アムステルダム自由大学で開催された
「国際ファン・ルーラー学会」(Internationale Van Ruler Congres)で、
モルトマン先生が最前列に座っていた約200名の欧米の神学者の前で
ぼくが英語でスピーチをした、ということで、
その後、一人の方(ぼくより年上の女性の牧師さんです)から
「関口さん、もういつ死んでもいいですね」
と(ネットではなくリアルで)言われたのですが、
「いや、まだ死ねないですね」
と真顔で応えたことを、昨日のことのように覚えています。
今年(2013年)ぼくが立教大学のゲスト講義をさせていただいたあと、
「関口さん、もういつ死んでもいいですね」
とは、だれも言ってくれません。
「もうそろそろいいかな」と思ってるんですけど。
ぼくが何をしたいのかについて、釈明の必要があるでしょうかね。
ぼくという人間を個人的に少しでも知っている方々は、
「功成り名遂げる」ことなどに興味を持つ人間ではありえないことを、
例外なく知っています。
ついでにいえば、
「競争」がとにかく苦手で、そういう状況に追い込まれると、
ほぼ100パー「どうぞどうぞ」(ダチョウ倶楽部)と譲ってしまう人間でもあります。
そういうことではなくて、ですね、
ぼくは、
日本の教会と牧師が、
もっと「神学」(←ここ重要です)を勉強することで、
もっと「社会的に信頼される」(←ここも重要です)存在になってほしいと、
「自分のことを棚に上げないで」(←ここが最も重要です)願っているだけです。
教会と牧師が「神学」を学ぶことが、なぜ「社会的信頼」につながるのかといえば、
話は単純です。
自分が語っている言葉や、していることの意味や内容を
きちんと説明することもできない人たちを、だれが信用するのかという問題です。
前に書きましたよね(書きませんでしたっけ?)、
ぼくが牧師になろうと思った動機の、いくつかある中の一つ。
生まれたときから通っていた教会の牧師の説教があまりにも支離滅裂に思えたので、
ぼくが代わりに説教しなければならないと思い詰めた、という話。
みなさんに言っておきますよ。
自分の子どもや教会の青年に「牧師になってほしい」と願っている牧師たちは、
名説教をしてはいけません。聞くに堪えない説教をしてください。
そうすれば、
貴方の(ひどい)説教に我慢できなくなった青年たちが、
次々に神学校に入学し、牧師を目指しはじめるでしょう。
ぼくは、日本キリスト改革派教会の教師を引退する定年70歳まで、
残り22年とちょっとです。
引退まで、ただひたすら、説教と牧会を続けていく所存です。
これからもどうかよろしくお願いいたします。
2013年9月26日
関口 康