2013年9月17日火曜日

「第15回 カール・バルト研究会」の報告書です

今日は夕方からお出かけなので、それまでに書いておこうと、実は一昨日から思っていました。

先週金曜日に行った「第15回 カール・バルト研究会」の報告書です。

テキストは、カール・バルトの『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の「8、造り主なる神」でしたが、

この個所が面白いのです。

以下、テキストを見ないで書きますので、ちょっと不正確かもしれませんが、

バルトの意図は次のようなことです。

この章でバルトが強調していることを一言でいえば、世界と人間はリアルな存在だということです。夢でも幻でもない、仮象でもなければ摩耶(ブッダの母)のヴェールでもない。リアルそのものである。

なぜ世界と人間はリアルであると言えるのかといえば、それを「神が創造された」からだとバルトは言う。

世界も人間も、神の性質の流出(神の中身が外にとろけでたような存在)ではないし(もしそうだとしたら、世界と人間はそれ自体で「神としての性質」を帯びていると言わざるをえなくなるが、事実はそうではない)、また、世界も人間も、永遠から永遠へと生きている存在ではない。

そうではなく、世界と人間は、神の創造力により「無から造られたもの」であり、無の土台の上に立っている。そのようにして、神によって造られた現実、すなわち「被造現実」(geschöpflichen Wirklichkeit)こそが、最もリアルな存在なのである。

しかし、世界と人間がリアルであることを我々が認識するためには、「神が人間になる」必要があった、とバルトは言います。ここにバルト神学の真骨頂である「キリスト論的集中」の論理が登場します。とくにバルトはキリストの《受肉》を、我々の世界認識、人間認識の土台に据えることを試みています。

なぜ「神が人間になること」が、我々が世界と人間をリアルなものとして認識する根拠になるのか、といえば、

そのことについてバルトはそれほどはっきりと語っているようには見えませんでしたが、

要するに、子なる神(イエス・キリスト)が「世界の外」(extra mundus)から「世界の内」(intra mundus)へと突入してくることによって初めて、世界と非世界の《境界線》が明確化される、というあたりのことを言っているように思えました。

その論理は、言うならば、「ウルトラマンがM78星雲から銀河系の地球まで来てくれたことによって、われらの愛する地球がリアルな存在であることが初めて分かる」というようなことだと考えればよいのかもしれません。

しかし、ここで、はたと立ち止まる。

「神が人間になること」なしには、世界と人類がリアルな存在であることを正しく認識することはできないというバルトの論理は、我々にとってはかなり分かる話でもあり、感動的な話ですらあるのだけれども、

本当にそれだけなのか、という問いかけは、あって然るべきだとは思えました。

神学論文のタイトル風にいえば「創造論のキリスト論的基礎づけ」には、長所もあるでしょうけど、短所もあるでしょう。

一例だけ挙げれば、

「神が人間になること」(イエス・キリストにおける神の子の受肉)への信仰を告白しない者は、いかなる意味でも世界と人間をリアルな存在として認識しえない、というような断言が成り立ちうるだろうか、

というような問いが具体的にありうるでしょう。

なんか、こんな感じのことを議論しながら、現実の問題を真剣に考えている「カール・バルト研究会」です。

関心ある方は、ぜひご参加ください。次回(第16回)は2013年9月27日(金)午後9時から11時まで(日本時間JST)です。大歓迎いたします。