ゲオルク・ジンメル『哲学の根本問題』 |
「哲学体系の抽象的で硬直した概念は、長いこと哲学体系に心を砕き、その深部での興奮を求めて努力した者の眼にのみ、概念内部の激しい動き、そこに息づいている世界感情の広がりを開いて見せてくれる」と、ジンメルが『哲学の根本問題』の「序」に書いている。説教も同じ。時間かけなくちゃ。
「教義学」(theologia dogmatica=教義神学)という言葉をタイトルとして初めて使用した本は、1659年にルーカス・フリードリッヒ・ラインハルト(Lucas Friedrich Reinhart [1623-1686])が出版したSynopsis theologiae christianae dogmaticae(キリスト教教義学概論)である(ファン・ルーラー全集(オランダ語版)第1巻、248頁の編注)。
教会の牧師だった25年(いつまたその続きがあるかはGod only knows)で得たある意味最大の経験値は「孤独忍耐力」だったかもと今日ふと思う。書斎で何時間でも何日でもひとりでいること多々。クリスマス等の大型イベントでも、すべて終わって最後片付けて教会の鍵を閉める仕事は牧師。
なので、牧師が「孤独」で悩んでいるという話がもしあっても理解できない。アタナシオスがクリスマス行事のあと教会の鍵を閉めたかどうかは知らないが、「孤軍奮闘」を意味するらしい「アタナシオスは世界を敵に回す」(athanasius contra mundum)という格言は納得しまくる。
教会の現実をご存じない方々はもしかして「群れているだけだ」と思っておられるかもしれないが、「群れている」わけではないからね。こと牧師は孤独に耐えてナンボ。強がっているわけでも粋がっているわけでもなくて本質的にそういう存在なのが牧師。そのこと知らずに牧師にならないほうがいいと思う。
生徒は夏休みでも、先生は学期再開の準備のために毎日勤務。キリスト教学校なので、職員室で毎朝お祈りをする。今日は私がお祈りの当番をした。夏休み中の生徒の健康と安全のためにお祈りした。いばってないよ、当然でしょ。夏休みが終わったら全員元気に学校に戻ってきてほしいと、マジで祈っている。
【追記】
上の書き込みに誤解される要素があったようですので、以下の点を追記します。
私が書いた「孤独」に悪い意味はありません。「会員との関係を築けない牧師」という意味の「孤立」ではありません。
イエスさまのオリブ山の「ひとりの祈り」や、十字架上の「孤独」を《追体験》(nacherleben)できなければ、どうして聖書の福音を宣べ伝えることができるでしょう。
ボンヘッファーの「ひとりになれない人は交わりに入ることに注意せよ。交わりに入れない人はひとりになることに注意せよ」(『共に生きる生活』)という言葉をきっとご存じだと思いますが、まさにその意味です。
もっとも、その場合の「孤独」は、イエスさまの十字架上の「孤独」の《追体験》(nacherleben)であるほどの「完全な孤独」の意味でなければならないことも事実です。「半分孤独、半分交わり」というようなバランス感覚ではなく、逆説的な弁証法関係です。
ボンヘッファーは「マコトニ神、マコトニ人」との類比で「孤独」と「交わり」の関係を考えていると思いますが、私は違います。教会の関係性は、他の団体(学校や政党や会社など)にたとえることができない独特の関係性なので、どう言ってもどのみち誤解されてしまうところがあります。
教会の関係性は学校や政党や会社等とは異なる独特の関係性であると、いま書いたばかりですが、学校の教師の「孤独」や、政治家や首相の「孤独」や、会社の社長や役員の「孤独」などと、牧師の「孤独」は、ある意味で似ていなくもありません。リーダー論のような話でもないのですが。
ちょうど10年前に出たようですが、吉本隆明さんの『ひきこもれ』という本の趣旨は、完全に合致はしませんが、私の言いたいことにある意味で最も近いです。ひとりの時間を苦にするな、ということです。
ファン・ルーラーだけでなく、読みはじめて何年目かになる青野太潮先生の「十字架の神学」の影響が、私に加わってきています。書きはじめると長くなるのでやめますが、「十字架の逆説」の問題です。「孤独こそが交わりである」というような言い方になります。
私は博士論文を書いたことがないので、自分の体験として語ることができる立場にはいませんが、あれを書くためには「完全な孤独」と言えるほど長期にわたって引きこもらなければならないようです。途中でチャラチャラしているようだと完成しないし、失敗する。それと似ています。