神学にせよ哲学にせよ、思想なるものが
それを唱える人の生涯の営みと噛み合っていない場合は、
歯の浮くような話になるか、単にひたすら眠い話になる。
護教的な意図から書くのではないつもりであるが、
「順境のときも、逆境のときも」
とか
「健やかなときも、病むときも」
と教える教会に、純粋にほっとする。
敗戦処理投手だって、途中でマウンドを降りられない。
「黙って耐えろ」とは言えない。痛みと血には、ぼくも弱い。
「分かってくれとは言わないが~、そんなにおれが悪いのか」
と歌いたい気持ちも、まあ分かる。
だけどさ
「右肩上がりでなければ続ける意味ない」ことはないわけだし。
でも、ぼくらは死ぬために生きているという葉隠っぽい話も好きでない。
「死ぬために生きて」なんかないよ、ばかあ。
あ、でも
「生きるために死ぬ」というのも、なんかやめてほしい感じ。
どす黒い過去は明るい将来で上書き保存、できるかな。
完全に消去できなくてもね、
あと、毎日「痛た痛た」言いながらでも、
「神を呪って死ぬ方がましでしょ?」とか言われても
さほどキレずに穏やかでいる
ヨブたんのような(やめろその呼称)人でありたいかもしれない。
周りからは相当ビミョウな存在に見えるかもね。まあ、しゃあないよ。
敗戦処理投手は一人じゃないしね。
同じ状況にいる者だけに分かるプライドもあるよ。
たぶんね(自信なし、笑)。