ジャック・デリダが『ヘーゲルの時代』(白井健三郎訳、1984年、国文社)でも(おそらく他の本でも)主張していることを一言でいえば
「哲学教育の低年齢化の必要性」ですよね。
ぼくの読み方が間違っていなければそういうことだと思います。
ぼくは賛成ですね、「哲学教育の低年齢化」賛成。
というか、ぼくら教会は、かなり無自覚でやってますよ、「日曜学校」という形での、きわめて低年齢からの(独特の意味での)「哲学教育」。
旧約聖書に書かれていますよね、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(コヘレトの言葉12:1)。これは創造者なる神への「信仰」を持つのは「青春の日々」が良い、という勧めとして読むことができます。
「神の創造」についての信仰などは子どもに対しても大人に対しても一切触れない(そういう「信仰」は一切持つべきでないと考えている)教会も、なかにはあるのかもしれませんけどね。
そのような例外はともかくとして、
もし教会が、「神の創造」についての信仰を小さな子どもに対して教えているとしたら、そのときすでに事実上の「(低年齢化された)哲学教育」が開始されているのだと、ぼくは思います。
そして、そのような教育は、子どもたちの将来にとって(良かれ悪しかれ)モノスゴク重大な影響を与えると思います。
そのような場面で手抜き教育が行われると、子どもたちは思想的に混乱します。
どのみち、小学校も中級くらいになってくると世界の成り立ちについての自然科学的な考え方がどんどん教えられますので、それと聖書の教えとの“関係”(それは“違い”だけではないです)が、手抜きなく教えられる必要があります。
それはかなり高度な神学的・哲学的な問いを間違いなく含んでいますので、問いに応えるにも熟練が必要です。
それでぼくは何を言いたいのかといえば、
デリダな人たちをつかまえて「うちの教会の日曜学校を見習ってほしい」と言いたいのではないし、教会のみんなに「デリダを読むべきだ」などと言いたいのでは(まさか)ありませんので、念のため。
ただ、強いて言えば、実際にはぼくたち(教会のことです)は、ずいぶん低年齢から「特殊教育」を受けたり施したりしているんだと思いますよ、と言いたい、かな。
以上、それだけ。