台風一過の江戸川堤防(2013年9月17日18:30) |
牧師の仕事に「説教」があり、
その「説教」が《ある一定の論理》に基づく「ことば」であり、
その「ことば」を長期にわたり聴き続ける「教会」があり、
その「教会」は「人間」であり、
その「人間」は、3回同じ話を聴くと「飽きる」という性質を持ち、
その「飽きる」という性質がかなり普遍的なものである以上、
「説教」が常に更新される必要がある。
その「更新」とは、
プレゼンの方法(話法、姿勢、服装など)と無関係とは言えませんが、
それよりも
《ある一定の論理》のほうに、より多く関係しているものと思われます。
その《ある一定の論理》が、ぼくは「神学」だと言いたいわけなので、
牧師が「神学」を学び続けることを、
「神学オタク」だの、「勉強好き」だの、言われたくはないわけです。
それは「説教の更新」に直接関わることであり、
「飽き飽きする退屈な礼拝」から教会を解放する唯一の道ですから。
ただ、神学も一つの学問である以上、お金かかります。
「自腹の神学」には限界があります。
とっくの昔にその限界にぶち当たり、
ごきぶりホイホイの粘着シートにひっついて先に進めません。モガモガ。
と、ここまで書いて、
「あ、そうか。『自腹の神学』という本を書けば売れるかも」と
アクドイ商売を思いつき、
その次の瞬間に「やっぱダメだ。売れそうにない」と自分で却下する
アクドクナイ牧師でした(ぼくのことです、笑)。