20世紀の組織神学者の中でファン・ルーラーの影響力が、必ずしも世界大に広がらず、オランダ、ドイツ、南アフリカなどに限定されてしまった原因としてヘッセリンク先生が指摘したのは、ファン・ルーラーの神学的取り組みが「ローカルなもの」であったから、という点でした。
この場合の「ローカルなもの」とは、具体的には、ファン・ルーラーが所属した教団である「オランダ改革派教会」の内部を指しています。つまりそれは、ファン・ルーラーの神学は悪く言えば「オランダ改革派教会」の内部でしか理解できないものであった。しかし良く言えば、それは「オランダ改革派教会」の抱える問題の解決と改善を目指すものであった、ということです。
だから、彼の著書や論文は「オランダ改革派教会」の外部の人が読んでも分からない。教団・教派、国境・文化を越えて、だれが読んでよく分かるような書きものではない。だから、翻訳しても売れないだろうと判断されてきたし、出版社も二の足を踏むし、無理して数冊の訳書を出版しても現実に売れない。だから出版は断念されたし、忘れ去られてきたのです。
それはたぶん、ファン・ルーラーだけでなく、「神学」の辿る運命のようなものなのかもしれません。もちろん、神学者の中には自分が所属する教団の問題にはなるべく触れないようにする人もいる。いや、それどころか、どの教団に属しているかを隠し、伏せて活動しようとするタイプの人もいる。「ぼくはフリーランスなんですよ」とか言っていた自称神学者もいた。
たしかにそのほうが「本が売れる」かもしれないし、著述家としても学者としても「成功者」とみなしてもらえるかもしれないし、出版社や書店は助かるかもしれない、のですが。
しかし、ここでぼくが何度でも考え込んでしまうのは、「神学とは何か」という根本的な問いです。「フリーランス」の神学って何なのか、ということです。ぼくはどうも腑に落ちない。痒いところに手が届いていないぞ、と言いたくなる。
あ、だけど、「フリーエージェント」は、いいかもしれませんね(笑)。
神学者も牧師もFA宣言(笑)。
って、そんなわけ行くかよっ!(怒りながら笑)