2016年8月6日土曜日

原稿依頼が届きました!

納豆朝食
今朝はやっとちょっと夏休みらしい寝方ができた。といっても教員の夏休みではまだない。朝5時にセットしたままのケータイアラーム音で目が覚めるも、すぐ止めて睡眠時間延長。起床9時半。おお快挙。でも寝始めたのがいつもより遅くて2時半頃になったので、実質2時間延長。爆睡というほどではない。

以前も書いたが、「紙の本」の利点は、ひとりの思想家を追いかける場合、その人の/についての著作物の総量を目で見ることができることだ。パーフェクトコレクションは無理だとしても。かなり巨大な著作家でも、製本されているものを全部タテに並べると、両腕を最大に広げたくらいで収まることが多い。

マンガは別だ。字と絵のコラボで分量が多くなるのは当然。それはそれですばらしい。いま書いているのは字だけで書かれた本(しかも主に神学書)をひとりの人が一生かけてどれくらい書けるか。両腕を最大に広げたくらいの4倍ほど私が持っているのはカール・バルト。でもそれも原著と翻訳の両方を含む。

こういう話を「デジタル本」についてはできない。両腕をめいっぱい広げたくらいの分量だという説明が成立しない。書斎の本の総量を減らすために、すべてをデジタル化したうえですべてを売却ないし廃棄したいという衝動にかられなくもないが、躊躇はある。それで毎日、本の谷底で睡眠。最近地震が多い。

書かないほうがよさそうな明らかに口幅ったい言い草ではありますが、隠退を考えておられる牧師先生がたに切にお願いしたいのは、教会を壊して(建造物破壊の意味ではないです)おやめになることだけはくれぐれもないように、次の牧師を招聘できる体力を教会に残していただけるように、ということです。

生徒が夏休み中でのんびり気分の土曜日の朝は、自宅(借家)でひとり納豆朝食。納豆が苦手な人ごめんなさい。山椒の佃煮は「さん志ょうや本家」(兵庫県宝塚市)の高級品。同僚の先生からいただきました。とても美味しいです!ありがとうございます。

政治と法が不可分の関係にあることは断言できるが、「法は倫理の最低限」という意味では、法の論理を超えた言葉は現実生活の中で許容されるべきだとも思う。理詰めで考える場合も、こと政治問題にかんしては、適法かどうかだけを問う人が多いし、それで間違っていないと思うが、それがすべてではない。

法学や政治学の話をしたいわけではない。宗教と神学と聖書の話をしたがっている。新約聖書の使徒パウロのローマの信徒への手紙の話をしたがっている。「あなたがたはノモス(律法=法)のもとではなく、カリス(恩恵=法を超えたもの)のもとにいる」(ローマ6章14節)という話をしたがっている。

でも、長くは書かない。すぐに終わる。理詰めが苦手だからだ。というか、いつでも一定の論理を定めて詰めていくような考え方や話し方をイヤだと思うからだ。読む前聴く前から結論が分かっている話を、私は読みたいとも聴きたいとも思わないので私もしない。自分にしてほしいと思うことを人にもせよだ。

東京神学大学の学生だった頃、一般教養の精神医学で、赤星進教授の講義を受けたひとりだが、赤星教授推薦のテレンバッハ『メランコリー(改訂増補版)』木村敏訳、みすず書房、1985年)はよく読んだ。秩序(オルトヌンク)からの解放が精神衛生にとって重要であることを理解させてもらえる名著だ。

脳の機能不全に関してはシロウトが立ち入ることのできる余地は全くない。宗教と聖書と神学にできるのは、「あなたがたはノモスのもとではなく、カリスのもとにいる!」と宣言し、説得し、法秩序遵守主義の堂々巡りから解放されて、もっと自由で気楽な人生を送れるように、互いに励まし合うことだけだ。

やたらとだらだら字を書きたくなるのは、土曜日の解放感ゆえか、真夏の暑さにうなされているのか、たぶんそのどちらかだ。

「教会に通わせても治らなかった」と親御さんに言われたことがある。「教会は病院ではない」という答えがありうるが、ならば教会とは何なのかをよく考えなくてはならない。教会に医師やカウンセラーがいれば解決するかというと、そうでもない。教会はノモスから完全にフリーかというと、そうでもない。

「これは脳の病気である」と判断するのも人の脳であることも考えなくてはならない。この件に関して純粋な客観性はないと考えるほうが妥当。「これは脳の病気だ」と考えたがる傾向を持つ脳の病気があるのかないのか。脳は自分にとってより受け容れやすいほうを選択する傾向を持つらしい。薬物依存然り。

脳機能障害(法的表現)の方々を攻めて(または責めて)いるのではなく、教会の護教や防御をしているのでもなく、お互いに少しでもストレスが軽くなればと心から願っているだけだ。そこから先は極度にプライバシーの領域であるゆえに、踏み込むことはほとんど不可能である。

なるほど南方熊楠さんの名前は山川出版社の倫理の教科書に載っていたのですね。そういう事情でしたか。別のルートで学ばれたかもしれませんが、教科書的存在ということであれば、ある意味で納得しました。私が高校生だったころの倫理社会の教科書に載っていたかどうかは覚えてません。どうだったかな。

今夜は少し早めにひとりで美味しいカレーを食べた。冷凍保存していたごはんをレンジで解凍し、トップバリューさんの50円レトルトカレー(200グラム!)を2つ買って(さらに倍!400グラム!)レンジで温めてごはんにかけ、スーパーのお惣菜コーナーで買った野菜かき揚げを乗せて。超贅沢だ!

facebookをツイッターのように使うと、ひと昔前だと(そんな昔からあったのか)「場をわきまえろ」的なことを言われたものだが(そうだったのか)、最近は状況が変わったと思う。facebookのツイッター化。もナニも、使い方のルールなんか初めからなかった。自分でルールを作ればよし。

ちなみに私は「既読」がついて「読みやがれ」「なぜ読まない」「いつ読むのかイライラ」的強制力が機能する連絡ツールは、精神衛生上、自分からすすんでは一切使わないし、極力使いたくないので、その種のものは基本すべてスルー。だんだんそう悠長なことを言えなくなってきているのだが。ひたひたと。

おお、『現代の倫理』(山川出版社、2016年)の筆頭著者の濱井修先生(1936年-)は私は存じないが、東大と東京女子大で長く教えられた倫理学者で、マックス・ヴェーバーの研究が多い方なのだな。ヴェーバーとトレルチの関係は当然ご存じだろう。私が今考えていることは的外れでもなさそうだ。

原稿依頼のようなものが来なくなって、何年になるだろう。完全に忘れ去られたなと寂しく思っていたら、昨日はがきで久しぶりに原稿依頼が届いた。日本基督教団東京教区千葉支区の支区報『しののめ』最新号(第36号)の「新人教師紹介」の原稿(700字)。一生懸命書きます!ありがとうございます!