2013年8月31日土曜日

なぜぼくが「カール・バルト研究会」なのか

言わずもがな、なのか、言わなきゃ分からない、なのか、

まあ、どっちでもいいことですが、

なぜぼくが「カール・バルト研究会」なのかということは、

どこかで釈明する必要があるかもしれないと思っています。

「バルト主義者にならないこと」が唯一の入会条件である

「カール・バルト研究会」を、なぜぼくがやるのか。

決まってんじゃん。「超克」ですよね、それは当然のこと。

でも、難しい問題は、

バルト(主義)をどっちの方向に「超克」するか、です。

昨夜の「カール・バルト研究会」で読んだ個所は、

バルト『教義学要綱』「8 造り主なる神」の前半でした。

その冒頭に次のような文章が出てきます。以下、拙訳で紹介します。

「神が人間になった。
 この命題に示され、我々が信じるべきことは、
 神は自己目的的な存在であることを自ら望まず、
 それゆえ、神は孤立していないということである。
 神は、神自身とは区別される世界に、
 その固有の現実と本質と自由を、惜しみなく与えてくださっている。
 神のことばは、被造世界の存在を支える力である。
 神は、この世界を《劇場》(theatrum)として創造した。
 そのようなものとして保持し、統治しておられる。
 そして神は、その《劇場》の真ん中に
 人間を《神の栄光》(gloriae Dei)の証人として創造したのである。」

(Karl Barth, Dogmatik im Grundriß, Theologischer Verlag Zürich, 1947, 1998, S. 57)

素晴らしい感動的な文章です。これを「超克」するのは非常に難しい。

「超訳」も難しいですね。バルトの意図はよく分かりますけどね。

でも、落とし穴はあります。バルトの論理の「功罪」があります。

それを論証していきたいのです。