2013年9月17日火曜日

青野太潮先生の『「十字架の神学」をめぐって 講演集』を興味深く読ませていただいています

千葉英和高等学校(2013年9月17日17:30)


今日(2013年9月17日火曜日)午後5時30分から7時まで

「第4回 十字架の神学研究会」に出席しました。

会場は千葉英和高等学校でした。

今日のテキストは、

青野太潮著『「十字架の神学」をめぐって 講演集』(新教新書268、2011年)の

「2 『贖い』の思想について―川島重成氏との対話―」でした。

この章の主旨は、

国際基督教大学での青野先生の先輩である川島重成氏(無教会関根正雄集会のメンバー)から

青野先生宛に送られた「書簡」に対する「反論」です。

刺激的で興味深い内容ですので、どんな議論が交わされているかをご紹介したいところですが、

この章は(本書は新書版ですが)62ページも費やされていますので、

聖書学に関して門外漢であるぼくにはなおさら、短い言葉でまとめて紹介することは不可能です。

しかし、一つの点だけですが、忘れないうちに書きとめておこうと思うことがありました。

それは、青野先生の議論は、ファン・ルーラーの神学をほんの少しかじっているぼくにとっては、

とても納得できるものであるということです。

それもそのはずです。

青野先生はすでに引退されていますが、

寺園喜基先生や天野有先生といったバルト研究者(主義者とお呼びしてよろしいでしょうか)への

明確な反論を青野先生が持っておられることが、論述の端々からはっきり分かるからです。

議論の過度の単純化は青野先生から叱られてしまうかもしれませんが(知己を得ていません)、

青野先生の「十字架の神学」の根本概念は、

イエス・キリストにおける「贖い」と「十字架の死」、否「殺害」との区別です。

すなわち、それは、

「イエス・キリストがわたしたちの身代わりに死んでくださったこと」と

「イエス・キリストが十字架に架けられて殺害されたこと」の区別です。

この区別によって神学と信仰においてどのような変化が起こるのかは、

青野先生のご著書を精読していただくほかはありません。

しかし、さしあたりすぐに指摘できることは、

「贖罪論一辺倒の神学」には限界がある、ということが、はっきり分かるということです。

青野先生が(ご本人の承諾を得た上で)全文を公開しておられる川島重成氏の「書簡」の中に

興味深いくだりがありました。以下、引用。

「昨年秋、無教会のある集会で、ロマ書八章後半について話す機会がありました。その関連文書を同封させてください。そこで書いたとおり、その時、私は、御霊のうめき(26節、27節)は、私たちのうめきに代わるものという点を強調しました。それ故に、もはや、うめかなければならないということはない、というのが私の主旨でした。むしろ喜ぶことこそが許されているのではないか、と。」
(青野、前掲書、73ページ)

この川島先生の見解にも、青野先生は反論しておられます。これは反論されて当然です。

川島先生のおっしゃっていることは、(ここでファン・ルーラーに登場してもらいます)

キリスト論における「代理」の概念を、聖霊論にも無理やり適用することによって

聖霊論の意図をメチャクチャに破壊している典型例です。

イエス・キリストは「わたしたち“の身代わりに”死んでくださる」ことによって、

わたしたちに命を与えてくださいました。

しかし、

聖霊は「わたしたち“の身代わりに”うめいてくださる」(?!)ことによって、

わたしたちはもはやうめかなくてもよくなる、というような意味での

「代理」の働きをするわけではないのです。

従って、川島先生のおっしゃっていることは、

《キリスト論の論理》と《聖霊論の論理》との完全なる混同であり、錯綜です。

厳しく言えば、支離滅裂としか言いようがありません。

聖霊は「わたしたち“と共に”うめいてくださる」のであって、

わたしたちもうめき続けるのです。

「代理のうめき」などというのは、全くもって奇妙な話です。

(この議論に「フィリオクェ」は無関係です。)

しかし、今ぼくが書いているのは組織神学の観点からの議論であって、

聖書学の議論には馴染まないかもしれません。

それでもぼくは、青野先生の議論を“面白がって”読ませていただいています。

そのことを書きとめておきたいと思いました。