2013年9月7日土曜日

「逆境のときも」と教えてきたのは教会じゃないか!

神学にせよ哲学にせよ、思想なるものが

それを唱える人の生涯の営みと噛み合っていない場合は、

歯の浮くような話になるか、単にひたすら眠い話になる。

護教的な意図から書くのではないつもりであるが、

「順境のときも、逆境のときも」

とか

「健やかなときも、病むときも」

と教える教会に、純粋にほっとする。

敗戦処理投手だって、途中でマウンドを降りられない。

「黙って耐えろ」とは言えない。痛みと血には、ぼくも弱い。

「分かってくれとは言わないが~、そんなにおれが悪いのか」

と歌いたい気持ちも、まあ分かる。

だけどさ

「右肩上がりでなければ続ける意味ない」ことはないわけだし。

でも、ぼくらは死ぬために生きているという葉隠っぽい話も好きでない。

「死ぬために生きて」なんかないよ、ばかあ。

あ、でも

「生きるために死ぬ」というのも、なんかやめてほしい感じ。

どす黒い過去は明るい将来で上書き保存、できるかな。

完全に消去できなくてもね、

あと、毎日「痛た痛た」言いながらでも、

「神を呪って死ぬ方がましでしょ?」とか言われても

さほどキレずに穏やかでいる

ヨブたんのような(やめろその呼称)人でありたいかもしれない。

周りからは相当ビミョウな存在に見えるかもね。まあ、しゃあないよ。

敗戦処理投手は一人じゃないしね。

同じ状況にいる者だけに分かるプライドもあるよ。

たぶんね(自信なし、笑)。