2013年9月8日日曜日

大切な自分の体を傷つけないでください


ローマの信徒への手紙6・12~14

「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」

先週は日曜学校との合同礼拝でしたので、いつもより短く、子ども向けにお話ししました。「洗礼を受けてください」というお話でした。先週お読みしました個所にパウロは次のように書いていました。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」(3節)。

これで分かることは、洗礼を受けるとはイエス・キリストと結ばれることであるということです。パウロの言う「結ばれる」とは、結婚することとほとんど同じであると考えていただいて構いません。だからこそ、7章1節以下に「結婚の比喩」が出てきます。

しかし、その意味はあやしげなものではありません。生涯を共にすることを決心し約束するということです。そして、結婚の場合でも、決心と約束は結婚式だけで終わるわけではありません。結婚式は結婚の始まりであって終わりではありません。洗礼もまた、イエス・キリストと生涯を共にすることの決心と約束の始まりです。わたしたちに求められることは決心し続けることであり、約束し続けることです。

しかし、パウロが書いていたことには続きがあります。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、「またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」と続けられていました。

パウロが言っているのは、イエス・キリストと生涯を共にするということは、イエス・キリストと共に死ぬことを意味している、ということです。しかし、この場合の「死ぬこと」は、特別な意味です。イエス・キリストはすでに死んだ方です。しかし、わたしたちはまだ死んでいません。それなのに、イエス・キリストと共に死ぬとは、どういう意味でしょうか。

パウロは次のように書いていました。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(4節)。

これで分かることは、わたしたちがイエス・キリストと共に死ぬとはどういう意味なのかということです。なぜわたしたちはイエス・キリストと共に死んだのに、まだ生きているのでしょうか。それについてパウロは、イエス・キリストが死者の中から復活されたからであると信じています。

わたしたちは、洗礼によってイエス・キリストと結ばれました。イエス・キリストと生涯を共にする決心と約束をしました。だからわたしたちはイエス・キリストの死と共に死ぬのであり、イエス・キリストの復活と共に復活するのであるとパウロは言っているのです。

もちろん、このようなことを言いましても、何を言っているのかさっぱり分からないと思われる方もおられるに違いありません。パウロは信仰の話をしています。これは宗教の話です。うんと冷めた言い方をする人たちから「へえ、キリスト教ではそういう考え方をするのですか。面白いですね」と受け流されてしまうようなことでもあります。

しかし、これはわたしたちにとっては考え方の問題というよりも生き方の問題です。わたしたちはまだ死んでいません。生きています。しかし、生まれたときから今に至るまで、全く同じで何の変化もないというわけではありません。

人生の途中に、イエス・キリストとの出会いがありました。そして、イエス・キリストと結ばれました。そのとき人生に大きな転機が訪れました。

結婚の場合もやはり、それが大きな転機であることは間違いありません。もちろん、結婚したからといって人格そのものが変わってしまうとか、性格や趣味まで何もかも変わってしまうということは、通常ありません。しかし、何も変わらないということもないでしょう。生活が変わります。自分のために生きることだけで済まなくなります。家族のためにも生きるという態度が少なくとも求められます。あるいは、自分の考えで何もかも押し通すだけでは済まなくなります。家族の考えにも従わなければならないという面が必ず出てきます。

その点は洗礼も同じです。教会の一員になるということですから、自分のために生きることや自分ひとりの考え方を押し通すことだけでは済まなくなります。わたしたちはもはやイエス・キリストと共に生きているのですから、イエス・キリストのために生きることが求められます。そしてイエス・キリストの教えに従うことが求められるのです。

そして、その場合、特に重要な点は、罪との関係をどのように考えるかという問題です。パウロは次のように書いていました。「わたしたちの古い自分がキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(5~6節)。

理解が難しい点は、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」と書かれているところです。

わたしたちは十字架にはりつけになったことはありません。しかし、パウロはそうだと言っています。ですから、これも信仰の話であり、宗教の話です。わたしたちが洗礼を受けたときに、わたしたち自身が十字架にはりつけになったのだと信じるほかはありません。

実際の洗礼式は、牧師の手からみなさんの頭に数滴の水が注がれただけです。しかし、そのとき、その瞬間にとんでもない出来事が起こったのだと信じることが求められるのだというのです。なんと、そのとき、わたしたち自身が十字架にはりつけになったというのです。そして、そのとき、わたしたちの古い自分が死にました。そして、次の瞬間、新しい命、新しい人生が始まったのです。

その「わたしたちの古い自分」とパウロが呼んでいるのが、罪に支配されていたわたしたちの過去のことです。それでは洗礼を受けてキリストと結ばれた後のわたしたち、今の自分は罪に支配されていないのでしょうか。パウロの答えは、そのとおりだということです。今のわたしたちは、罪に支配されていません。

そんなことはない、今でも毎日のように罪を犯し続けています、と言いたくなります。それも事実です。しかし、そこでわたしたち自身も自覚できることは、なるほどたしかに、パウロの言うように、昔と今とで全く同じというわけではないような気がする、ということです。

どこが違うのでしょうか。パウロが問題にしていることは、わたしたちが「罪に支配されている」かどうかです。「罪の奴隷」であるかどうかです。もはやわたしたちは罪の奴隷ではないのです。罪の支配の下から解放されているのです。言いなりではありません。引きずり回されていません。抵抗や拒否を始めています。罪との戦いが始まっているのです。

それは本当のことでしょうかと、また問いたくなります。わたしたちは、自分の姿をかえりみると、心もとなくなります。しかし、パウロは、そのようなわたしたちの心配を強く退けます。その言葉が今日お読みしました個所に記されています。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(14節)。

パウロが書いていることは、洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれた者たちは罪の支配の下にはいないということです。その理由として「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」からだと書いています。

これだけでは分かりにくいかもしれません。もう少し分かりやすく言い直すなら、わたしたちの支配者が変わったのだ、ということです。昔は罪が支配者だったけれども、今はイエス・キリストが支配者であるということです。罪の力もたしかに強いけれども、イエス・キリストの救いの力は、もっと強い。だから、わたしたちは罪の力よりも強い力をもっておられるイエス・キリストの下にいるのだ、ということです。

話を難しくしているのは、罪の話と律法の話がからみあって出てくることです。律法とは、聖書の御言葉のことであり、明文化された神の戒めのことであると申しました。聖書の御言葉の支配の下にいるならば、罪の奴隷ではないのではないかと言いたくなります。しかし、パウロは人間の心の深い闇の中に、あえて立ち入ろうとしています。

「律法」という字は、法律という字を逆さまに書きなおしただけです。律法は法律です。法律の話であると考えれば、「法律には穴がある」ということにお気づきになるはずです。明文化されたルールには、必ず弱点があります。それは、そこに書かれていないことならば何をやってもよいと考える人が必ず出てくることです。あるいは、書かれていることを自分に都合よく解釈して抜け穴や抜け道を見つけようとする人が出てくることです。

しかし、パウロが問題にしていることはそれだけではありません。ある意味で最も恐ろしい弱点をパウロは見抜いています。それは、明文化されたルールとしての律法を、書かれている文字どおりに厳格に守り、神の御心を正しく忠実に守っているという確信をもっている人たちこそが陥る罠です。

それは、そういう人に限って、まるで自分自身が神であるかのように、人を裁きはじめることです。人の罪を赦すことができない。弱い人や間違った人を憎み、退け、呪ってしまう。それも罪なのです。最も厳格で正しく生きている人が、最も恐ろしい最も間違ったことをしてしまう。そのような激しい矛盾が起こってしまうのが、明文化された神の戒めとしての律法の落とし穴です。

そのことをパウロは考えています。だから、「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」と書いているのです。洗礼を受けてイエス・キリストに結ばれたわたしたちは、そういう罠や落とし穴からも解放されているのです。

パウロが書いている重要な言葉は、「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」(12節)です。わたしたちの支配者は変わったのです。今の支配者は、罪でもなく、律法でもなく、イエス・キリストです。

そういうことなのですから、わたしたちがいつまでも罪の下にとどまり続けることは、イエス・キリストに結ばれた者にふさわしくないのです。

わたしたちを誘惑する罪の力は強いものです。すぐに思い浮かぶのは、お金や異性関係など。そういうものの罠に陥らないように、気をつけましょう。

大切な自分の体を傷つけないでください。わたしたちの体は、義のための道具として神にささげることが求められているのです。

(2013年9月8日、松戸小金原教会主日礼拝)