2013年9月25日水曜日

日記「たとえていえば、買ったばかりのパソコンのようなものです」

ぼくは「哲学」ということばを、広い意味でも狭い意味でも考えています。

広い意味での「哲学」はモノゴトの考え方の筋道というくらいの意味ですので、そこには「宗教」は含まれます。宗教の哲学を「宗教哲学」と呼んだりします。あるいは、数学であれ物理学であれ、モノゴトの考え方の筋道が示されて然るべき学問ですから、それらも一種の「哲学」です。

しかし、狭い意味での「哲学」は、たとえばヘーゲルが示したような形、それは「論理学」(よみかきそろばん、といえばよいでしょうか)と「自然哲学」(理系学問の根本原理、といえばよいでしょうか)と「精神哲学」(文系学問の根本原理、といえばよいでしょうか)を総合したようなものです。

それを教えるのは大学に入ってからだ、というのがヨーロッパでは昔からの考え方でしたが、それをもっと低年齢から教えはじめるべきだ、というのがデリダの主張だったようです。現状ではそれらはまだ、少なくとも日本の公教育の中では十分に教えられているとは言えないので、一つの(現状に対する批判的な)問題提起として、デリダの主張は日本でももっと聞かれるべきではないかと、ぼくは思います。

ぼくの場合はかなり過激な意見になってしまいがちなのですが、今の公共教育(とくに小学校から高校まで)が重んじていることは「形式」(フォーム)ばかりで、「内容」(マテリアル)がないと、ぼくは感じるのです。

英語力も計算力も強化されているとは思う。だけど、それは、たとえていえば、買ってきたばかりのパソコンのようなものです。どんなに高性能でも、中身(マテリアル)が空っぽです。もちろん、いまならパソコンのスイッチを入れてネットにつなげば、ブラウザ経由で無尽蔵のデータが手に入るのかもしれない。だけど、その中から自分に必要なデータを取捨選択するのは、あくまでも自分自身です。

その取捨選択の根拠とその論理は何かを問うても、ポカン顔でスルーされてしまう感じ。何を問われているのか、その質問の意図さえ理解してもらえない。その「内容」が、ぼくは「哲学」なり「宗教」なりではないだろうかと思っているのです。

ぼく自身の中でも未整理で錯綜している部分が多いので、途中で辻褄が合わなくなってしまうところがあることを自覚しています。

デリダが「哲学教育の低年齢化」という場合、具体的に何歳くらいで教育を始めるべきだと考えていたのかが一つの問題ですが、1822年(19世紀初頭!)のヘーゲルが「11歳のときにヴォルフのイデア・クラーラ(明晰判明ナル観念)の定義を学び、ついで13歳のときに三段論法の格および規則の総体をわがものにした」と子どもの頃を回顧している言葉をデリダが引用しています(ジャック・デリダ『ヘーゲルの時代』白井健三郎訳、国文社、1984年、48ページ)。

それが「ヘーゲルの時代」の学校教育だった、しかし、いま(のフランス)は違う、そういうことを全く教えていない、というわけです。

しかし、ぼく自身は、日本の公立学校の教育、とくに義務教育の小中学校の間に「哲学」を教えるべきだ、ということまでは、さすがに(まさか)考えていません。やはり高校以上でしょう。

ぼく自身は岡山の県立高校の卒業生ですが、当時の「倫理社会」の先生とかが授業中に「私は仏教徒です」とか名乗りながらえんえんと仏教の解説をしたり、哲学をこと細かに教えてくれたりしました。

ぼくは高校時代にはすでにキリスト教徒でしたので、その先生の授業に心底辟易しながらも(だっておもむろにキリスト教批判とか始めるんですよ)、今でも心に残る良い授業だったと思っています。

そういうのが最近はあるのでしょうか。あるなら素晴らしいと思うのですが、無さそうに感じます。

そして、その傾向(公教育で哲学を熱心に教えている様子が感じられないという傾向)は、公立・私立は関係ないような気がします。

逆に、高校ごときで教えるレベルの「中途半端な」思想性を身につけて大学に入ってこられたら扱いにくくて困る、そういうことするなら、おたくの学校の推薦枠を取り消しちゃうよ、みたいなクギでも大学側から刺されているのではないかと感じるほどの、高校の「価値中立化」があるのではないか、と穿ってみたくさえなります。