2013年9月28日土曜日

半沢直樹と「キリスト教的なるものへの懐疑」などは全く無関係です

「半沢直樹と調達購買について」 坂口 孝則(未来調達研究所株式会社 取締役)

http://www.insightnow.jp/article/7913

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番組を観ないで書いているとは思いませんが、

適当にでっち上げた文章だなと思います(上記リンク先参照)。

半沢直樹をそれほどじっくり観なくても、あの番組の高視聴率と、

この人が「見てとった」らしき「キリスト教的なるものへの懐疑」などは

全く無関係だということが分かったと思います。

前にも書きましたが、

半沢直樹はたしかにやられたらやり返したと思いますし、

倍返しをしたと思いますけど、

「同害報復」はしていません。

憎い相手に対して、指一本触れていないです(少なくともテレビでは)。

指一本触れずに、悪いやつらを倒しただけです。

それは視聴者にも分かったと思う。観てない人たちのことは分かりませんけど。

今のブームが「キリスト教的なるものへの懐疑」に見えるなら、

この人の「キリスト教」の理解は、よほど幼稚なものとしか思えないです。

放置しても構わなかったのですが、

半沢直樹の名誉のために、反論。

ぼくは半沢の姿に使徒パウロに近いものを感じました。

権力に立ち向かうにも「根拠」と「論理」が必要です。

徒党を組んでワーワー言うだけじゃダメなんだ。

逆に、「根拠」と「論理」さえあれば、

プレゼンの仕方次第で、少人数でも悪をきっちり倒せますよ。

ただし、自分も「出向」ですけどね。

「第16回 カール・バルト研究会」報告


本日(2013年9月27日金曜日)午後9時から11時30分まで、「第16回 カール・バルト研究会」をグーグルプラス・ハングアウトで行いました。

本日の参加者は以下の5名でした(五十音順、敬称は略させていただきます)。

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
齋藤 篤(ドイツ・ケルン市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)
藤崎裕之(北海道札幌市に出張中)

ホントに楽しく有意義な読書会でした。

ありがとうございました。

室井さんは上でがんばってください

このたび「関口 康 履歴書(2013年9月28日現在)」をまとめながら

改めて実感したことは、

やっぱりぼくはどこまで行っても青島くんであり、和久さんなのであって、

室井さんじゃないということです。

「ドブネズミみたいに美しく」(ぼくの中学の先輩の甲本ヒロトたんの歌の歌詞)もないけど、

手数で稼ぐ人間の限界は、とうの昔から自覚しています。

象牙の塔で、書斎の中で、抽象的な学問に没頭することを非難する声は大昔から絶えませんが、

そういうのはドブネズミのルサンチマンみたいなもので、

ならやってみろよ(できるものなら)と、

ぼくはやったこともなったこともないけど、象牙の塔の住人の方々の代わりに言いたいですよ。

「正しいことをしたけりゃ偉くなれ」は、16年前からの座右の銘です。

室井さんは上でがんばってください。おれたちは現場でがんばりますので。

「第16回 カール・バルト研究会」を行いました!


本日(2013年9月27日金曜日)午後9時から11時30分まで、「第16回 カール・バルト研究会」をグーグルプラス・ハングアウトで行いました。

本日の参加者は以下の5名でした(五十音順、敬称は略させていただきます)。

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
齋藤 篤(ドイツ・ケルン市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)
藤崎裕之(北海道札幌市に出張中)

ホントに楽しく有意義な読書会でした。

ありがとうございました。

2013年9月27日金曜日

『三島由紀夫全集』の思ひ出

過去のローカルな話ですが、

中学も高校も、自宅から10キロほど離れた学校に自転車で通っていたので、

行きはともかく、帰りはほぼ毎日、どこかに寄り道していました。

でも、実際の行き先が、中高生ごときにそんなにたくさんあるわけではない。

友人宅でしゃべるか、そうでなければ本屋かあるいは公立の図書館に行くか、

ほとんどそのどちらかでした。

本屋も次第にラップで包んだりして立ち読みをさせてもらえないようになり、

そうなるともう、ある意味で必然的・消去法的に

長時間とどまって「休憩」できる場所は、公立の図書館しかない、

という状況に追い込まれていきました。

冒険するタイプではないので、

学校と自宅を結ぶ直線から遠く離れたところまで飛び出していく勇気はない。

実際の行き先は、(以下すべて「岡山市立」)

中央図書館、幸町図書館、浦安総合公園図書館のどれかでした。

それはまさに、ぼくにとっては「帰路の休憩所」以上でも、それ以下でもありませんでした。

今さら文句を言いたいわけではないんですが、

「知的好奇心」を刺激してやまないキラキラ輝く本が立ち並んでいたわけではないです。

ぼく的には、本を読んでいるふりして休憩させてもらっているだけでしたので、

なるべく見た目が格好いい装丁の本を選ぶ傾向がありました。

そういうのをデンと机の上に置き、読むというより眺めているのが好きでした。

そういう「偽装用アイテム」として、ぼくがよく使わせてもらったのは、

『三島由紀夫全集』でしたね。

字をおっかけても全く頭に入らないし、興味もわかないんですけどね。

司書さんの目からはどんなふうに見えてたんでしょうね。

毎日のように汗だくで図書館に駆け込み、『三島由紀夫全集』を耽読している高校生。

思い出すだけで笑えますね。

つまらない話ですいません。

2013年9月26日木曜日

I Have A Dream

5年前(2008年12月)

アムステルダム自由大学で開催された

「国際ファン・ルーラー学会」(Internationale Van Ruler Congres)で、

モルトマン先生が最前列に座っていた約200名の欧米の神学者の前で

ぼくが英語でスピーチをした、ということで、

その後、一人の方(ぼくより年上の女性の牧師さんです)から

「関口さん、もういつ死んでもいいですね」

と(ネットではなくリアルで)言われたのですが、

「いや、まだ死ねないですね」

と真顔で応えたことを、昨日のことのように覚えています。

今年(2013年)ぼくが立教大学のゲスト講義をさせていただいたあと、

「関口さん、もういつ死んでもいいですね」

とは、だれも言ってくれません。

「もうそろそろいいかな」と思ってるんですけど。

ぼくが何をしたいのかについて、釈明の必要があるでしょうかね。

ぼくという人間を個人的に少しでも知っている方々は、

「功成り名遂げる」ことなどに興味を持つ人間ではありえないことを、

例外なく知っています。

ついでにいえば、

「競争」がとにかく苦手で、そういう状況に追い込まれると、

ほぼ100パー「どうぞどうぞ」(ダチョウ倶楽部)と譲ってしまう人間でもあります。

そういうことではなくて、ですね、

ぼくは、

日本の教会と牧師が、

もっと「神学」(←ここ重要です)を勉強することで、

もっと「社会的に信頼される」(←ここも重要です)存在になってほしいと、

「自分のことを棚に上げないで」(←ここが最も重要です)願っているだけです。

教会と牧師が「神学」を学ぶことが、なぜ「社会的信頼」につながるのかといえば、

話は単純です。

自分が語っている言葉や、していることの意味や内容を

きちんと説明することもできない人たちを、だれが信用するのかという問題です。

前に書きましたよね(書きませんでしたっけ?)、

ぼくが牧師になろうと思った動機の、いくつかある中の一つ。

生まれたときから通っていた教会の牧師の説教があまりにも支離滅裂に思えたので、

ぼくが代わりに説教しなければならないと思い詰めた、という話。

みなさんに言っておきますよ。

自分の子どもや教会の青年に「牧師になってほしい」と願っている牧師たちは、

名説教をしてはいけません。聞くに堪えない説教をしてください。

そうすれば、

貴方の(ひどい)説教に我慢できなくなった青年たちが、

次々に神学校に入学し、牧師を目指しはじめるでしょう。

ぼくは、日本キリスト改革派教会の教師を引退する定年70歳まで、

残り22年とちょっとです。

引退まで、ただひたすら、説教と牧会を続けていく所存です。

これからもどうかよろしくお願いいたします。

2013年9月26日

関口 康


2013年9月25日水曜日

日記「たとえていえば、買ったばかりのパソコンのようなものです」

ぼくは「哲学」ということばを、広い意味でも狭い意味でも考えています。

広い意味での「哲学」はモノゴトの考え方の筋道というくらいの意味ですので、そこには「宗教」は含まれます。宗教の哲学を「宗教哲学」と呼んだりします。あるいは、数学であれ物理学であれ、モノゴトの考え方の筋道が示されて然るべき学問ですから、それらも一種の「哲学」です。

しかし、狭い意味での「哲学」は、たとえばヘーゲルが示したような形、それは「論理学」(よみかきそろばん、といえばよいでしょうか)と「自然哲学」(理系学問の根本原理、といえばよいでしょうか)と「精神哲学」(文系学問の根本原理、といえばよいでしょうか)を総合したようなものです。

それを教えるのは大学に入ってからだ、というのがヨーロッパでは昔からの考え方でしたが、それをもっと低年齢から教えはじめるべきだ、というのがデリダの主張だったようです。現状ではそれらはまだ、少なくとも日本の公教育の中では十分に教えられているとは言えないので、一つの(現状に対する批判的な)問題提起として、デリダの主張は日本でももっと聞かれるべきではないかと、ぼくは思います。

ぼくの場合はかなり過激な意見になってしまいがちなのですが、今の公共教育(とくに小学校から高校まで)が重んじていることは「形式」(フォーム)ばかりで、「内容」(マテリアル)がないと、ぼくは感じるのです。

英語力も計算力も強化されているとは思う。だけど、それは、たとえていえば、買ってきたばかりのパソコンのようなものです。どんなに高性能でも、中身(マテリアル)が空っぽです。もちろん、いまならパソコンのスイッチを入れてネットにつなげば、ブラウザ経由で無尽蔵のデータが手に入るのかもしれない。だけど、その中から自分に必要なデータを取捨選択するのは、あくまでも自分自身です。

その取捨選択の根拠とその論理は何かを問うても、ポカン顔でスルーされてしまう感じ。何を問われているのか、その質問の意図さえ理解してもらえない。その「内容」が、ぼくは「哲学」なり「宗教」なりではないだろうかと思っているのです。

ぼく自身の中でも未整理で錯綜している部分が多いので、途中で辻褄が合わなくなってしまうところがあることを自覚しています。

デリダが「哲学教育の低年齢化」という場合、具体的に何歳くらいで教育を始めるべきだと考えていたのかが一つの問題ですが、1822年(19世紀初頭!)のヘーゲルが「11歳のときにヴォルフのイデア・クラーラ(明晰判明ナル観念)の定義を学び、ついで13歳のときに三段論法の格および規則の総体をわがものにした」と子どもの頃を回顧している言葉をデリダが引用しています(ジャック・デリダ『ヘーゲルの時代』白井健三郎訳、国文社、1984年、48ページ)。

それが「ヘーゲルの時代」の学校教育だった、しかし、いま(のフランス)は違う、そういうことを全く教えていない、というわけです。

しかし、ぼく自身は、日本の公立学校の教育、とくに義務教育の小中学校の間に「哲学」を教えるべきだ、ということまでは、さすがに(まさか)考えていません。やはり高校以上でしょう。

ぼく自身は岡山の県立高校の卒業生ですが、当時の「倫理社会」の先生とかが授業中に「私は仏教徒です」とか名乗りながらえんえんと仏教の解説をしたり、哲学をこと細かに教えてくれたりしました。

ぼくは高校時代にはすでにキリスト教徒でしたので、その先生の授業に心底辟易しながらも(だっておもむろにキリスト教批判とか始めるんですよ)、今でも心に残る良い授業だったと思っています。

そういうのが最近はあるのでしょうか。あるなら素晴らしいと思うのですが、無さそうに感じます。

そして、その傾向(公教育で哲学を熱心に教えている様子が感じられないという傾向)は、公立・私立は関係ないような気がします。

逆に、高校ごときで教えるレベルの「中途半端な」思想性を身につけて大学に入ってこられたら扱いにくくて困る、そういうことするなら、おたくの学校の推薦枠を取り消しちゃうよ、みたいなクギでも大学側から刺されているのではないかと感じるほどの、高校の「価値中立化」があるのではないか、と穿ってみたくさえなります。

日記「教会は事実上「(低年齢化された)哲学教育」をやってきたのだと思う」

ジャック・デリダが『ヘーゲルの時代』(白井健三郎訳、1984年、国文社)でも(おそらく他の本でも)主張していることを一言でいえば

「哲学教育の低年齢化の必要性」ですよね。

ぼくの読み方が間違っていなければそういうことだと思います。

ぼくは賛成ですね、「哲学教育の低年齢化」賛成。

というか、ぼくら教会は、かなり無自覚でやってますよ、「日曜学校」という形での、きわめて低年齢からの(独特の意味での)「哲学教育」。

旧約聖書に書かれていますよね、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(コヘレトの言葉12:1)。これは創造者なる神への「信仰」を持つのは「青春の日々」が良い、という勧めとして読むことができます。

「神の創造」についての信仰などは子どもに対しても大人に対しても一切触れない(そういう「信仰」は一切持つべきでないと考えている)教会も、なかにはあるのかもしれませんけどね。

そのような例外はともかくとして、

もし教会が、「神の創造」についての信仰を小さな子どもに対して教えているとしたら、そのときすでに事実上の「(低年齢化された)哲学教育」が開始されているのだと、ぼくは思います。

そして、そのような教育は、子どもたちの将来にとって(良かれ悪しかれ)モノスゴク重大な影響を与えると思います。

そのような場面で手抜き教育が行われると、子どもたちは思想的に混乱します。

どのみち、小学校も中級くらいになってくると世界の成り立ちについての自然科学的な考え方がどんどん教えられますので、それと聖書の教えとの“関係”(それは“違い”だけではないです)が、手抜きなく教えられる必要があります。

それはかなり高度な神学的・哲学的な問いを間違いなく含んでいますので、問いに応えるにも熟練が必要です。

それでぼくは何を言いたいのかといえば、

デリダな人たちをつかまえて「うちの教会の日曜学校を見習ってほしい」と言いたいのではないし、教会のみんなに「デリダを読むべきだ」などと言いたいのでは(まさか)ありませんので、念のため。

ただ、強いて言えば、実際にはぼくたち(教会のことです)は、ずいぶん低年齢から「特殊教育」を受けたり施したりしているんだと思いますよ、と言いたい、かな。

以上、それだけ。

2013年9月24日火曜日

日記「ヘーゲルが難しすぎて泣ける」


こういうことを書くと、ただ軽蔑を招くだけなのか、

だれかを慰めることになるのかは分かりませんが、

ぼくが買った本の中には

10年でも20年でも「読めない」本がたくさんあります。

たとえばヘーゲル関係の本などがそうです。

興味津々なのですが、難解すぎて読めません。

岩波版『ヘーゲル全集』も欲しいと思っているくらいですが、

それを買っても、たぶん結果は同じです。

ヘーゲルは生前に(出版年順に)

『精神現象学』と『大論理学』と『エンチュクロペディー』と『法の哲学』を出版したそうですが、

これは組織神学をかじっている者には興味津々です。

ヘーゲルはテュービンゲン神学校で「神学」を学んだ人なので、

ヘーゲルの思想にキリスト教の影響があるのは当然のことですし、

「一種のキリスト教哲学を営んだ」と見ることが、飛躍や暴論であるとは思えません。

著書にしても

『エンチュクロペディー』
『神の義(レヒト)の哲学』(法哲学)
『神のことば(ロギーク)の研究』(大論理学)
『神の霊(ガイスト)の現象』(精神現象学)

とでも考えてみれば、三位一体的な構成のような気がしてきます。

でも、全く歯が立たないので、「もしかしてそうかな?」と思っているだけです。

「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」という気持ちです。

ヘーゲルに強い方、ぜひ教えてください。

2013年9月23日月曜日

アイ・ラヴ・ユー

I love you.は「わたしはあなたを愛しています」ではないよね、

てか、「わたしはあなたを愛しています」という日本語は無いよね、

...と思ってましたが、ありますねそれ。

それはある、ということにさっき気づいて、反省しました。

でも、ちょっと違う気がする。

「わたしはあなたを愛してるよ」

ですかね(照れる)。

でも、これI love you.じゃないですね。

2013年9月22日日曜日

信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい

テモテへの手紙一6・11~16

「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」

テモテへの手紙一の学びもあと一回分残っているところまで来ました。しかし、前もってお知らせしておきます。来月は第四日曜日の夕拝は、休会とします。

10月27日日曜日、午後3時から、「東関東中会宗教改革記念合同礼拝」を、船橋高根教会で行います。そちらに合流します。松戸小金原教会の夕拝はありません。

そのため、この手紙の学びは、10月27日ではなく11月24日の夕拝で終わりにします。12月からは、新しいテキストを学びます。

今日の個所はこの手紙の締めくくりにふさわしく、手紙の送り先であるテモテを励ます言葉が書かれています。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」(11節)。

「避けなさい」の原語の意味を調べてみました。「避ける」と訳しても間違いではありません。しかし、「逃げる」とか「逃げ去る」という意味のほうが強い言葉であることが分かりました。

「これらのこと」(11節)とは何でしょうか。いろんな意味が考えられます。しかし最も直接的には、直前に書かれている「金銭の欲」(10節)です。そして、欲深い生き方のすべてです。そういうものを避けることが求められています。しかし、その意味は、むしろ逃げることです。全速力で走って逃げること。逃亡することです。

人間を分け隔てするようなことを言うべきではありません。しかし、欲望というのは自分一人でも成り立ちますが、それが集団化すると凶悪なものになりかねません。組織的な犯罪のようなものに組み込まれてしまうと、個人の力ではいかんともしがたい状況に追い込まれてしまうことがあります。

そのような人間関係からは、全速力で逃げるべきです。そうでなければ、悪い仲間に引きずり込まれてしまいます。

そういう関係からは一目散に逃げてください。そして、全く新しい関係に加わってください。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」を追い求める仲間に加わってください。それが教会です。

教会は、そのような犯罪集団から逃げてきた人々を匿うことがあります。洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれ、正義と信心、信仰と愛、忍耐と柔和を追い求める仲間になっていただくことを願っているのです。

「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」と続いています。

「信仰の戦い」とは何のことでしょうか。信仰とは戦うことでしょうか。思い当たるのは「欲」との戦い、あるいは「罪」との戦いです。

しかし、「戦いなさい」とパウロは言いながら、「避けなさい」(その意味は「逃げなさい」)とも言っています。わたしたちは、戦うべきなのでしょうか、それとも逃げるなのべきでしょうか。このような疑問が起こって来るような気がします。

しかし、パウロの言っていることは矛盾ではないと思います。「信仰の戦い」は、言葉の通常の意味での戦いではないのです。わたしたちの場合、「戦い」と言いましても、腕力を使うことではないし、暴力をふるうことでもありません。

それでは、言葉や知恵を用いて戦うのかと考えてみますと、もちろんその面もあるわけですが、口喧嘩をするわけではありません。言葉の暴力をふるいあうことではないのです。

ならば、何が「信仰の戦い」なのでしょうか。それは、罪を避けることです。欲望の誘惑から逃げることです。それこそが「信仰の戦い」です。

ですから、わたしたちは敵に背中を向けて逃げてもいいのです。弱虫と言われようが、負け犬と罵られようが、そこで立ち止まり、振り向いて、敵をめがけて暴力の戦いを挑むべきではないのです。

迷わず逃げてください。遠ざかってください。後ろを振り向かないでください。別れの言葉は要りません。「さようなら」と言わなくてはならないと思わないでください。それを言うために引き返す必要はありません。わたしたちは、命を得るために、罪から逃げるのです。逃げることは、恥ずかしいことではありません。

しかし、誤解がないようにお願いします。

それは「人生をやめること」ではありません。この世に生きているかぎり、罪を犯すことは避けられないということは、なるほど事実です。しかし、だからといって、罪から逃げるということは人生をやめることではないのです。

これはふざけた問いではありません。かなり深刻な問いです。深刻に真剣に、自分の罪を悔いるゆえに、自分がこの世に生きていること自体が罪であると思い、自分で命を断ってしまう人がいます。

しかし、それは誤解です。

「罪から逃げること」は、「人生をやめること」を意味するわけではありません。

そうではなくて、生きたままで、罪を犯さないように心がけることです。

つまり、「信仰の戦い」とは、地上で生きながらにして、罪を犯すことから逃げ続けるのをあきらめないことです。だからこそ、それは「戦い」なのです。

イエス・キリストと共に生きていくとは、そのようなことです。イエス・キリストは、腕力や暴力で戦われたわけではありません。全くの無抵抗の戦いでした。十字架につけられて殺されました。惨めであわれなお姿でした。

しかし、そのイエス・キリストと共に、わたしたちは生きていくのです。イエスさまは弱虫でも負け犬でもありません。罪との戦いを徹底的に戦い抜いた方なのです。

(2013年9月22日、松戸小金原教会主日夕拝)

今日の朝の礼拝の説教をブログに貼りつけました

たまには宣伝しておきます。

「関口康日記」の姉妹ブログである「今週の説教」のほうもぜひお読みいただきたく願っています。

今日の朝の礼拝の説教原稿を貼りつけておきました。

説教題は「教会に通うことは自由になることです」です。ローマの信徒への手紙7・1~6の講解です。

今週の説教: 教会に通うことは自由になることです(2013年9月22日)

教会に通うことは自由になることです

ローマの信徒への手紙7・1~6

「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」

今日の個所にはずいぶんきわどい言葉が続いていますので、少々お話ししづらいところがあります。前回の個所と同様パウロは「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明している」(6・19)のです。話を分かりやすくするために、敢えてきわどいことを書いているのです。

小見出しに「結婚の比喩」と書かれています。しかし、その話の中に「夫が死ねば」という言葉が二回も繰り返されていますので、これは夫が死ぬ話であるということが分かります。「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです」(1節)と書かれています。

「律法」とは法律です。字を書く順序を入れ替えただけです。聖書に記された神の戒めを「律法」と呼びますが、それが人間社会の秩序やルールを定めるものであるという点では、律法と法律は同じです。

ですから、パウロが言いたいことは、結婚とは法律に基づく行為であるということです。法律は、わたしたちが地上で生きている間だけ、わたしたちを縛るものであるということです。死んだ後までわたしたちを縛るものではありません。それが「律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」(1節)とパウロが書いている意図です。

だからこそ、「従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません」(3節)というような話にもなっていきます。死別後の再婚は何の問題もないと言っているのです。

しかし、これはあくまでも比喩です。パウロが言いたいことは、結婚とか死別とか再婚とか、そのこと自体ではありません。このような比喩を用いて別のことが言いたいのです。

パウロは何を言いたいのでしょうか。それは次の言葉です。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」(4節)。

これはどういうことでしょうか。パウロの言葉から分かることは、前回までの個所に書かれていることとも合わせていえば、まずは洗礼を受けるということはイエス・キリストに結ばれることであるという点があります。そしてそのうえで、イエス・キリストと結ばれた人は律法に対しては死んだ者となっていると言っています。

なぜそういうことになるのかというと、ここで先ほどから申している「結婚の比喩」が関係してきます。「夫が死ねば」という点が重要です。夫が死ねば再婚は可能であるというわけです。

しかし、この話が、洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれるという話とどのように関係してくるのでしょうか。洗礼の場合はだれが死ぬのでしょうか。その答えははっきりしています。わたしたちが死ぬのです。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ」たのであり、「その死にあずかるものとな」ったのです(6・4)。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」(6・6)のです。
 
わたしたちは洗礼を受けたときに一度死んだのです。だから律法との関係はそこで終わったのです。そして、だからこそイエス・キリストの“再婚”が可能になったのです。律法との関係も続けながらイエス・キリストとの関係を始めたわけではないのだ。その意味で“姦淫”を犯しているのではないのだ。そのような話をパウロがしています。

しかし、これはわたしたちにとって分かりやすい話でしょうか、それとも、分かりにくいでしょうか。分かりにくいとお感じになる方が多いかもしれませんので、別の視点から考えてみる必要があるような気がします。

別の視点と言いますのは、次のようなことです。パウロが「律法の支配」と言っていることの中に、彼がおそらく生まれたときから関係し続けてきたと思われるユダヤ教との関係の問題が含まれているに違いない、ということです。

パウロはユダヤ人であり、ユダヤ教徒の家庭に生まれ育った人です。彼自身、熱心なユダヤ教徒となり、エルサレムの律法学校の卒業生であり、ユダヤ教の指導者になることを目指して訓練を受けた人でもあります。

そのようなパウロが、人生の途中で方向を換えてイエス・キリストを信じる人になり、キリスト者となり、教会に通い、教会の牧師となり、伝道者となることは、彼の古巣であるユダヤ教の人たちの目から見れば、パウロは姦淫を犯しているというように見えたかもしれません。あれほどユダヤ教を信じていた人が、別の道に入った。裏切り者だ、姦淫の罪を犯している。二つの宗教を二股かけている。そのような批判やそしりを受けても仕方がないような立場にパウロが立ったことは間違いないのです。

しかし、パウロはもちろん、そのような意味での姦淫を犯しているわけではありません。彼は二股かけているわけではありません。律法に対しては死んだのだ。洗礼を受けたときにイエス・キリストと共に十字架につけられて死んだのだ。だから、もうそのときに律法との関係は終わったのだ。“再婚”は可能なのだ。だから、いま自分が教会に通っていることも、教会の牧師であり、伝道者であることは、誰から責められるようなことでもないのだと、パウロは声を大にして主張しているのです。

乱暴な言い方をするつもりはありません。しかし、ここで私が申し上げたいことは、宗教とはそのようなものだということです。あちらの宗教からも、こちらの宗教からも、自分にとって都合のよいところを少しずつもらって役立てる、というようなことはできないものだ、ということです。

聖書が教える「姦淫」というのは、男女の関係だけの問題ではありません。あちらの宗教の神さまと、こちらの宗教の神さまと、その両方とも信じるとか、両方に仕えようとする、というようなことも含んでいます。そのようなやり方は宗教にはそぐわないものです。それは、聖書が教える意味での「姦淫」を犯すことなのです。

ですから、洗礼を受けることには、やはり決断が伴います。ひとりの神さまを選ぶ、という決心と約束が必要です。より正確な言い方をすれば、まず第一に神がイエス・キリストにおいてわたしたちを選んでくださるのですが、わたしたちを選んでくださったその神をわたしたち自身が選ぶのです。この方をわたしたち自身が選び、この方と共に生きていくことを決めなくてはなりません。

いま私がみなさんにそのことを押しつけているのではありません。パウロはそうしたのだ、と申し上げているのです。生まれたときから通っていた、長年世話にもなった、そこで指導者になることを目指しもした、ユダヤ教の教会に別れを告げました。「薄情なやつだ」「裏切り者だ」と言われようとも。パウロは、古い自分は洗礼を受けたときに十字架につけられて死んだのだと信じました。そして、イエス・キリストとの“再婚”の道を選んだのです。

それは、どういうことになるでしょうか。ぜひ考えてみていただきたいことがあります。パウロのように生きることは、世間を狭くすることになるでしょうか、という問題です。洗礼を受けたばかりに、人間関係が希薄になった。友達が減った。孤立した。そのような寂しい人生を送らなければならなくなるでしょうか。「そのとおりだ」と言われてしまうかもしれませんが、私にはそうとは思えないのです。

パウロはむしろ、前よりももっと多くの、本当に心から信頼できる、心おけない仲間が与えられたのではないかと私は思います。そうではないでしょうか。なるほどたしかに、昔の人間関係は切れてしまったかもしれません。しかし、イエス・キリストを信じる信仰に基づいて愛と喜びを分かち合う仲間が与えられたのではないでしょうか。

私はキリスト者であり、教会の牧師ですから、「特定の宗教を宣伝している」と思われてしまうのは仕方がないことです。しかし、ひとりの神さま、ひとりのイエス・キリストを信じ、従って生きる道を選んだ人々には堂々たる安定感があると私は思っています。付和雷同的ではない。風見鶏ではない。首尾一貫性がある。安心して信頼できる存在になっていく。そういう人は、友達が少なくなるとか、世間が狭くなるということにはならないのです。

しかし、ここから先は、実際にその道を生きてみるしかないと言わざるをえません。今日の説教題に「教会に通うことは自由になることです」と書かせていただきました。これは日本だけではなく、現代の世界において最も説得力のない言葉だと思われてしまうことであるということは、分かっているつもりです。

多くの人は、全く逆のことを考えています。宗教に深入りしたら自由がなくなる。宗教はわたしたちの人生をがんじがらめに束縛する。教会とはそのようなところであると見られているということを、知らないでいるわけではないのです。

しかし、ぜひ私の言葉を信じていただきたいのです。「教会」と名の付くすべてが同じであるとまでは申しません。しかし、わたしたちの教会は、だれをも束縛しません。それが事実かどうかは、わたしたちの教会に通っている人の顔や姿を見ていただくしかありません。牧師の命令や脅迫に怯えている人はひとりもいません。自由の喜びに満たされています。

教会に通うことは自由になることです。洗礼を受け、イエス・キリストと結ばれ、教会に通うことによって、わたしたちは罪の誘惑から自由になります。自己実現の際限なき欲望から自由になります。そのことを信じていただきたいのです。

(2013年9月22日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年9月21日土曜日

日記「デリダをもう少しちゃんと読んでみるかな」

いつからだろう、もしかしたら物心つく頃から

「だれからも支配されたくない。だれをも支配したくない」

と、ぼくは本当に考え続けてきたのですが、

これってデリダが言ってたらしいと、いま知りました。

(リンク先参照 http://www.rakuhoku-pub.jp/book/2701X.html

デリダは一冊(『ヘーゲルの時代』国文社、白井健三郎訳、1984年)しか読んでないけど、

そんなこと書いてたっけ。記憶にないなあ...

とか考えながら、いま『ヘーゲルの時代』を開いたら、こんな切り抜きが出てきました。

おやおや、「2004年11月18日 木曜日」だって。松戸に来た年だ。

「知識人の言葉は無力だが、あきらめてはいけない」

デリダをもう少しちゃんと読んでみるかな。


2013年9月19日木曜日

ほぼ最初の日から「ほとんど日本キリスト改革派教会の教師」でした


1990年4月、東京神学大学大学院を卒業して

補教師として赴任した日本基督教団南国教会(高知県南国市)の

当時「主任牧師」であった鈴木實先生のご夫人が、

初めてお目にかかった日に

「父が書いた本です」と言いながらプレゼントしてくださったのが、

岡田稔著『改革派教理学教本』(新教出版社、1969年)でした。

鈴木先生のご夫人の純さんは、岡田稔先生のご長女でした。

『改革派教理学教本』は粗削りであると思いましたが、武骨さに魅了されました。

岡田稔先生は1992年7月に亡くなられました。

神港教会での葬儀には、鈴木先生ご夫妻と共にぼくも参列しました。

1992年9月から1993年9月までに『岡田稔著作集』全5巻が出版されました。

『岡田稔著作集』もすべて、鈴木先生ご夫妻からのプレゼントです。

こんな感じでしたので、

ぼくは日本基督教団の補教師になったほぼ最初の日から、

心の中は「ほとんど日本キリスト改革派教会の教師」でした。

当時感じたことを偽りなく書きますが、

「姦淫」の罪を犯している気がしてきたので(そのように何度か公言しました)、

1998年6月、日本キリスト改革派教会の教師にしていただきました。

日本基督教団の制度には問題を感じていましたが、人を憎む思いは皆無でした。

神戸改革派神学校には2年次編入し、在学は1年3か月でしたが、卒業しました。

その短い間に、

牧田吉和先生と市川康則先生の「改革派教義学」のすべての講義を聴きました。

卒業論文も書きました。ファン・ルーラーの神学を取り上げました。

その後、東部中会で「厳しい」加入試験を受けて合格しました。

なんら、モグリではありません。

日本キリスト改革派教会に加入して16年目です。

しかし、『改革派教理学教本』と出会った日から数えれば24年目です。

妻と結婚して23年目(これは余談)。

日本キリスト改革派教会加入以来、

「新入り」と自称してモジモジしてきましたが、

ぼくよりも20歳も若い人が教師になりましたので、

もう「新入り」を名乗るのはやめようと思います。

今年度は大会では無役でヒマでしたが、中会では5つの委員会に加えられています。

ぼくはぼくなりに充実した毎日を過ごしております。

ありがとうございます。

2013年9月18日水曜日

罪の力に負けないでください

ローマの信徒への手紙6・15~23

「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してもよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

今日の個所でもパウロは罪の問題を考え続けています。しかし、今日の個所でパウロが問題にしていることの中心にあるのは、わたしたちは罪を犯してもよいかどうかということです。その答えは、当然のことですが、「だめです」ということです。罪を犯してもよいという話にはなりません。そんな話になるわけがありません。それは明らかにおかしな話です。

これは冷静に考えれば、だれでも分かる話です。そもそも「犯してもよい罪」が存在するでしょうか。そんなのはありません。それを「罪」とは呼びません。

私はもちろん、聖書に書かれている意味の「罪」について考えています。その場合でも、どんな場合でも、「罪」には必ず加害者と被害者とがいるのだということを忘れてはなりません。加害者も被害者もいない罪などは存在しません。だれかが罪を犯せば、その罪によって他のだれかが必ず傷つくのです。

もしそうであれば、「犯してもよい罪」は存在しないということは、だれでも分かる話です。それは、言い方を換えれば、だれかが犯した罪によって傷つけられてもよい人は存在しない、ということです。

これから申し上げるのは、よく使われるたとえです。それを「罪」と呼ぶのは大げさかもしれません。あくまでもたとえです。だれかの足を踏んだ人と、その人に足を踏まれただれかがいる。だれかの足を踏んだ人は、痛くもかゆくもない。しかし、その人に足を踏まれただれかは、一生忘れないと言いたくなるほど痛くてたまらない。

「踏まれてもよい足」が存在するでしょうか。そんなのはないのです。あってはならないのです。パウロが考えているのはそのようなことだと考えていただいて構いません。

「犯してもよい罪」などは存在しません。だれかに傷つけられてもよい人は存在しません。そんなことはやめてください。立場を逆にしてみればすぐ分かることです。自分が犯した罪は自分にとっては小さなものだと感じるかもしれません。しかし、その罪によって傷つけられた人にとっては大きなものだと感じます。

自分が加害者になったときはその罪をできるだけ小さなものに見せようとします。しかし、自分が被害者になったときは復讐の鬼になります。相手の罪を暴きたて、とことんまで責め立てます。そういうふうになっていくのが人間の弱さです。

復讐の攻防はえんえんと続きます。どちらかがどこかで断ち切らなければ、終わることがありません。しかし、そのとき、加害者が被害者の前で開き直って、自分の罪は「犯してもよい罪」だったのだ、などと言ってよいはずがありません。そんな罪は存在しないのです。

罪を犯さないようにすること。「犯してもよい罪」などは存在しないのだということを自分自身に強く言い聞かせること。それだけが復讐の攻防の悪連鎖を断ち切る唯一の道です。

しかし、パウロは、冷静に考えればだれでも分かるようなことを敢えて取り上げています。「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」(15節)と書いています。

どうしてこんな話になるのでしょうか。それは先週の個所の最後に書かれていたことに関係しています。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(14節)と書かれていました。

これについて私は「わたしたちの支配者が変わったのだ」と説明しました。洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれたわたしたちの支配者はイエス・キリストである。かつては罪がわたしたちの支配者だったが、その支配者がイエス・キリストに変わったのだと申しました。これはこれで、このまま受け入れていただきたいことです。そして、イエス・キリストにおいて表された「神の恵み」とは、わたしたちの罪を赦してくださる恵みです。これもこのとおりです。この説明自体が間違っているわけではありません。

しかし、こういうことを申しますと時々出てくる話は、「なるほど、それでは、わたしたちの犯す罪は何度でも赦していただけるのですね。それならば、これからも遠慮なくどんどん罪を犯してもいいのですね。だって神さまの広い心で何度でも赦してもらえるんでしょ?」というようなことだったりします。

そんな屁理屈は成り立ちませんよ、とパウロは言いたいのです。少しは遠慮しなさいと言いたいのです。いえ、「少し」どころか、ものすごく遠慮する必要があります。罪は犯してはいけないのです。犯してはいけないことを「罪」と呼ぶのです。

パウロは次のように書いています。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷になる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(16節)。

「神に従順に仕える奴隷」とは何のことでしょうか。パウロが用いているこの表現は明らかに極端なものです。なぜパウロはこのような極端な表現を用いているのかといえば、「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」(19節)と書いてあるとおりです。「分かりやすく説明している」つもりなのです。

「神に従順に仕える奴隷になる」というのは、文脈から見て明らかに、洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれることを言い換えたことばです。そして「結ばれる」とは「結婚すること」とほとんど同じことを意味すると、先週申し上げました。それは、この後すぐに7章1節以下に「結婚の比喩」が出てくることからも明らかです。

しかし、洗礼を受けることは「結婚」とほとんど同じことだと言ったすぐ後に「それは神の奴隷になることだ」と言いはじめるのは、話の運び方としては、かなりまずいです。結婚することは奴隷になることでしょうか。こういうことを言うと、今ではものすごく怒られます。

しかし、話の運び方としては明らかにまずいのですが、たしかに分かりやすいことは分かりやすいです。パウロの意図を考えるとしたら、明らかに極端な表現を敢えて用いることによって強調しようとしている論点があるということです。

それは、もしわたしたちが「神の奴隷」にならないならば、ほとんど必ず「罪の奴隷」になるのだということです。なんでそんな話になるのかといえば、パウロは「罪」の力がものすごく強いものであり、人を誘惑し、魅了し、圧倒するものであるということを知っているのです。だからこそ、罪から人を引きはがし、引き離す力は神だけが持っておられるものだという話になり、罪から人を引きはがし、神のもとで保護される必要があるという話になるのです。神の支配下にもつかないが、罪の支配下にもつかないという中立の状態はないと言っているのです。

つまり、「神の奴隷」になることは、「罪の奴隷状態からの解放」を意味しています。罪のもとから、神があなたを取り戻す。奪還作戦が展開されるのです。

しかし、「神の奴隷」になるというのは、やはり言いすぎと言えば言いすぎです。そのことはパウロもよく分かっています。洗礼を受けて教会に通うことは、真に自由になることです。「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(18節)と書いています。

「伝えられた教えの規範」とは教会の中に伝えられた教えのことですから、今のわたしたちはそれを聖書という形で読むことができますが、パウロの時代には今の聖書ほどまとまったキリスト教の本は存在しませんでした。しかし、まとまっていない形のいろんな教えの規範がありました。そういうものに「心から従うようになる」とは、これも今のわたしたちで言えば、聖書を学ぶことと同じです。

それがどうして「神の奴隷」になることだと言うのかといえば、聖書を学ぶことは、これはこれでけっこう大変なことでもあり、苦痛もあるからではないかと思われます。「教会に来ても、また勉強か。うんざりだ」と思われてしまう面があることは否定できません。聖書を学ぶことに苦痛を感じ始めると、教会に通うことが苦痛になるかもしれません。「そうだったのか。教会に通うことは、教会の奴隷になることだったのか。こんなのはまっぴらだ」というような話になってしまう場合もあるわけです。

しかし、ここでパウロが言いたいことは、比較なのだと思います。「罪の奴隷」であり続けるぐらいならば、「神の奴隷」になるほうがましだ、と言いたいのです。しかし、洗礼を受けることは、奴隷になることではありませんから、どうかご安心ください。自由になることです。解放されることです。そのことをパウロは百も承知で、敢えて極端なことを言っているのです。

「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」(19節)。

今日の個所でパウロは、一つのことしか言っていません。同じことを、いろんな言葉で何度も何度も言い換えているだけです。

「罪を犯してはいけない」と言っているだけです。罪の生活をこれからも続けて死にたいのか。そんなはずはないだろう、と言っているのです。罪の生活をやめて生きてくれ、と言っているのです。

罪を犯せば、必ず責められます。神からも人からも責められます。その責めに耐えられる人はいません。神からも人からも逃げ続けて生きなくてはならなくなります。

うそをつけば、そのうそを正当化するために、うそでうそを塗り固め続けなくてはならなくなります。ばれないようにするために、孤立し、隠れなくてはならなくなり、暗く寂しい人生になります。

それでいいのか、いいはずないだろう。

罪の奴隷状態から、あなたを奪い返す。

イエス・キリストの恵みの下であなたを保護する。

神の教えを学んで立ち直ってほしい。

そのようなパウロの強い意志が表われています。

それは、神御自身の意志であり、教会の意志でもあるのです。

(2013年9月15日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年9月17日火曜日

青野太潮先生の『「十字架の神学」をめぐって 講演集』を興味深く読ませていただいています

千葉英和高等学校(2013年9月17日17:30)


今日(2013年9月17日火曜日)午後5時30分から7時まで

「第4回 十字架の神学研究会」に出席しました。

会場は千葉英和高等学校でした。

今日のテキストは、

青野太潮著『「十字架の神学」をめぐって 講演集』(新教新書268、2011年)の

「2 『贖い』の思想について―川島重成氏との対話―」でした。

この章の主旨は、

国際基督教大学での青野先生の先輩である川島重成氏(無教会関根正雄集会のメンバー)から

青野先生宛に送られた「書簡」に対する「反論」です。

刺激的で興味深い内容ですので、どんな議論が交わされているかをご紹介したいところですが、

この章は(本書は新書版ですが)62ページも費やされていますので、

聖書学に関して門外漢であるぼくにはなおさら、短い言葉でまとめて紹介することは不可能です。

しかし、一つの点だけですが、忘れないうちに書きとめておこうと思うことがありました。

それは、青野先生の議論は、ファン・ルーラーの神学をほんの少しかじっているぼくにとっては、

とても納得できるものであるということです。

それもそのはずです。

青野先生はすでに引退されていますが、

寺園喜基先生や天野有先生といったバルト研究者(主義者とお呼びしてよろしいでしょうか)への

明確な反論を青野先生が持っておられることが、論述の端々からはっきり分かるからです。

議論の過度の単純化は青野先生から叱られてしまうかもしれませんが(知己を得ていません)、

青野先生の「十字架の神学」の根本概念は、

イエス・キリストにおける「贖い」と「十字架の死」、否「殺害」との区別です。

すなわち、それは、

「イエス・キリストがわたしたちの身代わりに死んでくださったこと」と

「イエス・キリストが十字架に架けられて殺害されたこと」の区別です。

この区別によって神学と信仰においてどのような変化が起こるのかは、

青野先生のご著書を精読していただくほかはありません。

しかし、さしあたりすぐに指摘できることは、

「贖罪論一辺倒の神学」には限界がある、ということが、はっきり分かるということです。

青野先生が(ご本人の承諾を得た上で)全文を公開しておられる川島重成氏の「書簡」の中に

興味深いくだりがありました。以下、引用。

「昨年秋、無教会のある集会で、ロマ書八章後半について話す機会がありました。その関連文書を同封させてください。そこで書いたとおり、その時、私は、御霊のうめき(26節、27節)は、私たちのうめきに代わるものという点を強調しました。それ故に、もはや、うめかなければならないということはない、というのが私の主旨でした。むしろ喜ぶことこそが許されているのではないか、と。」
(青野、前掲書、73ページ)

この川島先生の見解にも、青野先生は反論しておられます。これは反論されて当然です。

川島先生のおっしゃっていることは、(ここでファン・ルーラーに登場してもらいます)

キリスト論における「代理」の概念を、聖霊論にも無理やり適用することによって

聖霊論の意図をメチャクチャに破壊している典型例です。

イエス・キリストは「わたしたち“の身代わりに”死んでくださる」ことによって、

わたしたちに命を与えてくださいました。

しかし、

聖霊は「わたしたち“の身代わりに”うめいてくださる」(?!)ことによって、

わたしたちはもはやうめかなくてもよくなる、というような意味での

「代理」の働きをするわけではないのです。

従って、川島先生のおっしゃっていることは、

《キリスト論の論理》と《聖霊論の論理》との完全なる混同であり、錯綜です。

厳しく言えば、支離滅裂としか言いようがありません。

聖霊は「わたしたち“と共に”うめいてくださる」のであって、

わたしたちもうめき続けるのです。

「代理のうめき」などというのは、全くもって奇妙な話です。

(この議論に「フィリオクェ」は無関係です。)

しかし、今ぼくが書いているのは組織神学の観点からの議論であって、

聖書学の議論には馴染まないかもしれません。

それでもぼくは、青野先生の議論を“面白がって”読ませていただいています。

そのことを書きとめておきたいと思いました。

「第15回 カール・バルト研究会」の報告書です

今日は夕方からお出かけなので、それまでに書いておこうと、実は一昨日から思っていました。

先週金曜日に行った「第15回 カール・バルト研究会」の報告書です。

テキストは、カール・バルトの『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の「8、造り主なる神」でしたが、

この個所が面白いのです。

以下、テキストを見ないで書きますので、ちょっと不正確かもしれませんが、

バルトの意図は次のようなことです。

この章でバルトが強調していることを一言でいえば、世界と人間はリアルな存在だということです。夢でも幻でもない、仮象でもなければ摩耶(ブッダの母)のヴェールでもない。リアルそのものである。

なぜ世界と人間はリアルであると言えるのかといえば、それを「神が創造された」からだとバルトは言う。

世界も人間も、神の性質の流出(神の中身が外にとろけでたような存在)ではないし(もしそうだとしたら、世界と人間はそれ自体で「神としての性質」を帯びていると言わざるをえなくなるが、事実はそうではない)、また、世界も人間も、永遠から永遠へと生きている存在ではない。

そうではなく、世界と人間は、神の創造力により「無から造られたもの」であり、無の土台の上に立っている。そのようにして、神によって造られた現実、すなわち「被造現実」(geschöpflichen Wirklichkeit)こそが、最もリアルな存在なのである。

しかし、世界と人間がリアルであることを我々が認識するためには、「神が人間になる」必要があった、とバルトは言います。ここにバルト神学の真骨頂である「キリスト論的集中」の論理が登場します。とくにバルトはキリストの《受肉》を、我々の世界認識、人間認識の土台に据えることを試みています。

なぜ「神が人間になること」が、我々が世界と人間をリアルなものとして認識する根拠になるのか、といえば、

そのことについてバルトはそれほどはっきりと語っているようには見えませんでしたが、

要するに、子なる神(イエス・キリスト)が「世界の外」(extra mundus)から「世界の内」(intra mundus)へと突入してくることによって初めて、世界と非世界の《境界線》が明確化される、というあたりのことを言っているように思えました。

その論理は、言うならば、「ウルトラマンがM78星雲から銀河系の地球まで来てくれたことによって、われらの愛する地球がリアルな存在であることが初めて分かる」というようなことだと考えればよいのかもしれません。

しかし、ここで、はたと立ち止まる。

「神が人間になること」なしには、世界と人類がリアルな存在であることを正しく認識することはできないというバルトの論理は、我々にとってはかなり分かる話でもあり、感動的な話ですらあるのだけれども、

本当にそれだけなのか、という問いかけは、あって然るべきだとは思えました。

神学論文のタイトル風にいえば「創造論のキリスト論的基礎づけ」には、長所もあるでしょうけど、短所もあるでしょう。

一例だけ挙げれば、

「神が人間になること」(イエス・キリストにおける神の子の受肉)への信仰を告白しない者は、いかなる意味でも世界と人間をリアルな存在として認識しえない、というような断言が成り立ちうるだろうか、

というような問いが具体的にありうるでしょう。

なんか、こんな感じのことを議論しながら、現実の問題を真剣に考えている「カール・バルト研究会」です。

関心ある方は、ぜひご参加ください。次回(第16回)は2013年9月27日(金)午後9時から11時まで(日本時間JST)です。大歓迎いたします。

あの頃ぼくたちは「神学」に夢中だっただけなんです!

もうちょっと続けます。

「神学」にネットを利用しはじめた頃の話。

直接的に、面と向かって、強く言われる、というわけでもないのです。

間接的に、なんとなく、そのにおいが伝わってくるのです。

確認すると、それが事実だと分かる、という。

ぼくたちは「神学」に夢中になっているつもりだったのですが、

人の目から見ると「パソコンをいじくっている」としか見えないようで、

関口たちは「パソコン遊び」に夢中であると批判されていたらしい。

間接的に、なんとなく、そのにおいが伝わってくるのですから、

だれがどんなことをおっしゃっていたのかは、いまだに知りません。

知りたいとは思っていませんので、ぼくには何も教えないでくださいね。

まあ、でも、だいたいのことは想像つきます。

嫌悪感を持たれた理由も、ごく最近、ふと気づきました。

原因の少なくとも一端は、たぶん「お医者さん」ですよね?違いますか。

よく愚痴を聞かされるようになったのが、ちょうどその頃です。

「わたしたちは何時間も待たされて、診てもらえるのは1分、2分なのに、

 先生(お医者さん)はその間もずっとパソコンの画面しか見ていない。

 わたしたちの顔を見てくれなくなった。」

これでパソコン嫌いになったんですよね?違いますか。

そんな中で、

教会の牧師たちまでが「パソコン遊び」を始めたと聞くと、

残念な気持ちになったんですよね?違いますか。

べつに、「パソコンいじくってた」んじゃないんですけどね。

「神学」に夢中だっただけです。

今は、その手の批判は、ほとんど聞かなくなりました。

そういうことをおっしゃっていた(世代の)方々こそが、

いま熱心にパソコン画面を見つめておられますからね。

皮肉で書いているのではありませんよ。

「誤解が解けて良かった」と思っているのです。

これからもお世話になります。よろしくお願いいたします。

「カール・バルト研究会」がドイツで紹介されました

ドイツのケルン・ボン日本語キリスト教会の齋藤篤先生が「カール・バルト研究会」をブログで紹介してくださいました!

「菩提樹の窓より」2013.9.13 ~読書会~」
http://koelnbonn.jp/2013/09/「菩提樹の窓より」2013-9-13-~読書会~/

「カール・バルト研究会」の様子

ケルン・ボン日本語キリスト教会の初代牧師は、我々日本キリスト改革派教会の牧田吉和先生です。

齋藤先生はFacebookで仲良くしていただけるようになりました。まだ直接お会いしてはいません。

しかし、これだけ高性能のビデオ通話を何度か繰り返せば、初めてお会いする日が来たとき、もうさすがに「はじめまして」とは言えない気がします。

「まだ握手やハグ(はリアルでもしないけど)をしたことがない」だけですね、もはや。

齋藤先生、これからもよろしくお願いいたします。

ありがとうございました!


ぼくが「神学」にネットを利用しようと考えた最初の動機はこれでした


これは書いておこうと、いま思いました。

ぼくが「神学」にネットを利用しようと考えた最初の動機です。

あとからとってつけた話ではありません。

それはローマの信徒への手紙の次のことばです。

「五体を義のための道具として神に献げなさい」(6:13)

前から書いているように、ぼくは、

1996年にウィンドウズ3.1機を実兄からもらって「パソコン通信」を始め、

1998年(ウィンドウズ98発売年)に買ったパソコンで「ネット」を始め、

1999年2月からメーリングリスト「ファン・ルーラー研究会」を始めました(複数の友人と共に「始めた」中の一人でした、という意味です、念のため)。

他のグループについて正確なことは分かりませんが、インターネットを利用した「神学研究会」としては、ファン・ルーラー研究会は日本でおそらく最初期のほうではないかと思います。

なぜ「ネット」を利用しようと考えたか。

当時「ネット」は、いかがわしい道具だと、かなり多くの人から見られていたからです。

「出会い系」という言葉はまだ無かったんじゃないかと思いますが、その種のもろもろ。

凶器でもクスリでも何でも手に入る、など。今ほど監視の目が強くなく、実際にそういう危険な取り引きが成り立っていた時期だったとは思います。

そして、匿名掲示板、学校裏サイトなどでの叩き、いじめ。

多くの人からいかがわしい道具だと思われているからこそ、それを利用して「神学研究会」をやろうと考えました。

ネットそのものは罪でも悪でもないはずだ。悪く使うのも人間。だけど、「義のための道具として神に献げる」(ローマ6:13)のも人間だ。そんなことを、その頃、しきりと考えていました。

なので、もしかしたら「ネットで神学がけがれる」と考える人がいるかもしれないとしても、とりあえず放置することにしました。

逆だと思いました。「ネットを神学できよめる」効果を期待しました。

玉石混交のデータの中の「きらぼし」であれたらいいなと願いました。

パソコン作業でお疲れの方々の「箸休め」であれたらとも思いました。

実際には、ネット特有のドンパチ炎上も、なかったわけではありません。

ぼくが原因のときには落ち込みもしました。

しかし、参加者からは、「あのときの刺激的なやりとりが面白かった」と評価してもらえることも少なくありませんでした。

あれから14年。

当事者性を自覚している者の自己評価などは何の当てにもなりませんが、なんとかうまくやってこれたのではないかと自負しています。

めざましい結果などは出せていませんけど。

でもそれは、ぼくだけではないので(と言い逃れておきます)。

我々の「カール・バルト研究会」がドイツで紹介されました!(と書くとちょっとカッコイイ)

ドイツのケルン・ボン日本語キリスト教会の齋藤篤先生が「カール・バルト研究会」をブログで紹介してくださいました!

「菩提樹の窓より」2013.9.13 ~読書会~」
http://koelnbonn.jp/2013/09/「菩提樹の窓より」2013-9-13-~読書会~/

「カール・バルト研究会」の様子

ケルン・ボン日本語キリスト教会の初代牧師は、我々日本キリスト改革派教会の牧田吉和先生です。

齋藤先生はFacebookで仲良くしていただけるようになりました。まだ直接お会いしてはいません。

しかし、これだけ高性能のビデオ通話を何度か繰り返せば、初めてお会いする日が来たとき、もうさすがに「はじめまして」とは言えない気がします。

「まだ握手やハグ(はリアルでもしないけど)をしたことがない」だけですね、もはや。

齋藤先生、これからもよろしくお願いいたします。

ありがとうございました!


2013年9月16日月曜日

神学をもっと学ぶことしかないと思うんですけどね

台風一過の江戸川堤防(2013年9月17日18:30)

牧師の仕事に「説教」があり、

その「説教」が《ある一定の論理》に基づく「ことば」であり、

その「ことば」を長期にわたり聴き続ける「教会」があり、

その「教会」は「人間」であり、

その「人間」は、3回同じ話を聴くと「飽きる」という性質を持ち、

その「飽きる」という性質がかなり普遍的なものである以上、

「説教」が常に更新される必要がある。

その「更新」とは、

プレゼンの方法(話法、姿勢、服装など)と無関係とは言えませんが、

それよりも

《ある一定の論理》のほうに、より多く関係しているものと思われます。

その《ある一定の論理》が、ぼくは「神学」だと言いたいわけなので、

牧師が「神学」を学び続けることを、

「神学オタク」だの、「勉強好き」だの、言われたくはないわけです。

それは「説教の更新」に直接関わることであり、

「飽き飽きする退屈な礼拝」から教会を解放する唯一の道ですから。

ただ、神学も一つの学問である以上、お金かかります。

「自腹の神学」には限界があります。

とっくの昔にその限界にぶち当たり、

ごきぶりホイホイの粘着シートにひっついて先に進めません。モガモガ。

と、ここまで書いて、

「あ、そうか。『自腹の神学』という本を書けば売れるかも」と

アクドイ商売を思いつき、

その次の瞬間に「やっぱダメだ。売れそうにない」と自分で却下する

アクドクナイ牧師でした(ぼくのことです、笑)。

「御心のままに」はたのしくたのしくやさしくね


激しく自分から動き回ってつかみとる。

黙って待つことで初めて与えられる。

能動性と受動性。

自慢じゃないですが(自慢かなあ)

両方やりました、ぼくは今まで、ぼくなりに。

結果、どっちがよかったかなあ。

自分でつかみとると言っても、

自己目的性は低いんですけどね、ぼくらの場合は。

自分の十字架に架かりに行くようなものかも。

日本語聖書で伝統的に「御心」と訳されてきたευδοκίαは

英語聖書の伝統ではgood pleasure of Godですよね。

オランダ語聖書でもwelbehagen van Godです。

welがgood、behagenがpleasureと同義ですので。

「良い」+「喜び」=ευδοκία、と長らく理解されてきた。

だけど「御心」という日本語には

goodな雰囲気も、pleasureな弾ける感覚も、ないなあ。

なんか暗ーい感じ。呪術的とさえ言える。

「御心のままに」(・_・)

ぼくも言いますけどね。牧師ですしね、これでもまあ。

でも、呪術的におどろおどろしくは言わない。

「神の良い(good)喜び(pleasure)」に満ち満ちた顔で

「御心のままに」\(^o^)/

と言わなくちゃね。

そういうのウザい、と思われちゃうのかもしれませんけどね。

2013年9月13日金曜日

「第15回 カール・バルト研究会」を行いました

本日(2013年9月13日金曜日)午後9時から11時30分まで(すべて日本時間JST)「第15回 カール・バルト研究会」を、グーグルプラス・ハングアウトで行いました。

今日のテキストは、カール・バルト『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の「8 造り主なる神」でした。

議論は大いに盛り上がりました。バルトが必ずしも直接取り上げているわけではない諸問題にも踏み込んで考えました。自死、安楽死、中絶等。神の創造と人間の自由と尊厳との関係の問題。あるいは、自然科学と宗教の関係。核兵器の問題。

どれも結論が出るような話ではありませんが、真剣かつ深刻な問題であることは間違いありません。

参加者は以下の5名でした(五十音順、敬称略)。

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
斉藤 篤(ドイツ・ケルン市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)
藤崎裕之(北海道亀田郡)

国境も時差もモノともしない「カール・バルト研究会」でした。




半沢直樹の「倍返し」が面白いのは、それが同害報復ではないところです


ぼくが半沢直樹を気に入っているのは、

相手から論や策で追い詰められたときに、

従来のテレビドラマとかなら「なんだとコノヤロ」的にブチキレ、

机を叩いたり、モノを投げはじめたりして視聴者ドン引き、みたいになるところで、

半沢はキレないところです。

論に対して論で返す。どこまでも論と策で相手を追い詰め、息の根をとめる。

やられても、同じ手ではやり返さない。同害報復じゃない。

殴られたら殴り返すでは、ただのガキのやることです。

アタマとことばと心で、悪いやつらに立ち向かう。それがいいねです。

半沢と敵方のやりとりをじっと聴いていると、

「あ、ここまで言われたらぼくなら即キレるな」というキレポイントに気づきました。

だけど、そこで半沢は、言葉を発することをやめずに、続けました。びっくりしましたね。

で、同時に、

ぼくのキレポイントはまだまだ早すぎる、ということにも気づかされました。

ことばと論理を、良い意味でもっと信頼して、とことんまで考え抜くことができれば、

キレたり怒鳴ったり恫喝したりしなくて済む。

半沢(を生んだ作者)のアタマの良さに、

おおげさに言えば「平和」の可能性が見えたような気持ちになりました。

オバマさんのシリア攻撃延期、よかった。最近のプーチンさん嫌いではないです。

「話せば分かる」を楽観視できると思っているわけでもないのですが、

もっとアタマ使おうぜ、と半沢の作者(池井戸潤さん)から言われているような気がしています。

「第15回 カール・バルト研究会」開催のお知らせと、少々の蛇足

今日は午後9時(日本時間JST)から

「第15回 カール・バルト研究会」です。

グーグルプラス・ハングアウトで行います。集合場所は各人のPC前。

研究会の(唯一の)入会条件は「バルト主義者にならないこと」です。

ご関心のある方はご参加ください。無料です。

以下、蛇足。

過去「バルト主義者」(バルティアン)と呼ばれた人は多くいましたが、

「ファン・ルーラー主義者」(ファン・ルーラリアン、ですかね)

という呼称は、ぼくはまだ、寡聞にして知りません。

かくいうぼくも

「ファン・ルーラリアン」(ですかね)になったことはないし、

なりたいとも思いません。そういうのは「無い」からです。

ですが、「バルト主義者」には一定の思考パターンがあると思います。

そして、その「バルト主義者」の一定の思考パターンを

ファン・ルーラーは嫌いました。そして、方向転換や修正を求めました。

その結果として、

一定のものに対する一定の反応(リアクション)という形のパターンが

ファン・ルーラーの側にあったことは、どうやら認めざるをえません。

簡潔に言えば、

バルト主義の側に見られる「キリスト論的集中」に対して、

ファン・ルーラーは「三位一体論的にフル展開すること」を求める

というパターンです。

ですが、

ファン・ルーラーにおいて「三位一体論的にフル展開すること」の意図は、

難解きわまりない思弁の世界に読者を連れ込んでケムに巻いてやろう

というようなことではありえず、

むしろ単純化です。

「キリスト論的集中」のフレームの中では

「人間」と「人間性」は、最終的には常にネガティヴな評価しか受けえない。

しかし、それだけが(「人間」と「人間性」をネガティヴに評価することだけが)

キリスト教のすべてではありえない、と言っているだけです。

「人間は邪悪で、うじむしで、ごみくずで、どうしようもない」

と唾棄し、拒絶し、否定するだけが、キリスト教であるはずはない。

罪や堕落や悪や死を軽く見ようというのではないです。

しかし、人間の根本評価において、人間が「人間以下」であることはないし、

「人間以上」であることもない。

人間は「人間」なんだから、人間が「人間的」で何が悪いの?

「それは人間的な考え方だ!」(ガミガミ)みたいな腹の立て方って

自分で言ってて、おかしくないですか?

と、まあ、そういうようなことを冷静に指摘する神学です。

逆に言えば、

ファン・ルーラーの神学の特質はその部分に集約されると言ってもいいので、

「人間であること」と「人間的であること」と「人間的なるもの」が

教会と神学において当たり前にポジティヴに評価される状況になれば、

「ファン・ルーラリアン」(ですかね)の出る幕は無くなるのです。

朝っぱらから、ながなが、だらだらと、すみません。

2013年9月11日水曜日

「終活」について考えてみませんか 秋の特別集会のご案内


松戸小金原教会 秋の特別集会2013 ご案内

テーマ:「終活」について考えてみませんか

日時 2013年10月20日(日)午前10時30分~12時
      (第二部 講演 午後1時~2時30分)
場所 松戸小金原教会(住所は下記)
お話 関口 康 松戸小金原教会牧師 

人生をどのように締めくくるかについて悩んでおられる方が多くいます。

自分ひとりで悩みを抱え込むより、相談相手がいるほうが、心の支えになります。

教会で「終活」を考える集会を行います。

午後1時から、キリスト教専門葬儀社の講演もあります。

いま悩んでおられる方も、まだ悩んでおられない方も、

ぜひ特別集会にご参加くださいますよう、ご案内いたします。

子どもたちのために別プログラムがあります。小さなお子さまとご来会ください。

日本キリスト改革派松戸小金原教会
〒270-0021 千葉県松戸市小金原7-21-11
TEL・FAX 047-342-1576
牧師 関口 康

電子メール  matsudokoganehara@rcj-net.org
ホームページ http://www2u.biglobe.ne.jp/~matudo

2013年9月9日月曜日

午後は急にやる気が出てきました

今日は月曜日でぼくの休みの日、ということで、

午前中はだらだらしていましたが、

午後は急にやる気が出てきて、Excelで名簿とか作っていました。

名前のふりがなを自動的につける関数とか、

年齢の自動計算の関数とかを駆使して作りました。

かなり、はかどりましたよ。午前中の借りを「倍返し」しました。

人間ね、

だらだらすることも大切ですよ。

緩急ってやつですね(エラそうに言ってますね。すいません...)

日中のスーパー店内の8割が男性客

松戸市に来て、来年3月でちょうど10年になります。

同じ町で「10年」じっとしているというのは、

生まれたときから高校を卒業するまで過ごした岡山市を除けば、

最長です。過去最長が「6年」でしたので、記録更新中です。

「ほぼ10年」じっとしていたことで見えてきたことがあります。

10年前は、この町で日中にスーパーに買い物に行く男性は、

年齢・世代問わず、ぼくくらいでした。

しかし、今。

日中のスーパー店内の8割が男性客です。

はっきり違います。

ぼくの興味は、

このような変化がなぜ起こったか、ではなく

(そんなのだいたい予想がつきますわ)

これからどうなっていくか、です。

ま、ぼくはおひるを買いに来ただけですけどね。

ちらしずし 398円


今日は「遠慮なく」無駄なことを考える日です

基本的に月曜日は教会から休みをもらっているのですが、

ちゃんと休んだためしはなく、

夏休みさえどこも行かない人間なので、どうしようもないんですが、

休みの日かビジーの日かの違いは、

無駄なことを考える時間をとるのが、少しだけ遠慮ないというだけです。

休みの日は「遠慮なく」無駄なことを考えているけど

ビジーの日は「遠慮しながら」無駄なことを考えている。

う~ん、あまり違いはない。

数年前から、スケジュール管理はGoogleカレンダーで行っています。

Todoリストの今日の仕事は、えっと1、2、3...。8項目ありますね。

まあ、でも、長期計画・中期計画・短期計画、ごちゃまぜです。

ぜんぶ明日しようかな。ははは。

半沢直樹!

半沢直樹がぼくにとって面白いと思えるのは

いかにも憎らしそうに「倍返しだっ!」とか言いながら

なんか、そうでもなくて、

実に我慢強いし、「倍」どころか半分も返せていないようでもある。

(なるほど剣道の達人らしく)敵から距離をとって冷静に見ているし、

やけくそに口汚く相手を罵るようなところが皆無で

言葉も態度も、一貫して基本が礼儀正しくフェアなところです。

だけど

(なるほど剣道の達人らしく)渾身の一太刀で敵を倒す。

青島俊作(踊る大捜査線)も久利生公平(HERO)も好きでしたが

三人目ですね、半沢直樹。

2013年9月8日日曜日

大切な自分の体を傷つけないでください


ローマの信徒への手紙6・12~14

「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」

先週は日曜学校との合同礼拝でしたので、いつもより短く、子ども向けにお話ししました。「洗礼を受けてください」というお話でした。先週お読みしました個所にパウロは次のように書いていました。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」(3節)。

これで分かることは、洗礼を受けるとはイエス・キリストと結ばれることであるということです。パウロの言う「結ばれる」とは、結婚することとほとんど同じであると考えていただいて構いません。だからこそ、7章1節以下に「結婚の比喩」が出てきます。

しかし、その意味はあやしげなものではありません。生涯を共にすることを決心し約束するということです。そして、結婚の場合でも、決心と約束は結婚式だけで終わるわけではありません。結婚式は結婚の始まりであって終わりではありません。洗礼もまた、イエス・キリストと生涯を共にすることの決心と約束の始まりです。わたしたちに求められることは決心し続けることであり、約束し続けることです。

しかし、パウロが書いていたことには続きがあります。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、「またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」と続けられていました。

パウロが言っているのは、イエス・キリストと生涯を共にするということは、イエス・キリストと共に死ぬことを意味している、ということです。しかし、この場合の「死ぬこと」は、特別な意味です。イエス・キリストはすでに死んだ方です。しかし、わたしたちはまだ死んでいません。それなのに、イエス・キリストと共に死ぬとは、どういう意味でしょうか。

パウロは次のように書いていました。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(4節)。

これで分かることは、わたしたちがイエス・キリストと共に死ぬとはどういう意味なのかということです。なぜわたしたちはイエス・キリストと共に死んだのに、まだ生きているのでしょうか。それについてパウロは、イエス・キリストが死者の中から復活されたからであると信じています。

わたしたちは、洗礼によってイエス・キリストと結ばれました。イエス・キリストと生涯を共にする決心と約束をしました。だからわたしたちはイエス・キリストの死と共に死ぬのであり、イエス・キリストの復活と共に復活するのであるとパウロは言っているのです。

もちろん、このようなことを言いましても、何を言っているのかさっぱり分からないと思われる方もおられるに違いありません。パウロは信仰の話をしています。これは宗教の話です。うんと冷めた言い方をする人たちから「へえ、キリスト教ではそういう考え方をするのですか。面白いですね」と受け流されてしまうようなことでもあります。

しかし、これはわたしたちにとっては考え方の問題というよりも生き方の問題です。わたしたちはまだ死んでいません。生きています。しかし、生まれたときから今に至るまで、全く同じで何の変化もないというわけではありません。

人生の途中に、イエス・キリストとの出会いがありました。そして、イエス・キリストと結ばれました。そのとき人生に大きな転機が訪れました。

結婚の場合もやはり、それが大きな転機であることは間違いありません。もちろん、結婚したからといって人格そのものが変わってしまうとか、性格や趣味まで何もかも変わってしまうということは、通常ありません。しかし、何も変わらないということもないでしょう。生活が変わります。自分のために生きることだけで済まなくなります。家族のためにも生きるという態度が少なくとも求められます。あるいは、自分の考えで何もかも押し通すだけでは済まなくなります。家族の考えにも従わなければならないという面が必ず出てきます。

その点は洗礼も同じです。教会の一員になるということですから、自分のために生きることや自分ひとりの考え方を押し通すことだけでは済まなくなります。わたしたちはもはやイエス・キリストと共に生きているのですから、イエス・キリストのために生きることが求められます。そしてイエス・キリストの教えに従うことが求められるのです。

そして、その場合、特に重要な点は、罪との関係をどのように考えるかという問題です。パウロは次のように書いていました。「わたしたちの古い自分がキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(5~6節)。

理解が難しい点は、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」と書かれているところです。

わたしたちは十字架にはりつけになったことはありません。しかし、パウロはそうだと言っています。ですから、これも信仰の話であり、宗教の話です。わたしたちが洗礼を受けたときに、わたしたち自身が十字架にはりつけになったのだと信じるほかはありません。

実際の洗礼式は、牧師の手からみなさんの頭に数滴の水が注がれただけです。しかし、そのとき、その瞬間にとんでもない出来事が起こったのだと信じることが求められるのだというのです。なんと、そのとき、わたしたち自身が十字架にはりつけになったというのです。そして、そのとき、わたしたちの古い自分が死にました。そして、次の瞬間、新しい命、新しい人生が始まったのです。

その「わたしたちの古い自分」とパウロが呼んでいるのが、罪に支配されていたわたしたちの過去のことです。それでは洗礼を受けてキリストと結ばれた後のわたしたち、今の自分は罪に支配されていないのでしょうか。パウロの答えは、そのとおりだということです。今のわたしたちは、罪に支配されていません。

そんなことはない、今でも毎日のように罪を犯し続けています、と言いたくなります。それも事実です。しかし、そこでわたしたち自身も自覚できることは、なるほどたしかに、パウロの言うように、昔と今とで全く同じというわけではないような気がする、ということです。

どこが違うのでしょうか。パウロが問題にしていることは、わたしたちが「罪に支配されている」かどうかです。「罪の奴隷」であるかどうかです。もはやわたしたちは罪の奴隷ではないのです。罪の支配の下から解放されているのです。言いなりではありません。引きずり回されていません。抵抗や拒否を始めています。罪との戦いが始まっているのです。

それは本当のことでしょうかと、また問いたくなります。わたしたちは、自分の姿をかえりみると、心もとなくなります。しかし、パウロは、そのようなわたしたちの心配を強く退けます。その言葉が今日お読みしました個所に記されています。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(14節)。

パウロが書いていることは、洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれた者たちは罪の支配の下にはいないということです。その理由として「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」からだと書いています。

これだけでは分かりにくいかもしれません。もう少し分かりやすく言い直すなら、わたしたちの支配者が変わったのだ、ということです。昔は罪が支配者だったけれども、今はイエス・キリストが支配者であるということです。罪の力もたしかに強いけれども、イエス・キリストの救いの力は、もっと強い。だから、わたしたちは罪の力よりも強い力をもっておられるイエス・キリストの下にいるのだ、ということです。

話を難しくしているのは、罪の話と律法の話がからみあって出てくることです。律法とは、聖書の御言葉のことであり、明文化された神の戒めのことであると申しました。聖書の御言葉の支配の下にいるならば、罪の奴隷ではないのではないかと言いたくなります。しかし、パウロは人間の心の深い闇の中に、あえて立ち入ろうとしています。

「律法」という字は、法律という字を逆さまに書きなおしただけです。律法は法律です。法律の話であると考えれば、「法律には穴がある」ということにお気づきになるはずです。明文化されたルールには、必ず弱点があります。それは、そこに書かれていないことならば何をやってもよいと考える人が必ず出てくることです。あるいは、書かれていることを自分に都合よく解釈して抜け穴や抜け道を見つけようとする人が出てくることです。

しかし、パウロが問題にしていることはそれだけではありません。ある意味で最も恐ろしい弱点をパウロは見抜いています。それは、明文化されたルールとしての律法を、書かれている文字どおりに厳格に守り、神の御心を正しく忠実に守っているという確信をもっている人たちこそが陥る罠です。

それは、そういう人に限って、まるで自分自身が神であるかのように、人を裁きはじめることです。人の罪を赦すことができない。弱い人や間違った人を憎み、退け、呪ってしまう。それも罪なのです。最も厳格で正しく生きている人が、最も恐ろしい最も間違ったことをしてしまう。そのような激しい矛盾が起こってしまうのが、明文化された神の戒めとしての律法の落とし穴です。

そのことをパウロは考えています。だから、「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」と書いているのです。洗礼を受けてイエス・キリストに結ばれたわたしたちは、そういう罠や落とし穴からも解放されているのです。

パウロが書いている重要な言葉は、「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」(12節)です。わたしたちの支配者は変わったのです。今の支配者は、罪でもなく、律法でもなく、イエス・キリストです。

そういうことなのですから、わたしたちがいつまでも罪の下にとどまり続けることは、イエス・キリストに結ばれた者にふさわしくないのです。

わたしたちを誘惑する罪の力は強いものです。すぐに思い浮かぶのは、お金や異性関係など。そういうものの罠に陥らないように、気をつけましょう。

大切な自分の体を傷つけないでください。わたしたちの体は、義のための道具として神にささげることが求められているのです。

(2013年9月8日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年9月7日土曜日

敗戦処理投手は堂々たる戦力だ!

ぼく自身が敗戦処理投手だと書いたわけではないのですが

(におわせつつも)

当然のことながら「敗戦処理投手」は

「死に体」でも「レームダック」でもありませんからね。

「次の試合に勝つために主力投手を温存する」という

実に光栄なミッションのために出させていただけるという、

実に光栄なる非主力投手の仕事です。

それは「戦力外通知」であるどころか(冗談じゃない!)

堂々たる戦力です。

それは「王将」ではなく「歩兵」や「桂馬」の仕事かもしれませんけど、

盤の上には確実に乗っている存在です。

がんばれば主力投手になれるかどうかは、はっきり言って分かりません。

なれないんじゃないかな。

でも、「敗戦処理投手」なしには、長いペナントレースを乗り切ることはできないんだから、

やっぱり必要不可欠な貴重な存在なんです、

その意味での主力投手の影(シャドー)かもしれませんよね。

と、わけのわからんことを書いてケムに巻かせていただきます。

「逆境のときも」と教えてきたのは教会じゃないか!

神学にせよ哲学にせよ、思想なるものが

それを唱える人の生涯の営みと噛み合っていない場合は、

歯の浮くような話になるか、単にひたすら眠い話になる。

護教的な意図から書くのではないつもりであるが、

「順境のときも、逆境のときも」

とか

「健やかなときも、病むときも」

と教える教会に、純粋にほっとする。

敗戦処理投手だって、途中でマウンドを降りられない。

「黙って耐えろ」とは言えない。痛みと血には、ぼくも弱い。

「分かってくれとは言わないが~、そんなにおれが悪いのか」

と歌いたい気持ちも、まあ分かる。

だけどさ

「右肩上がりでなければ続ける意味ない」ことはないわけだし。

でも、ぼくらは死ぬために生きているという葉隠っぽい話も好きでない。

「死ぬために生きて」なんかないよ、ばかあ。

あ、でも

「生きるために死ぬ」というのも、なんかやめてほしい感じ。

どす黒い過去は明るい将来で上書き保存、できるかな。

完全に消去できなくてもね、

あと、毎日「痛た痛た」言いながらでも、

「神を呪って死ぬ方がましでしょ?」とか言われても

さほどキレずに穏やかでいる

ヨブたんのような(やめろその呼称)人でありたいかもしれない。

周りからは相当ビミョウな存在に見えるかもね。まあ、しゃあないよ。

敗戦処理投手は一人じゃないしね。

同じ状況にいる者だけに分かるプライドもあるよ。

たぶんね(自信なし、笑)。

2013年9月6日金曜日

昨夜、Facebookをやめた友達がいます

名前とか所属とかの詮索が始まるのは困りますけど、

昨夜、Facebookをやめた友達がいます。牧師です。

「楽しすぎるからやめる」(大意)という趣旨でした。

お引きとめする立場には無いし、気持ちも分かるので、

寂しさを紛らすために、古い歌を口ずさみました。

「さよならは別れの言葉じゃなくって~♪」(後略)

「楽しすぎるからやめる」というのは、

ぼくもほぼ同じ気持ちなので、

ぼちぼちですが、あとかたづけを始めようとしています。

ぶっちゃけますが、ぼく

Facebook始めた頃は、神学の仲間だけの狭い使い方をしてました。

2年前の震災から教団・教派を超えた連絡関係がどっと来て、

さらに選挙関係で中高時代の旧友との連絡関係が加わって、

あとは「友達の友達」に関心を寄せていただけたり、

ぼくの子どもと大差ないくらい若い世代の方ともつながったりして、

今日を迎えます。

たしかに「友達」は増えましたが、その増え方は、

なんだかタイムマシンで現在から過去へと戻るに似た感覚でした。

「旧悪」を暴かれる恐怖に怯えながら、ね(これは誇張)。

みなさん全員に喜んでもらえることばは、書けないですね。

これはギブアップ宣言をせざるをえない。

ある方々に喜んでもらいたいと思いながら書くと、

他の方々に怒られてしまう感じ。

ぼくが多重人格なのではないんですよ(汗)。

友達のグループ分けをすればいいとか、

ネットに書いてあるようなことはひととおり考えてみましたが、

どうも難しいですね。

前にうっかり手が滑ってグループ分けを失敗したら、

「私の所属は○○ではなく△△である」と抗議の連絡が来たりしました。

本人に通知が行くみたいですね。面倒に巻き込まれたくないです。

2013年9月5日木曜日

「就活」の選択肢に「牧師」も加えてほしいという趣旨でした

ぼくの論調に汚らわしいもの(?)を感じる向きもあるかもしれません。

例によって「それは人間的な考えだ!」と罵倒されるかもしれない。

「そうだよ、ぼく人間だもん」とか答えると、ますます腹を立てる人たちもいる。

だけどね、

「召命」とかって、あんまりブリリアントにキラキラ輝いてなくてもいいと思うんです。

そういう部分だけ神秘のベールに包んで。

キツメにいえば、自分を大きく見せようとしているだけ。

それを日本語では、やっぱり「ハッタリ」と言うんだと思います。

いかがわしいと言わざるをえませんね。

あ、でも、もちろんね、

言いたくない過去をほじくり出して言わなくちゃならないとか、

わざわざ偽悪者ぶるとかみたいな芝居がかったのも、アウトですからね。

昔からぼくの周りに常に一定数いましたよ。

キラキラ系の召命バナシをする人たちにコンプ抱いている人たち。

キラキラ系の代表者は、パウロとアウグスティヌスですかね。

あんなふうに「ドラマ仕立て」で、「180度の転換」で、

「昔は極悪人だったアピールつき」でなければ「召命」じゃない、みたいなハナシに

ドン引きしてる人たち、けっこういました。

ぼくが「牧師」とか「教会」とか書いている意味は、

暗黙の裡ながら、日本キリスト改革派教会の(教会規程が定義している)意味で用いていますので、

他の教団・教派のケースとは必ずしも一致しないかもしれません。

そして、ぼく自身は昔ながらの「牧師」と「教会」に永続的な存在意義を見出している人間ですので、

「自給開拓伝道」の可能性を全く否定するものではありませんが、

それは(日本キリスト改革派教会で「宣教教師」と区別される)「牧師」の本来のあり方ではないと考えています。

そして、ぼくが最初に書いたことの趣旨は一つです。

「若い教師たちに牧師の仕事を明け渡せ」の一つです。

「(他に)就職先がある人は牧師になるな」の一つです。

「自給開拓を思い詰めなくても、安心して牧師になれる道を切り開け」の一つです。

「専業牧師の需要が低下しているとか言い出すなら、教会はその考え方を根本から変えろ」の一つです。

それはまた、次世代の「就活」の選択肢の中に「牧師」も加えてほしい、という趣旨でもあります。

人気のある職種はどんどん無くなり、最後の最後に「牧師」が残ったら、

観念して牧師になる気になってくれる子たちがいればいいのだが、という

地引き網(?)のようなことを考えていました。

最初は「メンタルヘルス、コミュニティ関連サービス」という感じかなあと予想して始めてみたら、

とんでもなかった。

「特定宗教組織の職員」だったと分かり、

さらにヒブル語、ギリシア語、ラテン語はじめ英語、ドイツ語などなどを詰め込まれ、

ドンドカドンドカ本を読まされ、

毎週毎週、長文の作文を書きおろさなければならない仕事だと分かる、という。

そういうワナにかかってくれる若者、いないかなあという話です。

お騒がせしました。

「新しい酒は新しい革袋に」(新世紀の教会は新世紀の牧師に)

「失われた20年」が「30年」にも「40年」にもなるかもしれない昨今、

「就職先がない」ことを理由に牧師をめざすというのは、ありだと思う。

「召命」というのは、しばしば消去法の形をとりますよ。

それ否定できる人いないんじゃない?

それに、ぼくが言ってもナンの(こぶしが入った「ナン~ンの」)説得力も無いけど、

牧師はやりがいのある職業だと言いたい。

「あれは職業ではない」とか「仕事ではない」とかいう言いがかりは無視無視。

あ、ですが、

「牧師のいない教会が多いから」牧師をめざす、というのは、どうだろ。

論理的に間違ってはいないけど、

自分自身の将来を表現することばとしては、相当引っかかるものがあると、ぼくには思えます。

教会は統廃合があるし、するし、してきたし、せねばならない。

教団・教派にも統廃合があるし、するし、してきたし、せねばならない。

あと10年以内くらいに

教会・教界に大きな動きがあればいいし、なければならないと思うけど、

ぼくはヘタレだから、遠巻きに見ているだけでしょうね。

20年後には、ほぼ引退ですしね。

ぼくの「老人化計画」は着々と進んでいます。死滅化かな、ま、なんでもいいや。

いまから20年後くらいに今のぼくくらいになる人たちに期待してますよ。

1980年代生まれとか、90年代生まれの人とかです。

21世紀生まれになれば大歓迎。「新世紀の牧師」にふさわしいですよ。

それくらいの人たちに、ぼくは自分の持っているものを手渡したいです。

それ以上のご年配の方々は、もう自分でがんばりましょう。

そうとしか、ぼくには言いようがないです。

2013年9月4日水曜日

「一般社会の常識」を代弁して語る、キミはいったいだれなんだ

ぼくは、面と向かってそんなことを言われることは、あんまりないのですが、

(ぼくの知らないところで、ぼくについて何を言われているかということまでは知らん知らん)、

教会の中で(松戸小金原教会の中で、という意味ではなくて、あくまでも一般論です)

「一般社会では通用しない」ということばを、スゴまれたり、恫喝っぽく言われたりすることが、たまにありますよね。

なかでも、「その口で言うか」と言いたくなるような人の口からその言葉を聞くと、心底がっかりするし、しばらく立ち直れなくなる。

吹けば飛ぶような、踏めば跡形もなく粉砕することが分かっているような、ほんの一握りの信者の集まりが「一般社会の常識」を変えていくことが「伝道」なんじゃないの?と言いたくなるけど、

そういう話はいっさい通用しないもんね、そういうこと言い出す人には。

「反骨精神」とか、そういう話じゃないですよ。マイノリティなんとか、でもないと思う。

「一般社会」にビビりすぎなんじゃないのかなと思うだけです。

なめてはいけないと思ってはいますよ。なめてはいけない。だけど、ビビらんでもいいだろとは思う。

ていうか、「一般社会の常識」を代弁して語る、キミはいったいだれなんだよ、とも言いたいかな。

まあ、たぶん、結局ハッタリなんだよね。大きな声では言えないけど。

教会が「甘い」かどうかは、いろんな判断がありえますけど、うるさいこと言われたら「うるさい」と言えばいいし、できないことを押しつけられたら「できない」と言えばいいじゃん、とかは思います。

甘えた人は教会だけにいるわけじゃないでしょうに。

「教会には甘えた人が多い」とか言われることありますけど、「いやっ、それ言いすぎ」と、ぼくは毎回、内心で思っています。

伽藍の一室で、一人で仕事しています

まあ、ベタな言い方ですけどね、

苦しみも、寂しさも、

逃げると追いかけてくるらしいですよ。

ぼくも本来めっちゃ寂しがり屋なんです。

だけど、

週日は伽藍(というほど日本の教会は広くないです)の一室で、一人で仕事する。

こういうのに、やっと慣れたかも。

人恋しさとかあんまり感じなくなったです。

年取ったかな(笑)。


2013年9月3日火曜日

『改革派教会信仰告白集』を絶賛する(2012年)

関口 康

伝道不振の日本でこれほど大規模な『改革派教会信仰告白集』が刊行される日が来ることを誰が予想していたでしょうか。全巻予約用のパンフレットを見たとき、私は躍り上がって喜びました。どう考えても飛ぶように売れる本とは思えない。そこに出版社の捨て身の覚悟を感じました。まさに命がけの愛を改革派教会の信仰告白のために注いでくださった一麦出版社に感謝しています。

『改革派教会信仰告白集』という表題で思い起こすのは、カール・バルトの有名なエピソードです。バルトはスイス改革派教会の牧師・神学教授であったフリッツ・バルトの長男として生まれ、スイスのベルン大学神学部を卒業後、ベルリン、テュービンゲン、マールブルクの各大学で世界最先端の神学を学び、ジュネーヴのドイツ語教会の副牧師職を経て、ザーフェンヴィル教会の牧師になりました。バルトの出世作となった『ローマ書講解』(第一版、1919年〔実際には1918年刊行〕、第二版、1922年〔実際には1921年刊行〕)はザーフェンヴィル教会の牧師だった頃のものです。その後バルトは牧師職を辞し(1921年)、ゲッティンゲン大学神学部の「改革派教会担当教授」になり、「改革派教会の信仰告白と教理と教会生活」を概説する仕事を始めるのですが、当時のことを後年のバルトが次のような衝撃的な言葉で回顧しているのです。「私は今だから……告白できるのであるが、他のすべての私の知識の大きな欠陥はさておいても、私は当時、改革派の信仰告白文書を所有してもいなければ、ましてや読んでもいなかったのである」(エーバーハルト・ブッシュ、小川圭治訳『カール・バルトの生涯』新教出版社、第二版、1995年、185頁)。

バルト自身の回顧からはっきりわかることは、幼少期はもとより、神学生時代も、牧師時代も、そして世界大の読者を獲得した『ローマ書講解』の第二版を執筆していたときも、『改革派教会信仰告白集』(より具体的には1903年に出版されたE. F. K. ミュラー編のそれ)を買ったことも読んだこともなかったということです。バルトが教授職に就くのは35歳。それまでは改革派教会の最も基本的な書物を読んだことがなかった。そういう人がスイス改革派教会の牧師であったのであり、国立大学神学部の「改革派教会担当教授」になったのです。

このエピソードは現代の教会と神学の笑い話の一つだと思います。この点についてバルトを揶揄する意図は私にはありません。その後の彼は『改革派教会信仰告白集』を丹念に読みました。そして1924年のこと、バルトはゲッティンゲンでの教義学講義を準備しているとき、図書館の隅で埃をかぶっていた19世紀ドイツの改革派神学者ハインリヒ・ヘッペの『改革派教義学』(1861年)を発掘し、それを「読みに読み、研究し、考えぬき」(ブッシュ、小川訳、221頁)、その結果、バルトの最初の教義学となる『キリスト教教義学草稿』が誕生しました。さらにその草稿が徹底的に書き換えられて、彼の主著『教会教義学』の最初の巻(第一巻第一分冊)が生まれたのは1932年です。当時バルトは46歳。『改革派教会信仰告白集』を読みはじめてから11年。『教会教義学』の彼は堂々たる改革派神学者です。

バルトを揶揄していると思われるようなエピソードを敢えて紹介したのは、読者各位を励ましたいという願いからです。バルトでさえ35歳まで所有したことも読んだこともなかった本を、我々は容易に所有することができ、しかも、すべて平易な日本語で読めるようになったのです。そうだとすれば、これほど素晴らしい本が与えられた以上、我々もこの本から大いに学ばせていただこうではありませんか。この本を読む人はだれでもバルトのような著名な神学者になれますよという意味ではありません。ただ、少なくともこれ(改革派教会信仰告白集!)がバルトの神学の決定的な一源泉であることは間違いありません。そうだとすれば、バルトの神学の真髄に迫るために、バルトの神学の源泉に我々が習熟することが必要であると言えるでしょう。そしてそれは、バルトの神学にも誤りや欠陥がありうることを指摘する、ということも排除しないのです。

今日の伝道不振の原因は、当然、神学にもあります。その真の原因を探り当てるために、歴史的な信仰告白から学ぶことが不可欠なのです。

(小論、『改革派教会信仰告白集』第6巻付録、一麦出版社、2012年、5-6頁)

「支離滅裂なメールを書く人に論理明晰な単著が書けるか」という問題です

興味深いことばをツイッターから転載させていただきます。

Kan Kimura @kankimura 14時間
正直、原稿の締め切りに(常に/今も)追われている身としては、そもそも「書く事を前提にせずに勉強する」と言う事は最早想像もできなかったりする。だから院生さんにも「読み手を意識させてあげ」れば良いのだろうけど、修士の学生には実際なかなか自分の研究を「読んで貰う」機会はないからなぁ。

(引用終わり)

ぼくもそうで、さらに勝手に加えれば「話すことを前提にせずに書く」も想像できなかったりします。

話すために書く。書くために勉強する。

勉強のモチベーションが途絶えることは、ぼくに限ってはありえない。

「どこで」「だれに」「何を」話すかが明確だからです。

ですが、それはぼくの話ですが、

そうではない人は多いのかもしれないし、学生さんたちの中に増えているのかもしれない。

ていうか、かく言うぼくも、とても恥ずかしいことに、

15、6年前(30歳を過ぎたころ)までは「文章を書けない人間」でした。

タブラ・ラサを前にしても何にも思い浮かばないし、「てにおは」からしておかしい。

論理を整えて書くことなど想像もつかない人間でした。

変わったのは、インターネットを手に入れてからです。

メールだホムペだブログだを書きはじめて変わりました。

「炎上」も芸の肥やし。

「こういうことを書くとヤバいんじゃね?マズいんじゃね?」も、

いまだにアブナイときはありますが、

それでも少しずつながら、体感的に分かるようになりました。

メールも、ホムペも、ブログも、

雑誌投稿も、紀要論文も、ハードカバー付きの単著も、

「論理的に構成された複数の文字の集合体」であることには変わりない。

メールやブログは意味不明で支離滅裂だけど、単著なら論理明晰で読みやすい文章を書ける、

なんて人がいるなら、会ってみたいです。

話すために書く。書くために勉強する。ぜんぶつながっているんです。

ブログとかFacebookとか、いい訓練になると思うんですけどね。

2013年9月2日月曜日

「フリーランスの神学者」というのは概念矛盾だと思う

20世紀の組織神学者の中でファン・ルーラーの影響力が、必ずしも世界大に広がらず、オランダ、ドイツ、南アフリカなどに限定されてしまった原因としてヘッセリンク先生が指摘したのは、ファン・ルーラーの神学的取り組みが「ローカルなもの」であったから、という点でした。

この場合の「ローカルなもの」とは、具体的には、ファン・ルーラーが所属した教団である「オランダ改革派教会」の内部を指しています。つまりそれは、ファン・ルーラーの神学は悪く言えば「オランダ改革派教会」の内部でしか理解できないものであった。しかし良く言えば、それは「オランダ改革派教会」の抱える問題の解決と改善を目指すものであった、ということです。

だから、彼の著書や論文は「オランダ改革派教会」の外部の人が読んでも分からない。教団・教派、国境・文化を越えて、だれが読んでよく分かるような書きものではない。だから、翻訳しても売れないだろうと判断されてきたし、出版社も二の足を踏むし、無理して数冊の訳書を出版しても現実に売れない。だから出版は断念されたし、忘れ去られてきたのです。

それはたぶん、ファン・ルーラーだけでなく、「神学」の辿る運命のようなものなのかもしれません。もちろん、神学者の中には自分が所属する教団の問題にはなるべく触れないようにする人もいる。いや、それどころか、どの教団に属しているかを隠し、伏せて活動しようとするタイプの人もいる。「ぼくはフリーランスなんですよ」とか言っていた自称神学者もいた。

たしかにそのほうが「本が売れる」かもしれないし、著述家としても学者としても「成功者」とみなしてもらえるかもしれないし、出版社や書店は助かるかもしれない、のですが。

しかし、ここでぼくが何度でも考え込んでしまうのは、「神学とは何か」という根本的な問いです。「フリーランス」の神学って何なのか、ということです。ぼくはどうも腑に落ちない。痒いところに手が届いていないぞ、と言いたくなる。

あ、だけど、「フリーエージェント」は、いいかもしれませんね(笑)。

神学者も牧師もFA宣言(笑)。

って、そんなわけ行くかよっ!(怒りながら笑)