日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東) |
「主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
今日の説教のタイトルは、先ほど司会者の方に朗読していただいた聖書の箇所からそのまま引用したものです。イエス・キリストのお言葉です。しかし「友達を作りなさい」という言い方はいかにも居丈高な響きがあるような気がしましたので、タイトルを決めるときに迷いましたが、思い切って付けました。
しかしそれ以上に、この箇所を選ばせていただくこと自体に大いに迷いがありました。なぜ迷ったかはお分かりいただけると思います。たとえたとえ話であるとはいえ、わたしたちの救い主イエス・キリストともあろう方が、犯罪者とまでは言えないかもしれないとしても、明らかに「不正を犯した」人のことを引き合いに出した上で、そういう人をほめるようなことをおっしゃっているからです。
これは大問題です。とんでもないことです。一緒くたにしてよいかどうかは分かりませんが、首相経験者が「ナチスに学べ」と言って大問題になりました。大問題になって当然です。もちろんイエスさまは犯罪や不正そのものを肯定しておられるのではありません。そんなことをすればイエスさまの教えはすべて台無しになってしまいます。しかし、イエスさまは今日の箇所で「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というような、ほとんど確実に誤解を招くようなことをおっしゃっています。
私はいま「誤解」と言いました。本当に誤解かどうかはよくよく考える必要があります。よくよく考え、よくよく説明すれば、イエスさまが不正そのものを肯定しているのではないということを理解していただけるだろうと私は確信しています。しかし、お忙しい方々や、イエスさまに敵意や反発を持っている方々にはそういう説明を聴いていただけないので、誤解されたままになってしまいます。
なぜこれでイエスさまが不正そのものを肯定していることにはならないかといえば、イエスさまは富の本質を言っておられるからです。富と不正は切り離すことがきわめて難しい関係にあるということです。不正から完全に切り離された純粋な富などはどこにも存在しないということです。しかし、それは富そのものが犯罪や不正であるという意味ではありません。お金そのものが汚いという意味ではありません。お金が汚いのではなく、お金を扱う人間の心が汚いのです。
流通しないお金に価値はありません。全く使われることのない死蔵金はまさにただの紙切れであり、ただの金属片です。富は流通してこそ価値があります。人の手から人の手へと渡されてこそ、初めて意味を持ちます。そして、そうしている間に罪や不正が紛れ込んできます。紛れ込むのは当然であると言っているのではありません。罪や不正を肯定する意味では全くありません。それがまるで当然のことであるかのように言って、市民権を与えるようなことをしてはいけません。
しかし、断じてそういう意味ではないとしても、だからといって富と不正が完全に無関係になることはないとイエスさまが考えておられることは間違いありません。それが「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とイエスさまがおっしゃっていることの前半の「不正にまみれた富で」の意味です。
しかし、この御言葉でイエスさまがおっしゃっていることの主旨は、後半の「友達を作りなさい」のほうです。そして、その「友達を作る」ための手段として「不正にまみれた富」を用いなさいとおっしゃっているわけです。しかしその意味は、友達を作るために用いる富は「不正にまみれた富」だけであって、不正にまみれていない富は友達を作るために用いてはいけませんというような意味ではありません。それは支離滅裂です。まるで冗談です。もちろんそういう意味ではありません。
だからこそ私が先ほど説明させていただいたことが意味を持つと思います。不正にまみれていないような富はこの世には存在しないのです。すべての富が不正にまみれているのです。なので、イエスさまの話を曲解して、不正にまみれた富は友達を作るために使ってよいが、不正にまみれていない富は友達を作るために使ってはいけないというような詭弁を弄することはできないのです。
それはともかくイエスさまのおっしゃっていることの主旨は「友達を作りなさい」ということです。それははっきりしています。しかも「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とおっしゃっています。つまり、友達を作ることと、そのためにお金を使うこととを明確に関連づけておっしゃっています。
このようなことをイエスさまからはっきり言われると、あるいはこのようなことが聖書に書かれているのを読むと驚く人は多いはずです。「イエスさまも結局お金ですか。教会も宗教も結局お金ですか」と言われてしまうでしょう。さまざまな批判や反発を受けることになるでしょう。そのことをイエスさまはご覚悟のうえでおっしゃっています。
しかし私はいま、いくらか大げさな言い方をしています。大雑把に言っているところもあります。お金にかかわる問題はとてもデリケートな問題ですので、できるかぎり丁寧に話す必要があります。私が誤解されるのを最も恐れているのは、イエスさまが「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とおっしゃっていることを、言葉の順序を逆にして「友達を作るために不正にまみれた富を使いなさい」と言い直しても同じかどうかという点です。
それはどういうことかといえば、イエスさまがおっしゃっていることを「友達を作るためにお金を使うのは当然だ」と言い直し、「お金を使わないで友達などできるはずがない」と言い直し、「あなたはケチだから友達ができないのだ」と言い直す。イエスさまのおっしゃっていることを、そのような話へと変換することが可能かどうかということです。
皆さんはいかがでしょうか。もちろん私はいま、みなさん自身はどのようにお考えになりますかと問いたくて、このような挑戦的な言い方をしています。友達を作るために全くお金を使わないような人に友達などできるはずがないと、そのように思われるでしょうか。そして友達作りのために大事なのは結局お金だと。どんなにきれいごとを言おうとも結局この世はお金だと。
そういう価値観、そういう人生観、世界観をイエスさまが教えておられるでしょうか。イエスさまがそのことを肯定しておられるでしょうか。この箇所を読んで、イエスさまはわたしたちの味方だ、わたしたちの現実をよく分かっておられる、親近感がわく、というような話をしてしまってよいのでしょうか。私が問うているのはそのことです。
私の結論を言わせていただけば、それは違います。そんなことをイエスさまはおっしゃっていません。お金など使わなくても友達はできます。かえって「金の切れ目が縁の切れ目」というような関係になってしまっている相手は「友達」ではありません。少なくとも関係が対等ではありません。常にどこか必ず上下の関係であり、支配・非支配の関係なのであって、言葉の健全な意味での「友達」ではありません。
ですから、私はこの箇所に書かれていることをそういう話にしてしまわないほうがよいと考えます。お金を使うかどうかそのこと自体は、実は重要ではありません。重要なのは「友達を作ること」です。そのために手段を選ぶ必要はなく、どんな卑怯な手を使おうと、不正を働こうと一向に構わないので、とにかく「友達」を作りなさい、という意味ではありません。そんなふうにして作った関係の相手は「友達」でも何でもないです。それは話がおかしすぎます。冷静に考えれば分かることです。
たとえ話の中身に入るのが後回しになりました。ある金持ちに一人の管理人がいました。その管理人が主人の財産を無駄使いしていたというわけです。これがすでに「不正」です。そのことを主人に告げ口する人がいました。それで主人は管理人を解雇することにし、もう仕事を任せておけないので会計報告書を提出するようにと、管理人に命じました。
すると管理人は、自分は土を掘る体力もないし、物乞いをするのは恥ずかしくて嫌だと考えました。それで思いついたのが、主人のお金を貸した相手をひとりひとり呼んで、それぞれが借りているお金の金額を書き換えなさいと言い、主人に黙って割り引いてあげたというわけです。それぞれの負担を軽くしてあげたわけです。そのようにして多くの人に恩を売っておけば、主人が自分から仕事を取り上げたとき、その人たちが自分を助けてくれるだろうと考え、実行したというわけです。
お金を借りていた側の人々は、もちろん大喜びです。命乞いをしたいと思っていた人々が、まさに命を助けられた思いだったでしょう。そのようなことをした管理人のやり方を、主人が誰から教えてもらったかは分かりませんが、とにかく知る。内緒だったはずですが、また告げ口する人がいたのでしょう。しかし、そのことを知った主人が、その管理人のやり方をほめたというのです。
その後どうなったかは分かりません。管理人のやり方をほめた。いいぞ、よくやったと。それでもこの主人はこの管理人を解雇したのか、それとも解雇せずにそのまま仕事を続けさせたのか。それは分かりません。
しかし、分かることがあります。それは、この主人がこの管理人のどこをほめたのかです。それははっきりしています。この管理人がお金というものの本質をよく知り、その使い方をよく知っているという点です。この点を主人がほめたのです。
無駄使いはしてしまうタイプです。お金儲けは得意ではありません。お金を減らすことはできても、増やすことができません。どんどん良い商品を生み出して、たくさんお客さんを増やして、がんがんものを売るというようなタイプではありません。その意味では商売にも営業にも向いていません。
収入が増えないのに給料ばかりとります。会社にとっては迷惑な存在です。家にいればひたすら浪費するタイプです。「ごはんできました。お風呂わきました」と呼んでもらうまで何もしません。ずっと自分の部屋に引きこもっているか、テレビを見ながら寝そべっているタイプです。
しかし、そういうことは全くできなくても、できることがあります。人の負担を軽くしてあげることができます。お金だけの話ではないです。だれかに対して自分から貸している、貸しがあるようなところを、許してあげることはできます。「返さなくていいよ」と言ってあげることができます。
それで感謝してもらうことはできます。貸した借りたの緊張関係を解消できます。そういう方法で仲間を増やすことができます。この管理人はそういうことができた人です。もちろんそのことを自分のお金でない主人のお金でしているところは問題ですが、ある意味で最もお金の使い方を知っている人です。
たとえば親子の関係はどうでしょうか。親は子どもの育成と教育のために莫大なお金を使います。それは親子の間の貸し借りの関係でしょうか。そのように考える子どもたちは当然います。さんざん世話になった親なのだから、恩返ししなくてはならないと。
そのように要求する親もいます。言葉や態度で要求しなくても、親の心の中に少しでもその要求があれば、子どもたちは必ず拘束されます。身動きがとれません。もし親子の関係が貸し借りの関係であるならば、子どもが親から借りていないものは何一つないからです。
もし「返せ」と言われるなら、返さなければならないわけですが、そこから先は親子の関係というよりも、ほとんど主人としもべの関係、あるいは雇い主と従業員の関係になってしまうと思います。
夫婦の関係はどうでしょうか。難しい要素は、もちろんたくさんあります。もともとは赤の他人でしたので。しかし、夫婦の関係は、貸し借りの関係でしょうか。
親子でも夫婦でもない人々との関係にまで視野を広げていくと、同じように考えるのは難しいかもしれません。しかし、教会はどうでしょうか。牧師と教会員との関係、あるいは教会員同士の関係は、貸し借りの関係でしょうか。そういう要素もたくさんあると思いますが、それだけでしょうか。
神と教会の関係はどうでしょうか。神とわたしたちひとりひとりの関係はどうでしょうか。それは貸し借りの関係でしょうか。「神さまに貸してやった。でも、私の思い通りにならないから返してくれ」というような話になるでしょうか。
もちろんいろんな考え方やいろんな立場があると思いますので、一概には言えません。ただ今日の箇所で重要なことは、イエスさまが教えておられるのは「友達の作り方」である、ということです。その意味をよく考える必要があります。
私にとっても他人事ではありません。今は学校で聖書を教える仕事をさせていただいていますが、有期の採用ですのでいつまで続けさせていただけるかは分かりません。教会の牧師の仕事を探していますが、なかなか見つかりません。しかし、土を掘る力はないし、物乞いするのは恥ずかしい。この不正な管理人は私自身の姿です。「土を掘れよ、物乞いをしろよ」と言われてしまうかもしれません。悠長なことを言っている場合ではありません。
それで私が、不正を働いてでも、と考えているわけではありませんので、どうかご安心ください。そのような不正は決して働いておりませんので、ご信頼してください。
残念ながら、がんがん稼ぐというようなタイプではありません。「がんがん稼ぐ牧師」とか「どんどん儲ける教師」というのは、どこか言葉の矛盾を感じてしまいます。しかし、人の負担を軽くするためのアイデアや方法なら、いろいろ思いつきます。提案し、実行できます。そういう面でお役に立てるようになれればいいなと願っています。
最後は私の話になって申し訳ありません。しかし、これは私だけではなく、私と同じくらいの世代の多くの牧師たちが同じように抱えている悩みでもあります。ぜひお祈りいただきたく願っています。
(2016年8月14日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)