関口 康
伝道不振の日本でこれほど大規模な『改革派教会信仰告白集』が刊行される日が来ることを誰が予想していたでしょうか。全巻予約用のパンフレットを見たとき、私は躍り上がって喜びました。どう考えても飛ぶように売れる本とは思えない。そこに出版社の捨て身の覚悟を感じました。まさに命がけの愛を改革派教会の信仰告白のために注いでくださった一麦出版社に感謝しています。
『改革派教会信仰告白集』という表題で思い起こすのは、カール・バルトの有名なエピソードです。バルトはスイス改革派教会の牧師・神学教授であったフリッツ・バルトの長男として生まれ、スイスのベルン大学神学部を卒業後、ベルリン、テュービンゲン、マールブルクの各大学で世界最先端の神学を学び、ジュネーヴのドイツ語教会の副牧師職を経て、ザーフェンヴィル教会の牧師になりました。バルトの出世作となった『ローマ書講解』(第一版、1919年〔実際には1918年刊行〕、第二版、1922年〔実際には1921年刊行〕)はザーフェンヴィル教会の牧師だった頃のものです。その後バルトは牧師職を辞し(1921年)、ゲッティンゲン大学神学部の「改革派教会担当教授」になり、「改革派教会の信仰告白と教理と教会生活」を概説する仕事を始めるのですが、当時のことを後年のバルトが次のような衝撃的な言葉で回顧しているのです。「私は今だから……告白できるのであるが、他のすべての私の知識の大きな欠陥はさておいても、私は当時、改革派の信仰告白文書を所有してもいなければ、ましてや読んでもいなかったのである」(エーバーハルト・ブッシュ、小川圭治訳『カール・バルトの生涯』新教出版社、第二版、1995年、185頁)。
バルト自身の回顧からはっきりわかることは、幼少期はもとより、神学生時代も、牧師時代も、そして世界大の読者を獲得した『ローマ書講解』の第二版を執筆していたときも、『改革派教会信仰告白集』(より具体的には1903年に出版されたE. F. K. ミュラー編のそれ)を買ったことも読んだこともなかったということです。バルトが教授職に就くのは35歳。それまでは改革派教会の最も基本的な書物を読んだことがなかった。そういう人がスイス改革派教会の牧師であったのであり、国立大学神学部の「改革派教会担当教授」になったのです。
このエピソードは現代の教会と神学の笑い話の一つだと思います。この点についてバルトを揶揄する意図は私にはありません。その後の彼は『改革派教会信仰告白集』を丹念に読みました。そして1924年のこと、バルトはゲッティンゲンでの教義学講義を準備しているとき、図書館の隅で埃をかぶっていた19世紀ドイツの改革派神学者ハインリヒ・ヘッペの『改革派教義学』(1861年)を発掘し、それを「読みに読み、研究し、考えぬき」(ブッシュ、小川訳、221頁)、その結果、バルトの最初の教義学となる『キリスト教教義学草稿』が誕生しました。さらにその草稿が徹底的に書き換えられて、彼の主著『教会教義学』の最初の巻(第一巻第一分冊)が生まれたのは1932年です。当時バルトは46歳。『改革派教会信仰告白集』を読みはじめてから11年。『教会教義学』の彼は堂々たる改革派神学者です。
バルトを揶揄していると思われるようなエピソードを敢えて紹介したのは、読者各位を励ましたいという願いからです。バルトでさえ35歳まで所有したことも読んだこともなかった本を、我々は容易に所有することができ、しかも、すべて平易な日本語で読めるようになったのです。そうだとすれば、これほど素晴らしい本が与えられた以上、我々もこの本から大いに学ばせていただこうではありませんか。この本を読む人はだれでもバルトのような著名な神学者になれますよという意味ではありません。ただ、少なくともこれ(改革派教会信仰告白集!)がバルトの神学の決定的な一源泉であることは間違いありません。そうだとすれば、バルトの神学の真髄に迫るために、バルトの神学の源泉に我々が習熟することが必要であると言えるでしょう。そしてそれは、バルトの神学にも誤りや欠陥がありうることを指摘する、ということも排除しないのです。
今日の伝道不振の原因は、当然、神学にもあります。その真の原因を探り当てるために、歴史的な信仰告白から学ぶことが不可欠なのです。
(小論、『改革派教会信仰告白集』第6巻付録、一麦出版社、2012年、5-6頁)