2016年8月12日金曜日

ネットつながりの皆さんへの感謝とお願い

テーカンネ社のアップルティをホットでいただきました(8月11日)
すみません、岡山弁ツイートはとりあえず終了します。岡山弁や方言そのものが悪いという意味ではありませんが、極力誤解を招かないように論理的に考えて書くことには向かないようだと、実際に試してみて分かるものがありました。私の夏休みは昨日から始まったばかりですが、もう真顔です。平常モード。

私はふだんは岡山弁は全く出てきません。ゼロ歳から18歳まで岡山の外にほとんど出ませんでしたが、その後は逆に岡山に帰らず(均せば年に3日位)33年目。それに、岡山を離れてから東京、高知、福岡、神戸、山梨、千葉と移動しましたので、どこの方言にも馴染むまでに至らず、今日を迎えています。

それで結局ずっと、「汎用性が高い」というか「無難な」というか「教科書どおりっぽい」というかの東京系の言葉を使ってきました(「標準語」と言うと怒り出す人たちへの配慮からまわりくどい言い方になっています)。岡山弁になるのは実家に帰ったときだけです。家の戸をくぐるとスイッチが入ります。

「使うことはありえない」と思いながら26年前に取得した教員免許と、「戻ることはありえない」と思いながら19年前に離脱した教団の教師資格とに(前者の更新、後者の再取得を経て)今の私は助けられています。どちらの免状も大量の未整理書類の中に長年埋もれていました。お恥ずかしいかぎりです。

テーマが定まらなくて苦しんでいます。ジンメルが「哲学の根本問題」で展開している(「歴史的方法」(Historische Methode)と対比される意味での)「即事的方法」(Sachliche Methode)に感銘を受けて、我が意を得たりと確信を深めつつ、ますます悩んでいます。

その意味は、プラトンやヘーゲルが言ったから正しいというような論法ではなく、プラトンやヘーゲルが取り組んだ問題そのものを自分で考えていく中で、プラトンやヘーゲルが波頭に見え隠れことがありうるという方法です。言い換えれば、自分がプラトンやヘーゲル自身になって問題に取り組むやり方です。

そのようなことを組織神学で私なりに求めていきたいと願っています。それはトレルチやティリッヒやバルトやファン・ルーラー「の」研究ではなく、彼らが取り組んだ問題を自分で考え、取り組む中で、彼らの存在の大きさや重さに出会うことがありうるというやり方です。しかしそのテーマが定まりません。

テーマが定まらない理由は、ひとえに「座」(Sitz)の問題です。異教団間移動前後の関連事象の中で私の心理系や神経系にどれくらいの負担やダメージがあった(ある)のかは自分ではあまりよく自覚できないのですが、血圧上昇や体重増加(後者は自己責任大)といった客観面に出ているとは言えます。

ネットでもリアルでも「なぜ転向したのか?」と言われながら(「転向」などしていないです)、新しい職場に身を投じてやっと5か月目です。毎日緊張しています。それでも今のところ壊滅的なまでの心理崩壊を免れているのは、ネットでつながっている方々の「生温かい」お言葉に支えられているからです。

なので、どうかもうしばらく私にネットをやらせてください。せめてあと1年半、猶予をください。その頃までには、どんなに時間を費やしても「しょせんウラ社会」と揶揄されるだけのネットごときに時間を奪われたりしないで、ひたすらリアルに仕事と勉強に没頭する人間に変貌しているだろうと思います。