2016年8月4日木曜日

神学は理系向きの学問だと思う

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バルトの神学が贖罪論中心だったのは、私見によれば、キリストが十字架で遺棄されることで万人が救いへ選ばれるという彼の思想ゆえだった。万人の救いを擁護する人は少なくないが、贖罪論中心を批判する人も増えてきた。「万人は救われるが、贖罪論は中心ではない」とする論理はどうしたら成り立つか。

というようなことを、勤務校からの帰りの車の中で考えていた。申し訳ないことに最近カーステで流す音楽はレベッカさんでもコブクロさんでもない。かつて一時期夢中で聴いてその後いったん沈静化し、長年を経て再び聴きはじめた曲への関心の再沈静化は音もなく訪れる。歳をとった証拠かも。若干寂しい。

理系クラスの中に、聖書の授業が終わると質問しに来てくれて、聖書の中のこのこととあのこととを両立させようとすると論理的な矛盾が起こるのではないかという趣旨のことを言ってくれる生徒がいる。正直アタマが下がる。そうだ、それが神学的思考というものだよ。神学は理系向きの学問だと思うよ事実。