「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」
今日の個所にはずいぶんきわどい言葉が続いていますので、少々お話ししづらいところがあります。前回の個所と同様パウロは「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明している」(6・19)のです。話を分かりやすくするために、敢えてきわどいことを書いているのです。
小見出しに「結婚の比喩」と書かれています。しかし、その話の中に「夫が死ねば」という言葉が二回も繰り返されていますので、これは夫が死ぬ話であるということが分かります。「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです」(1節)と書かれています。
「律法」とは法律です。字を書く順序を入れ替えただけです。聖書に記された神の戒めを「律法」と呼びますが、それが人間社会の秩序やルールを定めるものであるという点では、律法と法律は同じです。
ですから、パウロが言いたいことは、結婚とは法律に基づく行為であるということです。法律は、わたしたちが地上で生きている間だけ、わたしたちを縛るものであるということです。死んだ後までわたしたちを縛るものではありません。それが「律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」(1節)とパウロが書いている意図です。
だからこそ、「従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません」(3節)というような話にもなっていきます。死別後の再婚は何の問題もないと言っているのです。
しかし、これはあくまでも比喩です。パウロが言いたいことは、結婚とか死別とか再婚とか、そのこと自体ではありません。このような比喩を用いて別のことが言いたいのです。
パウロは何を言いたいのでしょうか。それは次の言葉です。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」(4節)。
これはどういうことでしょうか。パウロの言葉から分かることは、前回までの個所に書かれていることとも合わせていえば、まずは洗礼を受けるということはイエス・キリストに結ばれることであるという点があります。そしてそのうえで、イエス・キリストと結ばれた人は律法に対しては死んだ者となっていると言っています。
なぜそういうことになるのかというと、ここで先ほどから申している「結婚の比喩」が関係してきます。「夫が死ねば」という点が重要です。夫が死ねば再婚は可能であるというわけです。
しかし、この話が、洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれるという話とどのように関係してくるのでしょうか。洗礼の場合はだれが死ぬのでしょうか。その答えははっきりしています。わたしたちが死ぬのです。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ」たのであり、「その死にあずかるものとな」ったのです(6・4)。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」(6・6)のです。
わたしたちは洗礼を受けたときに一度死んだのです。だから律法との関係はそこで終わったのです。そして、だからこそイエス・キリストの“再婚”が可能になったのです。律法との関係も続けながらイエス・キリストとの関係を始めたわけではないのだ。その意味で“姦淫”を犯しているのではないのだ。そのような話をパウロがしています。
しかし、これはわたしたちにとって分かりやすい話でしょうか、それとも、分かりにくいでしょうか。分かりにくいとお感じになる方が多いかもしれませんので、別の視点から考えてみる必要があるような気がします。
別の視点と言いますのは、次のようなことです。パウロが「律法の支配」と言っていることの中に、彼がおそらく生まれたときから関係し続けてきたと思われるユダヤ教との関係の問題が含まれているに違いない、ということです。
パウロはユダヤ人であり、ユダヤ教徒の家庭に生まれ育った人です。彼自身、熱心なユダヤ教徒となり、エルサレムの律法学校の卒業生であり、ユダヤ教の指導者になることを目指して訓練を受けた人でもあります。
そのようなパウロが、人生の途中で方向を換えてイエス・キリストを信じる人になり、キリスト者となり、教会に通い、教会の牧師となり、伝道者となることは、彼の古巣であるユダヤ教の人たちの目から見れば、パウロは姦淫を犯しているというように見えたかもしれません。あれほどユダヤ教を信じていた人が、別の道に入った。裏切り者だ、姦淫の罪を犯している。二つの宗教を二股かけている。そのような批判やそしりを受けても仕方がないような立場にパウロが立ったことは間違いないのです。
しかし、パウロはもちろん、そのような意味での姦淫を犯しているわけではありません。彼は二股かけているわけではありません。律法に対しては死んだのだ。洗礼を受けたときにイエス・キリストと共に十字架につけられて死んだのだ。だから、もうそのときに律法との関係は終わったのだ。“再婚”は可能なのだ。だから、いま自分が教会に通っていることも、教会の牧師であり、伝道者であることは、誰から責められるようなことでもないのだと、パウロは声を大にして主張しているのです。
乱暴な言い方をするつもりはありません。しかし、ここで私が申し上げたいことは、宗教とはそのようなものだということです。あちらの宗教からも、こちらの宗教からも、自分にとって都合のよいところを少しずつもらって役立てる、というようなことはできないものだ、ということです。
聖書が教える「姦淫」というのは、男女の関係だけの問題ではありません。あちらの宗教の神さまと、こちらの宗教の神さまと、その両方とも信じるとか、両方に仕えようとする、というようなことも含んでいます。そのようなやり方は宗教にはそぐわないものです。それは、聖書が教える意味での「姦淫」を犯すことなのです。
ですから、洗礼を受けることには、やはり決断が伴います。ひとりの神さまを選ぶ、という決心と約束が必要です。より正確な言い方をすれば、まず第一に神がイエス・キリストにおいてわたしたちを選んでくださるのですが、わたしたちを選んでくださったその神をわたしたち自身が選ぶのです。この方をわたしたち自身が選び、この方と共に生きていくことを決めなくてはなりません。
いま私がみなさんにそのことを押しつけているのではありません。パウロはそうしたのだ、と申し上げているのです。生まれたときから通っていた、長年世話にもなった、そこで指導者になることを目指しもした、ユダヤ教の教会に別れを告げました。「薄情なやつだ」「裏切り者だ」と言われようとも。パウロは、古い自分は洗礼を受けたときに十字架につけられて死んだのだと信じました。そして、イエス・キリストとの“再婚”の道を選んだのです。
それは、どういうことになるでしょうか。ぜひ考えてみていただきたいことがあります。パウロのように生きることは、世間を狭くすることになるでしょうか、という問題です。洗礼を受けたばかりに、人間関係が希薄になった。友達が減った。孤立した。そのような寂しい人生を送らなければならなくなるでしょうか。「そのとおりだ」と言われてしまうかもしれませんが、私にはそうとは思えないのです。
パウロはむしろ、前よりももっと多くの、本当に心から信頼できる、心おけない仲間が与えられたのではないかと私は思います。そうではないでしょうか。なるほどたしかに、昔の人間関係は切れてしまったかもしれません。しかし、イエス・キリストを信じる信仰に基づいて愛と喜びを分かち合う仲間が与えられたのではないでしょうか。
私はキリスト者であり、教会の牧師ですから、「特定の宗教を宣伝している」と思われてしまうのは仕方がないことです。しかし、ひとりの神さま、ひとりのイエス・キリストを信じ、従って生きる道を選んだ人々には堂々たる安定感があると私は思っています。付和雷同的ではない。風見鶏ではない。首尾一貫性がある。安心して信頼できる存在になっていく。そういう人は、友達が少なくなるとか、世間が狭くなるということにはならないのです。
しかし、ここから先は、実際にその道を生きてみるしかないと言わざるをえません。今日の説教題に「教会に通うことは自由になることです」と書かせていただきました。これは日本だけではなく、現代の世界において最も説得力のない言葉だと思われてしまうことであるということは、分かっているつもりです。
多くの人は、全く逆のことを考えています。宗教に深入りしたら自由がなくなる。宗教はわたしたちの人生をがんじがらめに束縛する。教会とはそのようなところであると見られているということを、知らないでいるわけではないのです。
しかし、ぜひ私の言葉を信じていただきたいのです。「教会」と名の付くすべてが同じであるとまでは申しません。しかし、わたしたちの教会は、だれをも束縛しません。それが事実かどうかは、わたしたちの教会に通っている人の顔や姿を見ていただくしかありません。牧師の命令や脅迫に怯えている人はひとりもいません。自由の喜びに満たされています。
教会に通うことは自由になることです。洗礼を受け、イエス・キリストと結ばれ、教会に通うことによって、わたしたちは罪の誘惑から自由になります。自己実現の際限なき欲望から自由になります。そのことを信じていただきたいのです。
(2013年9月22日、松戸小金原教会主日礼拝)