「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」
テモテへの手紙一の学びもあと一回分残っているところまで来ました。しかし、前もってお知らせしておきます。来月は第四日曜日の夕拝は、休会とします。
10月27日日曜日、午後3時から、「東関東中会宗教改革記念合同礼拝」を、船橋高根教会で行います。そちらに合流します。松戸小金原教会の夕拝はありません。
そのため、この手紙の学びは、10月27日ではなく11月24日の夕拝で終わりにします。12月からは、新しいテキストを学びます。
今日の個所はこの手紙の締めくくりにふさわしく、手紙の送り先であるテモテを励ます言葉が書かれています。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」(11節)。
「避けなさい」の原語の意味を調べてみました。「避ける」と訳しても間違いではありません。しかし、「逃げる」とか「逃げ去る」という意味のほうが強い言葉であることが分かりました。
「これらのこと」(11節)とは何でしょうか。いろんな意味が考えられます。しかし最も直接的には、直前に書かれている「金銭の欲」(10節)です。そして、欲深い生き方のすべてです。そういうものを避けることが求められています。しかし、その意味は、むしろ逃げることです。全速力で走って逃げること。逃亡することです。
人間を分け隔てするようなことを言うべきではありません。しかし、欲望というのは自分一人でも成り立ちますが、それが集団化すると凶悪なものになりかねません。組織的な犯罪のようなものに組み込まれてしまうと、個人の力ではいかんともしがたい状況に追い込まれてしまうことがあります。
そのような人間関係からは、全速力で逃げるべきです。そうでなければ、悪い仲間に引きずり込まれてしまいます。
そういう関係からは一目散に逃げてください。そして、全く新しい関係に加わってください。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」を追い求める仲間に加わってください。それが教会です。
教会は、そのような犯罪集団から逃げてきた人々を匿うことがあります。洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれ、正義と信心、信仰と愛、忍耐と柔和を追い求める仲間になっていただくことを願っているのです。
「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」と続いています。
「信仰の戦い」とは何のことでしょうか。信仰とは戦うことでしょうか。思い当たるのは「欲」との戦い、あるいは「罪」との戦いです。
しかし、「戦いなさい」とパウロは言いながら、「避けなさい」(その意味は「逃げなさい」)とも言っています。わたしたちは、戦うべきなのでしょうか、それとも逃げるなのべきでしょうか。このような疑問が起こって来るような気がします。
しかし、パウロの言っていることは矛盾ではないと思います。「信仰の戦い」は、言葉の通常の意味での戦いではないのです。わたしたちの場合、「戦い」と言いましても、腕力を使うことではないし、暴力をふるうことでもありません。
それでは、言葉や知恵を用いて戦うのかと考えてみますと、もちろんその面もあるわけですが、口喧嘩をするわけではありません。言葉の暴力をふるいあうことではないのです。
ならば、何が「信仰の戦い」なのでしょうか。それは、罪を避けることです。欲望の誘惑から逃げることです。それこそが「信仰の戦い」です。
ですから、わたしたちは敵に背中を向けて逃げてもいいのです。弱虫と言われようが、負け犬と罵られようが、そこで立ち止まり、振り向いて、敵をめがけて暴力の戦いを挑むべきではないのです。
迷わず逃げてください。遠ざかってください。後ろを振り向かないでください。別れの言葉は要りません。「さようなら」と言わなくてはならないと思わないでください。それを言うために引き返す必要はありません。わたしたちは、命を得るために、罪から逃げるのです。逃げることは、恥ずかしいことではありません。
しかし、誤解がないようにお願いします。
それは「人生をやめること」ではありません。この世に生きているかぎり、罪を犯すことは避けられないということは、なるほど事実です。しかし、だからといって、罪から逃げるということは人生をやめることではないのです。
これはふざけた問いではありません。かなり深刻な問いです。深刻に真剣に、自分の罪を悔いるゆえに、自分がこの世に生きていること自体が罪であると思い、自分で命を断ってしまう人がいます。
しかし、それは誤解です。
「罪から逃げること」は、「人生をやめること」を意味するわけではありません。
そうではなくて、生きたままで、罪を犯さないように心がけることです。
つまり、「信仰の戦い」とは、地上で生きながらにして、罪を犯すことから逃げ続けるのをあきらめないことです。だからこそ、それは「戦い」なのです。
イエス・キリストと共に生きていくとは、そのようなことです。イエス・キリストは、腕力や暴力で戦われたわけではありません。全くの無抵抗の戦いでした。十字架につけられて殺されました。惨めであわれなお姿でした。
しかし、そのイエス・キリストと共に、わたしたちは生きていくのです。イエスさまは弱虫でも負け犬でもありません。罪との戦いを徹底的に戦い抜いた方なのです。
(2013年9月22日、松戸小金原教会主日夕拝)