2016年8月21日日曜日

神は世界を傲慢から救う(阿佐谷東教会)

日本基督教団阿佐谷東教会(東京都杉並区阿佐谷北5-13-2)
コリントの信徒への手紙一1章26~31節

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあがたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

阿佐谷東教会の皆さま、はじめまして。私はいま、千葉県八千代市にある日本基督教団関係学校である高校で聖書を教えています。日本基督教団教務教師の関口康と申します。今日はどうかよろしくお願いいたします。

なぜ私が今日、講壇に立たせていただいているのか。そのことを最初にお話しすることで自己紹介とさせていただきます。私は貴教会牧師の坂下道朗先生の東京神学大学の後輩です。いわばそれだけです。坂下先生からご連絡いただいたのは5月の半ばです。

しかし、その日から今日までの3ヶ月間、坂下先生と直接お目にかかる機会がついぞありませんでした。メールのやりとりだけでした。坂下先生とお会いしたのは27年くらい前です。それから一度もお目にかかっていません。

しかも、坂下先生は東京都内にご実家がおありで、東京神学大学にはご自宅から通っておられました。私は学生寮で6年間過ごしました。寮生と通学生は仲が悪いわけではありませんが、実はあまり接点がありません。

あともう一つ付け加えますと、私は1990年4月に日本基督教団の教師になりましたが、その7年後の1997年から昨年末(2015年12月末)までの19年間は、別の教派の教師をしていました。そして、この春に転入試験を受けて教団に戻ってきた人間です。

このことを言いますと必ず出てくる質問は、なぜ日本基督教団を出たのか、なぜ戻ってきたのかということですが、その質問にはっきり答えることができない人間です。転入試験で面接があり、その場にずらりと並んだ教師検定委員からその質問を受けましたが、そのときもはっきり答えることができませんでした。それで通してくださった教師検定委員会の皆さまに感謝しています。

日本基督教団が嫌になったから出て行ったとか、行った先の教派が嫌になったから教団に戻ってきたとか、そのようなことは考えたこともありません。自分の感情に任せて行動したつもりはありません。そのことはどうかご信頼いただきたく願っております。

私の話が長くなりました。申し訳ございません。先ほど司会者の方に朗読していただいたコリントの信徒への手紙一の1章26節から31節までを説明し、メッセージを述べさせていただきます。

最近の聖書学者たちは、新約聖書のいわゆるパウロ書簡の中のいくつかは、パウロが書いたものではなく、パウロの名前を借りた別の人が書いたものであるというようなことを盛んに議論する傾向にありますので、だんだん自信がなくなります。しかし、今日お読みしましたこの手紙のこの箇所は、使徒パウロが書きました。そのことを自信をもって堂々と宣言いたします。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい」(26節a)とあります。この訳で間違ってはいませんが、ずいぶん柔らかくなっています。「思い起こしてみなさい」は「見る」という言葉です。「召された」は「呼ばれる」です。声をかけられることです。私は坂下先生を通して神から今日の説教をするようにと命ぜられました。それと同じ意味です。何かの働きにつきなさい、この仕事をしなさいと、声をかけていただくことです。

そのときのことを「思い起こしてみなさい」と言われています。その意味は「見なさい」です。もう少し強く言えば「直視しなさい」です。直視するのは、その頃の自分自身のぶざまな姿です。なぜぶざまなのか。初めは何も知りません。どうすればよいかが分かりません。思い出すのも恥ずかしい。そのぶざまな姿です。

しかも、パウロが書いているのはキリスト者の信仰の問題であり、教会生活の問題です。「召された」は「呼ばれた」です。呼んだのは神さまです。「わたしに従いなさい」という、神の声なき声です。その神の声を、聖書を通して、教会を通して、説教を通して聴き、神に従うことを決心し、約束しました。キリスト者の過去には必ずそういう日があります。その日のことを思い起こしてみなさい。そのときの自分の姿を直視しなさい、と言われています。

それによって思い出される自分たちの姿はどのようなものでしょうか。それが次に書かれています。「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません」(26節b)。

この「人間的に見て」も直訳すれば「肉によれば」です。「肉」(サルクス)という言葉が使われています。人間存在を構成する肉体です。その「肉」が「人間」という意味になります。べつに悪い意味ではありません。肉は汚らわしいから人間も汚らわしいという意味ではありません。

パウロが言いたいことは、はっきりしています。「わたしに従いなさい」と神からお呼びがかかり、その声に従うことを決心し、約束したときの自分自身の姿を思い出しなさい。目をそらさないで直視しなさいということです。

そして、ここに時間の次元がかかわってきます。時間的な過去の自分を思い出すことが求められています。今より若かった頃の自分の姿です。当時はまだ「知恵」も「能力」もあった。そういうことを皆さんは覚えているでしょう。忘れたとは言わせません。そのようにパウロは言おうとしています。また「家柄」というのは、自分の努力で得るものというよりは、親から譲られるものです。

しかし、思い出してみてください。あなたがたが神から召されたとき、「知恵」や「能力」や「家柄」のようなことが問われましたか、そんなことは問われませんでしたよねと、パウロは言おうとしています。そういうことが入会の条件ではなかったですよねと。あなたは「知恵」があり、「能力」があり、「家柄」もいい。そういうあなたにはぜひ教会に来てください。そうでない人はお断りいたします、などとは言われませんでしたよねと。

なぜそういうことを言われなかったのかといえば、教会はそういうことを問題にする団体ではないからです。そういうことが条件で入れるか入れないかが決まるような団体は「教会」ではありません。

そして、それは神のお考えだったのだということを、次にパウロは述べています。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(27~28節)。

教会とはまさにそういう存在なのだということをパウロが言おうとしています。はっきり言いますと、世間的な目で見れば、教会は無学で、無知で、無力で、無意味な人たちがかき集められたような存在なのだと。はっきり言い過ぎでしょうか。

しかし、それこそが神の意図なのだとパウロは言おうとしています。それが神の御心であり、神のご計画です。そういう教会を作ることを、神がお求めになったのです。それは何のためでしょうか。神がなぜ教会を無学で、無知で、無力で、無意味な人の集まりにしたのでしょうか。パウロが記しているその理由は「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」(29節)です。

すなわち、その理由とは、世間的な価値判断の中で傲慢になっている人たちに対して神御自身が戦いを挑み、抗議するためです。そして傲慢な人に恥をかいてもらうためです。それによって神御自身が傲慢な人に「ちょっと、そこのあなた、もっと謙遜になってくださいよ」と言うためです。パウロが言おうとしていることは、そういうことです。

しかし、その教会も変質していきます。教会は世間から隔絶されて立っているわけではありません。たえず交流がありますので、明確な区別はできません。パウロがこのようなことを書いているのも、こういうことをわざわざ書かなければならないほどの変質がコリント教会の中に起こっていたからであると思われます。

だからといって、教会が世間と全く同じになってしまって、教会の中で、知恵や知識、能力、家柄の競争が始まってしまうなら、そういうことに欠けや引け目を感じている人々は、教会の中でも居場所を失ってしまいます。そのうち「私には生きている意味も価値もない」と言って絶望する人々が出てくることになります。

こういうことを言いますと、熾烈な競争の中に絶えず身を置いている方々から、「教会だけが特別ではない。甘えるな」と叱られてしまうかもしれません。しかし、そういう方々には申し訳ありませんが、もし教会までもがそのような「世知辛い」場所になってしまうなら、どこにも行き場がなくなるし、居場所がなくなる人々が必ず出てくるでしょう、ということは言わせていただきます。

もちろんそうは言いましても、教会が「世知辛い」ところであるかぎりは、世間と大差ありません。教会の中で競争しあっているようでは。私が過去に牧師として働いた教会で出会った人々の中には、「教会に来て本当によかったです。こんなに安心できるところは他にありません」とおっしゃる方が何人もおられました。そういう場所がわたしたちの人生の中に確保されていることが大切です。

そのような場所があることが、わたしたちにとって、たとえどんなことがあっても失望しないで生きていくことができる、希望の根拠になります。知恵も能力も家柄も、そのこと自体が問われることがない、そのこと自体で競争しあうことがない、そのような場所があるとしたら、それが「教会」です。

わたしたちの教会がこれまで以上にそのような教会になっていくにはどうしたらよいのかについては、私は何も言いません。もう時間切れです。あとのことは坂下先生にお任せいたします。

(2016年8月21日、日本基督教団阿佐谷東教会主日礼拝)