学の歴史)に遺した(極めて有効な批判としての)影響力を、カント自身がどれくらい深く自覚していたか、です。
「史的カント」の異端審問を行いたいわけでもなく(これも意味がない)、むしろ「カント先生、よくぞ言ってくださった」と感謝したいのです。
2008年1月7日月曜日
直前段落の「諸学の女王としての形而上学」という表現との関係を考えて
この「諸学の女王」(regina scientiarum)という表現は「神学の婢」(ancilla theologiae)と対比的に用いられるものですが、いずれも主としてヨーロッパ中世の思想状況を表す言葉として通用しています。とくに後者の「神学の婢」という言葉は、13世紀の教義学者トーマス・アクィナス[1225頃-1274]の名前と結びつけられて理解されるのが通例です。そして、この場合の「諸学の女王」の主語は主として「神学」(theologia)であり、他方「神学の婢」の主語は主として「哲学」(philosophia)です。
ところがカントがこの個所に書いていることは「形而上学が諸学の女王と呼ばれていた」であり、「神学が」でも「哲学が」でもありません。なぜか。一つ考えられる可能性はカントにとって「形而上学」(Metaphysik)とは「神学」(theologia)の言い換えであり、しかもその場合の「神学」とは(トーマスにおいてそうであったように)純粋に「キリスト教の」神学を指していたということです。つまり、カントにおいて「形而上学」と「キリスト教神学」は、事実上の同義語として用いられていたという可能性です。
しかし岩波文庫版ではこの「形而上学は諸学の女王」うんぬんの話題のすぐ次の段落の話題が「形而上学の統治は、独断論者の執政下にあって専制的」うんぬんと訳されていて、なんとなくアリストテレスの時代の話をカントがしているかのように話が運んでいます。そうである可能性を完全に否定することはできないかもしれませんが、うまく話がつながりません。
トーマスの時代(中世)の話をしていたかと思うと、あれれ、アリストテレスの時代の話(紀元前)まですっ飛んだぞとなる。Anfänglich(初めの頃)の一言で、一気にそこまで時間をさかのぼらせる。そのような(無理を感じる)話の流れを読み取るよりもはるかに蓋然性の高い読み方があると思われます。
それは、「形而上学の統治」を「神学の支配」と読み替え、また「独断論者の執政下」を「教義学者の管理下」くらいに読み替えて、「神学(ないし形而上学)の支配は、教義学者の管理下にあって専制的であった」というあたりの落とし所を考えながら訳すことです(カントのドイツ語はこのように訳すことが可能です)。
そうすれば、カントの時代(18世紀)のヨーロッパの大学における「神学(ないし形而上学)の没落過程」を描いていると理解できるので(本当にそのとおりの状況があったと思われますから)、よいのではないかと愚考します。
2008年1月6日日曜日
補足説明
カントが『純粋理性批判』等の中で繰り返し批判しているDogmatikerを「独断論者」と訳すことが正しいかどうかを考えています。ほとんど長年の伝統のようにみなされている学術的訳語に対して物申すことには勇気が必要です。
しかし、カントの時代的思想的背景や彼のキリスト教そのものに対しては好意的な理解を示していた事実などを鑑みるならば、いったんは(字義どおり)「教義学者」と訳すべきではないか。そしてその上で、事実上の「独断論」に陥っていた(この判断には賛否両論が認められるべきですが)「教義学」への批判をカントが行っていると考えるべきではないかと思うのです。
もしかしたらカントの念頭にあったかもしれない、近代哲学との対立関係にあったDogmatiker(教義学者)として思い当たるのは、デカルト哲学を異端視したことで知られるユトレヒト大学神学部の創始者ヒスベルトゥス・フーティウス(Gisbertus Voetius [1589-1676])とその後継者たちです。『啓蒙とは何か』などを読むかぎりカントがオランダの教会事情を熟知しつつ苦々しく感じていたことは明らかです(たとえばその中でカントは、オランダ(改革派)教会の中会(Classis)が所属教会の会員に信仰告白文書への宣誓を求めているのは不当であると述べています。『啓蒙とは何か 他四篇』、篠田英雄訳、岩波文庫、1974年改訳版、13~14ページを参照)。
当時のオランダ改革派教会の「信仰告白文書」とはベルギー信仰告白(別名「オランダ信仰告白」)、ハイデルベルク信仰問答、ドルト教理規準の三つのことです。
ヨーロッパのキリスト教史、とりわけ教義学の歴史を学ぶことのきわめて少ないわが国においてDogmatikerを正しく訳すことができないとしても、何の不思議も驚きもありません。
カントの意図は何か
それにしても、人生の中でカントの原書を手にする日が訪れるとは想像もしていませんでした。ドイツ語など大して読めるわけでもないのに、今かなり興奮しています。
原書を調べたいと思ったことには、もちろん理由があります。岩波文庫版(篠田英雄訳)の「第一版序文」のなかの一文、「形而上学の統治は、最初は独断論者の執政下にあって専制的であった」(14ページ)に、誤訳とまではいえないにしても、余りにも強い偏見や作為に基づく訳文である可能性を感じたからです(講談社学術文庫版の天野貞祐訳も、この一文に限っては事情は同じです)。
原文はこうでした。Anfänglich war ihre Herrschaft, unter der Verwaltung der Dogmatiker, despotisch. (S. 6) これをなるべく中立的な語調で訳すとしたら、「初めの頃、形而上学〔神学の哲学的呼び換え〕の支配は教義学者の管理下にあって専制的なものであった」というくらいでしょう。
カントが問題にしていることは、ヨーロッパの大学の歴史ではないでしょうか。それは多くの場合、聖職者養成機関(神学校)として出発しました。その後そこに神学(または形而上学)以外の諸学が加わって総合大学となり、学園としての拡大ないし発展が起こりました。そしてそのうち学園全体の中での神学部(または哲学部形而上学科など)の相対的重要性が低くなっていくという経過を辿りました。
これら一連の経過の「最初の頃」の話を、ここでカントはしているのだと思われます。
2008年1月5日土曜日
純粋理性批判を読みはじめました
学生時代に興味を抱いたまま余りの難解さゆえに放置していたカントの『純粋理性批判』(岩波文庫)を、元日から読みはじめました。ドイツ語版をamazonで注文しました。たぶん間もなく届くでしょう。とても楽しみです。
2008年1月1日火曜日
主を喜び祝え!
ネヘミヤ記8・9~10
「『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。『行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である』」。
あけましておめでとうございます。今日は新年礼拝です。日曜学校との合同礼拝として行っています。今、子どもたちがたくさん集まっています。楽しく過ごしたいと思います。
日曜学校の皆さん、皆さんは泣いたことがありますか。もちろんあると思います。どんなときですか。兄弟や友達とけんかしたときですか。悲しいときですか。そういうときも、たぶん泣くと思います。
今日読んだ聖書の個所に出てくる人々も泣いていました。なぜ泣いているのでしょうか。うれしいことがあったからです。うれしいときにも人は泣くのです。この人々に、とてもうれしい出来事が起こったのです。それは何でしょうか。ちょっとだけ説明しておきます。
昔々の話、今から2500年ほど前のことです。わたしたちと同じ神さまを信じていたユダという国に住んでいたユダヤ人が、隣のバビロンという国との戦争に負けてしまいました。神さまを礼拝するための神殿も、王さまが住んでいたお城も、バビロンの軍隊に壊されてしまいました。そしてユダヤ人の多くが捕虜としてバビロンの国に連れて行かれてしまいました。それは、とても辛くて悲しい出来事でした。
しかし、それから70年の後、バビロンに連れて行かれたユダヤ人たちが元々住んでいた町に帰れることになりました。そして、壊れたままだった神殿、またお城の壁をみんなで力を合わせて建て直すことができたのです。
今日の聖書の個所の泣いている人々は、神殿とお城の壁を建て直した人々です。それがやっとできたということがうれしくて泣いているのです。この場面は、神殿とお城の壁が元通りになったことを、神さまに感謝するために行っている礼拝の場面です。
しかし、その涙には、別の意味もありました。ただうれしかっただけではなかったようです。考えてもみてください。70年もの間、神殿とお城が壊れたままだったのです。また、その間、人々は自分たちが元々住んでいた町に戻ることができなかったのです。皆さんも、もし同じような目にあうことがあったら、どのように感じるかを想像してみてください。
今日の個所に出てくるユダヤ人たちは、今やっと自分たちの町に戻ることができ、また神殿とお城の壁を建て直すことができたわけですが、そのときに心の中に思い出されたことは、70年の間に嫌な目にあったこと、辛かったこと、寂しかったこと、悔しかったことなど、いろいろあったと思うのです。
また、ちょっと恨みもあったかもしれません。70年前に戦争に負けた人たちは、神さまの言いつけを守らなかった人々であるということが聖書に書いています。そのような昔の人たちが犯した罪のせいで、そのあとの人たちが苦労させられた、そのことに腹を立てて泣いていた人もいたのではないかと思います。
しかし、そのようないろいろなことがあったけれども、とにかく今わたしたちはやっと自分たちの国に帰ることができた。すべては神が導いてくださった結果であると信じて、その神に感謝するための礼拝をささげている。それが今日読んだ聖書の個所の場面です。
「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言っているのはエズラさんとネヘミヤさんという二人の人です。泣いているみんなに「泣いてはいけません」と言っています。笑いなさい、楽しみなさいと言いたいのです。
「良い肉を食べて、甘い飲み物を飲みなさい」とも言っています。今日はうれしい日、楽しい日なのだから、おいしいごちそうを食べて、笑いなさい、楽しみなさいと言いたいのです。
また「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ」と言い、だから「泣いてはいけません」と言っています。「聖なる日」と聞くとわたしたちは、もしかしたら、ちょっと怖いような気持ちを持つかもしれません。「聖」とは清いということです。清いとは「きたない」とか「けがれている」の反対です。そうしますと、わたしたちが思い描くイメージは悪いことをしないようにとか、真面目にするように、という意味ではないかということになる。「シー静かにしなさい。真面目にしなさい。うるさい人はこの部屋から出て行きなさい」と怒られてしまうのではないかと、感じる人がいるかもしれません。
しかし、ここに言われている「聖なる日」の意味は、どう考えても、そういうことではありません。「聖なる日」なのだから、おいしい肉を食べなさい、甘い飲み物を飲みなさい。笑いなさい、楽しみなさいと言われているのですから、「シー静かにしなさい」の反対です。そうです、「聖なる日」とは、笑ってもよい日であり、楽しんでもよい日であるという意味なのです!
実を言いますと、わたしたちにとっての「聖なる日」は、日曜日です。みんなで教会に集まって、神さまに礼拝をささげる日です。「聖なる日」である日曜日は、笑ってもよい日であり、楽しんでもよい日です。おいしい肉を食べ、甘い飲み物を飲んでもよい日です。
そんなものは、毎日、食べたり飲んだりしているよ、という人もいるかもしれません。私が言っているのは、そういうものは、日曜日以外は食べてはいけません、という意味ではありません。むしろ逆です。わたしたちは、毎日、笑ってもよいし、楽しんでもよいのです。
私のお父さんの話をします。今でも岡山県に住んでいます。私が生まれる前から今まで、ずっと教会に通っています。長い間、“クリスチャンしている”人です。
この私のお父さんは、とてもはっきりしていました。日曜日に教会で楽しいことがあると、月曜日から土曜日まで、ずっと楽しそうでしたし、うれしそうでしたし、元気そうでした。日曜日に教会で何か嫌なことがあったり、牧師さんの説教がつまらなかったりしたときは、月曜日から土曜日まで、ずっと不機嫌でした。
みんなが私のお父さんと同じかどうかは分かりません。でも、どうやらみんな、多かれ少なかれ、同じような気持ちを持っているのではないかと思うのです。
日曜日は、一週間の初めの日です。今日は一年の初めの日です。初めの日が悪ければ、この先どうなるのだろうかと不安になったり、嫌な気持ちになったりするものです。逆のこともいえます。初めの日がよければ、この先もよいことがあるだろうと希望を持つことができます。今週も、今年もがんばるぞという気持ちになり、ファイトがあふれてきます。そこには相乗効果、または相関関係があるのです。
わたしたちにとっての「聖なる日」は、日曜日です。日曜日は、笑ってもよい日であり、楽しんでもよい日です。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と言われているとおりです!
もちろん、日曜日に笑うとか、楽しむと言っても、教会の礼拝は、テレビや漫画ほどは面白くないかもしれません。教会の牧師さんや長老さんや日曜学校の先生たちは、お笑いの芸人のようにゲラゲラ笑える話をしてくれるわけではありません。
しかし、お笑いの芸人さんたちに対しては、ちょっと言いたいこともあるのです。それは、あの人々なりに頑張っているとは思いますが、あの人々の笑いは、すぐに飽きられてしまうものである、ということです。
対して、教会のお話は、けっこう長生きです。教会の歴史は、二千年も続いてきました。聖書のお話、神さまのお話には、飽きるということがありません。たとえて言うならば、教会のお話は、おかあさんやお父さん(!)が作ってくれる、毎日のごはんです。毎日のご飯に「飽きた」という人はいません。毎日のご飯を「飽きたから食べない」としたら、死んでしまいます。聖書を通して神さまが与えてくださる日々の糧に飽きる人は、いないのです。
ぜひ、毎週日曜日、教会に遊びに来てください。礼拝を楽しんでください。教会は喜び楽しむ場所なのです。今年もよろしくお願いいたします。
(2008年1月1日、松戸小金原教会新年礼拝)