「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してもよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
今日の個所でもパウロは罪の問題を考え続けています。しかし、今日の個所でパウロが問題にしていることの中心にあるのは、わたしたちは罪を犯してもよいかどうかということです。その答えは、当然のことですが、「だめです」ということです。罪を犯してもよいという話にはなりません。そんな話になるわけがありません。それは明らかにおかしな話です。
これは冷静に考えれば、だれでも分かる話です。そもそも「犯してもよい罪」が存在するでしょうか。そんなのはありません。それを「罪」とは呼びません。
私はもちろん、聖書に書かれている意味の「罪」について考えています。その場合でも、どんな場合でも、「罪」には必ず加害者と被害者とがいるのだということを忘れてはなりません。加害者も被害者もいない罪などは存在しません。だれかが罪を犯せば、その罪によって他のだれかが必ず傷つくのです。
もしそうであれば、「犯してもよい罪」は存在しないということは、だれでも分かる話です。それは、言い方を換えれば、だれかが犯した罪によって傷つけられてもよい人は存在しない、ということです。
これから申し上げるのは、よく使われるたとえです。それを「罪」と呼ぶのは大げさかもしれません。あくまでもたとえです。だれかの足を踏んだ人と、その人に足を踏まれただれかがいる。だれかの足を踏んだ人は、痛くもかゆくもない。しかし、その人に足を踏まれただれかは、一生忘れないと言いたくなるほど痛くてたまらない。
「踏まれてもよい足」が存在するでしょうか。そんなのはないのです。あってはならないのです。パウロが考えているのはそのようなことだと考えていただいて構いません。
「犯してもよい罪」などは存在しません。だれかに傷つけられてもよい人は存在しません。そんなことはやめてください。立場を逆にしてみればすぐ分かることです。自分が犯した罪は自分にとっては小さなものだと感じるかもしれません。しかし、その罪によって傷つけられた人にとっては大きなものだと感じます。
自分が加害者になったときはその罪をできるだけ小さなものに見せようとします。しかし、自分が被害者になったときは復讐の鬼になります。相手の罪を暴きたて、とことんまで責め立てます。そういうふうになっていくのが人間の弱さです。
復讐の攻防はえんえんと続きます。どちらかがどこかで断ち切らなければ、終わることがありません。しかし、そのとき、加害者が被害者の前で開き直って、自分の罪は「犯してもよい罪」だったのだ、などと言ってよいはずがありません。そんな罪は存在しないのです。
罪を犯さないようにすること。「犯してもよい罪」などは存在しないのだということを自分自身に強く言い聞かせること。それだけが復讐の攻防の悪連鎖を断ち切る唯一の道です。
しかし、パウロは、冷静に考えればだれでも分かるようなことを敢えて取り上げています。「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」(15節)と書いています。
どうしてこんな話になるのでしょうか。それは先週の個所の最後に書かれていたことに関係しています。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(14節)と書かれていました。
これについて私は「わたしたちの支配者が変わったのだ」と説明しました。洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれたわたしたちの支配者はイエス・キリストである。かつては罪がわたしたちの支配者だったが、その支配者がイエス・キリストに変わったのだと申しました。これはこれで、このまま受け入れていただきたいことです。そして、イエス・キリストにおいて表された「神の恵み」とは、わたしたちの罪を赦してくださる恵みです。これもこのとおりです。この説明自体が間違っているわけではありません。
しかし、こういうことを申しますと時々出てくる話は、「なるほど、それでは、わたしたちの犯す罪は何度でも赦していただけるのですね。それならば、これからも遠慮なくどんどん罪を犯してもいいのですね。だって神さまの広い心で何度でも赦してもらえるんでしょ?」というようなことだったりします。
そんな屁理屈は成り立ちませんよ、とパウロは言いたいのです。少しは遠慮しなさいと言いたいのです。いえ、「少し」どころか、ものすごく遠慮する必要があります。罪は犯してはいけないのです。犯してはいけないことを「罪」と呼ぶのです。
パウロは次のように書いています。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷になる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(16節)。
「神に従順に仕える奴隷」とは何のことでしょうか。パウロが用いているこの表現は明らかに極端なものです。なぜパウロはこのような極端な表現を用いているのかといえば、「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」(19節)と書いてあるとおりです。「分かりやすく説明している」つもりなのです。
「神に従順に仕える奴隷になる」というのは、文脈から見て明らかに、洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれることを言い換えたことばです。そして「結ばれる」とは「結婚すること」とほとんど同じことを意味すると、先週申し上げました。それは、この後すぐに7章1節以下に「結婚の比喩」が出てくることからも明らかです。
しかし、洗礼を受けることは「結婚」とほとんど同じことだと言ったすぐ後に「それは神の奴隷になることだ」と言いはじめるのは、話の運び方としては、かなりまずいです。結婚することは奴隷になることでしょうか。こういうことを言うと、今ではものすごく怒られます。
しかし、話の運び方としては明らかにまずいのですが、たしかに分かりやすいことは分かりやすいです。パウロの意図を考えるとしたら、明らかに極端な表現を敢えて用いることによって強調しようとしている論点があるということです。
それは、もしわたしたちが「神の奴隷」にならないならば、ほとんど必ず「罪の奴隷」になるのだということです。なんでそんな話になるのかといえば、パウロは「罪」の力がものすごく強いものであり、人を誘惑し、魅了し、圧倒するものであるということを知っているのです。だからこそ、罪から人を引きはがし、引き離す力は神だけが持っておられるものだという話になり、罪から人を引きはがし、神のもとで保護される必要があるという話になるのです。神の支配下にもつかないが、罪の支配下にもつかないという中立の状態はないと言っているのです。
つまり、「神の奴隷」になることは、「罪の奴隷状態からの解放」を意味しています。罪のもとから、神があなたを取り戻す。奪還作戦が展開されるのです。
しかし、「神の奴隷」になるというのは、やはり言いすぎと言えば言いすぎです。そのことはパウロもよく分かっています。洗礼を受けて教会に通うことは、真に自由になることです。「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(18節)と書いています。
「伝えられた教えの規範」とは教会の中に伝えられた教えのことですから、今のわたしたちはそれを聖書という形で読むことができますが、パウロの時代には今の聖書ほどまとまったキリスト教の本は存在しませんでした。しかし、まとまっていない形のいろんな教えの規範がありました。そういうものに「心から従うようになる」とは、これも今のわたしたちで言えば、聖書を学ぶことと同じです。
それがどうして「神の奴隷」になることだと言うのかといえば、聖書を学ぶことは、これはこれでけっこう大変なことでもあり、苦痛もあるからではないかと思われます。「教会に来ても、また勉強か。うんざりだ」と思われてしまう面があることは否定できません。聖書を学ぶことに苦痛を感じ始めると、教会に通うことが苦痛になるかもしれません。「そうだったのか。教会に通うことは、教会の奴隷になることだったのか。こんなのはまっぴらだ」というような話になってしまう場合もあるわけです。
しかし、ここでパウロが言いたいことは、比較なのだと思います。「罪の奴隷」であり続けるぐらいならば、「神の奴隷」になるほうがましだ、と言いたいのです。しかし、洗礼を受けることは、奴隷になることではありませんから、どうかご安心ください。自由になることです。解放されることです。そのことをパウロは百も承知で、敢えて極端なことを言っているのです。
「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」(19節)。
今日の個所でパウロは、一つのことしか言っていません。同じことを、いろんな言葉で何度も何度も言い換えているだけです。
「罪を犯してはいけない」と言っているだけです。罪の生活をこれからも続けて死にたいのか。そんなはずはないだろう、と言っているのです。罪の生活をやめて生きてくれ、と言っているのです。
罪を犯せば、必ず責められます。神からも人からも責められます。その責めに耐えられる人はいません。神からも人からも逃げ続けて生きなくてはならなくなります。
うそをつけば、そのうそを正当化するために、うそでうそを塗り固め続けなくてはならなくなります。ばれないようにするために、孤立し、隠れなくてはならなくなり、暗く寂しい人生になります。
それでいいのか、いいはずないだろう。
罪の奴隷状態から、あなたを奪い返す。
イエス・キリストの恵みの下であなたを保護する。
神の教えを学んで立ち直ってほしい。
そのようなパウロの強い意志が表われています。
それは、神御自身の意志であり、教会の意志でもあるのです。
(2013年9月15日、松戸小金原教会主日礼拝)