6月28日に購入したが読んでいない(実はあまり興味がない) |
うっかり忘れていたが、ファン・ルーラーの文章に「神学」の落とし穴を鋭く指摘する言葉がある。たとえば「絶対的なものを追い求め続ける人は非常に惨めな結末に至る。自分の人生を指と指の間にはさんでいるような感覚、あるいはまた、本来の自分の姿をいつも忘れているというような感覚に襲われる。」
あるいは、「我々は自分ひとりだけで何かの責任を負うのだろうか。あるいは、もっと性急に我々はあらゆることの責任を負うのだろうか。そうなると我々はまるで全世界をひとりで背負うアトラスのようになる。まるで自分が巨人か英雄でもあるかのような感情を抱きながら毎日を過ごすようになる」など。
両者ともファン・ルーラーのエッセイの一節である。各エッセイのタイトルは、前者が「相対的なことを真剣に」(1956年)で、後者が「我々は神なしでありうるか」(1966年)。あいだが10年開いているが、基本のパースペクティヴが変わっていない。いずれも「神学」の落とし穴を指摘している。
「自分の人生を指と指の間にはさんでいるような感覚」と「まるで自分が全世界をひとりで背負うアトラスであるかのような、巨人か英雄のような感情を抱きながら過ごすようになる」は、一見正反対のことを言っているようだが、趣旨は同じだ。自分の人生を指先ではさむ巨人に自分がなっているということだ。
絶対的な存在こそが何よりも大事なのであって、それと比べれば相対的なものは大したことがない。自分自身の存在も、世界の存在も、絶対的な「神」と比べれば大したことがない、という論理と感情にとらわれているときの我々は非常に危険な状態にある、ということをファン・ルーラーは鋭く指摘している。
そういう論理と感覚のとりこになってしまわないで、もっと遊ぼうぜ、楽しもうぜ、相対的なことに真剣に取り組もうぜ、どうでもいいことに関心を持とうぜとファン・ルーラーは言っている。こういう話は、高校生は嫌がるかもね。根が真面目だもんな。「その場しのぎで軽薄だ」とか言われてしまいそうだ。
私のキャパが小さいだけなのに、まるでみんなが同じ結論でなければならないかのような書き方をしていると、これはこれで叱られてしまうだろうが、全世界をひとりで論じ尽くせる人は存在しないという断言口調の言葉に慰められる人はいると思うので、私のキャパの問題は度外視して書いておくことにする。
ファン・ルーラーのエッセイ(いずれも拙訳):
「相対的なことを真剣に」(1956年)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2013/03/1956_22.html
「我々は神なしでありうるか」(1966年)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2013/03/1966.html