本日(8月26日金曜日)午前6時40分の首都圏の空模様 |
もちろん「百学連環」はいかにも翻訳調ではあろう。だが、エンチュクロペディー(エンサイクロペディア)の「サイクル」の要素を端的な熟語できっちり言えている。天才の仕事だと思う。そう、百学は「連環」している。孤立して自給自足している学などは存在せず、相互に関連しあい、循環しあっている。
主導権争いはあろう。という言い方をすると悪意に満ちた争いのことだけになってしまうかもしれないが、私が思うのは「指揮者のいないオーケストラは成り立ちそうにない」ということだけだ。しかし、息継ぎなしに同時に言わなければならないのは「指揮者だけのオーケストラは存在しない」ということだ。
大先輩の先生(地歴科)とのおしゃべりで「なぜ教会は一夫一婦制を言うのか」と問われたので「聖書の神が嫉妬深い神だからではないか」と答えたら「なるほど、聖書の神は他の神よりまじめすぎて人気がない退屈な神だもんね」と返ってきて面白かった。その場しのぎのチャラチャラした神ではないのだよ。
楽器というものを一切使えない人間で、現実のオーケストラに参加したことがないので、現実の指揮者の実像は知らない(知りたいという願いはないし、実例紹介を求めてもいない)。強さ、厳しさ、激しさは不可欠である気がする。だが、謙遜のかけらもない破壊者タイプの人に務まる役目ではない気もする。
キリスト教学校の「アイデンティティ教科」ないし「ハブ教科」を改めてめざす必要が生じているかもしれない「聖書科」(文科省的な呼称では「宗教科」)は果たして他の教科と同等の意味の「教科」なのかという問いは、潜在的にも顕在的にもあるし、かなり根深い。最近ずっと考えているのはその問題だ。
いま思いついたばかりのたとえを用いていえば、キリスト教学校にとって「聖書科(宗教科)」は、それの停止をもって生命活動の終焉の一指標とされる心臓のような存在なのか、それともある意味それとは全く対極のようである盲腸(実は重要な役割があるらしいという説を最近読んだ)のような存在なのか。
どちらでも構わないのではないかという心境に実は近づいている。心臓でも盲腸でも。なんらかのつながりさえあれば。心配しているのではない。つながりは必ずある。「聖書科(宗教科)」が現代の学校教育の「百学連環」の内部にとどまれているかどうかは怪しいが、全くの無駄骨だなどとは全く感じない。
全体の連携や循環をストップさせず、むしろできるだけそれを活発かつ円滑にするような役割が「聖書科(宗教科)」にあればいいと思うし、意外に(意外に)大切だと思う。風の吹き去るもみがらのごとき存在とか言うと叱られるだろうか。地味で目立たない退屈な存在であるほうが聖書の神に近い気がする。