激しく自分から動き回ってつかみとる。
黙って待つことで初めて与えられる。
能動性と受動性。
自慢じゃないですが(自慢かなあ)
両方やりました、ぼくは今まで、ぼくなりに。
結果、どっちがよかったかなあ。
自分でつかみとると言っても、
自己目的性は低いんですけどね、ぼくらの場合は。
自分の十字架に架かりに行くようなものかも。
日本語聖書で伝統的に「御心」と訳されてきたευδοκίαは
英語聖書の伝統ではgood pleasure of Godですよね。
オランダ語聖書でもwelbehagen van Godです。
welがgood、behagenがpleasureと同義ですので。
「良い」+「喜び」=ευδοκία、と長らく理解されてきた。
だけど「御心」という日本語には
goodな雰囲気も、pleasureな弾ける感覚も、ないなあ。
なんか暗ーい感じ。呪術的とさえ言える。
「御心のままに」(・_・)
ぼくも言いますけどね。牧師ですしね、これでもまあ。
でも、呪術的におどろおどろしくは言わない。
「神の良い(good)喜び(pleasure)」に満ち満ちた顔で
「御心のままに」\(^o^)/
と言わなくちゃね。
そういうのウザい、と思われちゃうのかもしれませんけどね。