2016年8月28日日曜日

神が全力であなたを救う(千葉北総教会)

日本基督教団千葉北総教会(千葉県印西市)
◎礼拝後は、流しそうめん、スイカ割り、かき氷、スーパーボールすくい(画像なし)でたいへん盛り上がりました!
流しそうめん!
スイカ割り!
かき氷!
フィリピの信徒への手紙1・15~20

関口 康(日本基督教団教務教師)

「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと説に願い、希望しています。」

千葉北総教会の皆さま、おはようございます。今日は貴教会の礼拝にお招きいただき、ありがとうございます。また、先日は高校生たちの教会訪問を喜んで受け入れていただき、感謝いたします。

千葉県に住むようになって12年と5ヶ月となります。最初は松戸市内の教会の牧師として来ました。そして今年4月に日本基督教団の教務教師になり、高校で聖書を教えるようになりました。今年は私にとって激変の年となりましたが、周りの人の目で見るとあまりそんなふうに見えないようです。

と言いますのは、日本基督教団は私の古巣だからです。教師たちの中に大勢知り合いがいます。その人たちからすれば、私は昔から何も変わっていないようです。

貴教会の大串眞先生は東京神学大学の先輩です。在学期間が重なっています。大串先生の最初の任地の宿毛栄光教会(高知県宿毛市)と同じ四国教区高知分区の南国教会(高知県南国市)が私の牧師としての出発点です。そのような関係です。

またもう一点、どうしても紹介させていただきたいのは、大串先生のおくさまのお父上の香西民雄(こうざいたみお)先生が、私が卒業した岡山朝日高等学校で化学を教えていただいた恩師であるということです。

香西先生は無教会派の熱心なキリスト者です。私が高校を卒業してすぐに東京神学大学に入学することを高校3年の夏休みに決心し、それをクラス担任に伝えたところ、「わし(私)のような凡人には指導できません。勝手にせられえ(しなさい)」と見放されてしまったのですが、香西先生ともう一人おられたキリスト者の先生のお二人は、私の決意を喜んでくださり、応援してくださいました。

その私にとって高校時代最大の恩師の娘さんと大串先生がご結婚なさることを知って驚いたことを、まるで昨日のことのように覚えています。

そのようなわけで、今年4月に西千葉教会で開催された千葉支区総会で「新人教師」のご挨拶をさせていただいたときの雰囲気は、「はじめまして」というよりは「ただいま帰りました」「お帰りなさい」というもので、なんとも複雑な心境であったことを正直に告白しておきます。

さて、今日は貴教会が毎月1度(第4週)に行っておられる「伝道礼拝」とのことで、教会訪問をさせていただいた高校生たちにも案内はがきをお送りいただいたとのこと、ありがとうございます。高校生には私からも、ぜひ続けて千葉北総教会の礼拝に出席するようにと、勧めさせていただきます。

今日の聖書の箇所は新約聖書のフィリピの信徒への手紙1章15節から20節までです。この箇所に書かれていることは「伝道礼拝」という場にふさわしくない内容かもしれませんが、あえて選ばせていただきました。

なぜふさわしくないかもしれないと思うかといえば、「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいる」(15節)というようなことが、書かれているからです。ショックを受ける方がおられるかもしれません。「ねたみ」や「争い」というのは、人間の心の中の最もネガティヴで醜い感情だからです。

この感情を抱いているときのわたしたちは、表情までおかしくなっています。はたから見て分かる。心の奥底に隠し通すことが難しい、とても厄介な感情です。そのような最もネガティヴで醜い感情を抱き、しかもそれが「動機」であるというような仕方で「キリストを宣べ伝える」人がいるということが鋭く指摘されているのがこの箇所です。

それは明らかに不健全で「不純な動機」(17節)です。そうでない人もいるということも書かれていますが、やはり気になるのは、だんぜん不健全な人のほうです。健全な人のことは、あまり気になりません。

しかし「キリストを宣べ伝えること」は、明らかに健全な行為として言われていることです。この手紙を書いた使徒パウロが、自分の人生を賭けて、まさに命がけで、全力で取り組んできたことです。不健全なことに自分の命を献げる人はいないとは言えません。それはとても恐ろしいことです。

しかし、「キリストを宣べ伝えること」は、不健全な行為ではありません。人生に行き詰まりを感じている人、悩みを抱え、助けを求めている人に真の救い主イエス・キリストの存在を知らせ、この方に依り頼んで生きることの意味を教え、その喜びと安心の中で生きる人々の人生に現実に寄り添うことです。それが不健全なことであるはずはありません。

しかし、その健全な行為をする人の中に、ねたみや争いというような不健全な動機を持っている人がいると言い切られているのですから、穏やかではありません。そういう人が何人か混ざっているが、ほとんどの人はそうでないという意味かどうかは分かりません。指摘されているのは、そういう人がいる、現実に存在する、ということだけです。

しかし、そのことを指摘したうえでパウロは、それがどうしたと言っています。「動機」など問題ではないと言っています。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知されているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(18節)。

この箇所の論点とは食い違うことかもしれませんが、「動機を問題にすること」については、わたしたちの身に覚えがあることがあるのではないかと思います。

たとえばキリスト教学校の生徒たちが教会訪問をさせていただくことです。もし彼らに「動機」を問うなら、「学校が行けと言ったから」「成績や卒業や進学に関係するから」と答えるでしょう。

しかし、教会はどうでしょうか。そういう「動機」を不純とみなして、彼らを教会から締め出すでしょうか。そんなことをしていいでしょうか。

今日の箇所に書かれていることとそれは話が全く違うと思われるかもしれません。パウロが書いているのは「教会に来る人の動機」ではなく「キリストを宣べ伝える人の動機」である。教会に来る人にはそれぞれ複雑な事情がある。人に言えない動機を抱えてくるのは当然である。しかしキリストを宣べ伝える人ともあろう存在が不健全で不純な動機を持っているようでは困る。そういう人間は徹底的に排除すべきである、と思われるかもしれません。

しかし、この箇所にパウロが書いているのは、そちらのほうです。「キリストを宣べ伝える人の動機」のほうです。それがたとえ不純なものであっても、「それがなんであろう」、何の問題もないと言っています。

そのようにパウロ自身が書いているわけではありませんが、人が心に抱く「動機」など毎日変わるものだと彼自身も考えている可能性があります。「ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます」(15節)というのも、二種類の人がいるという話ではなく、同じひとりの人の中で日々変動する心の状態を言っているのかもしれません。

わたしたちの身に覚えがないでしょうか。「若いころは、もっと純粋だった。でも、だんだん変わってきた。教会に行くたびに、あの人が出世した、あの人の子どもさんが立派な学校に入った、あの人は幸せそうだ、というようなことばかり気になる。私はちっとも変わらないし、嫌なことばかり。ああ悔しい、今に見ておれ」。

そういう「ねたみ」や「争い」の感情にとらわれて教会の中で競争心を燃やすようになれば、パウロがその存在を鋭く指摘している「不純な動機の伝道者」と大差ありません。しかし、パウロは「動機は問題ではない」と言ってくれています。「キリストを宣べ伝える動機」が問題でないなら、「教会に通う動機」はもっと問題ではありません。

再び学校の話をさせていただきます。日本のキリスト教学校には「キリスト者推薦入試制度」があります。その中に「洗礼を受けていること」を推薦条件に挙げている学校があります。高校生にとって大学入試は人生の一大事です。わらをもすがる思いです。その中で「推薦を受けるために洗礼を受けたい」という動機を抱く生徒が現われるかもしれません。

しかし、教会はどうでしょうか。「そんな不純な動機では困る」と断り、門前払いするでしょうか。そもそもそれは「不純な動機」でしょうか。大学入試は人生の一大事なのです。

みなさんにお考えいただきたいのは、もしそういう高校生がパウロ牧師のもとを訪ねて自分の願いを打ち明けたとき、どのように答えてくれるでしょうかということです。

「動機が不純な人間は教会に来るな」と言うでしょうか。言わないのではないでしょうか。「キリストを宣べ伝える動機」でさえ「そんなことは問題ではない」と言ってくれるパウロ牧師です。「全く問題ない。きみの人生だ。ぜひ洗礼を受けなさい」と言ってくれるのではないでしょうか。

「動機」は毎日変わります。人の心は移ろいやすい。昨日考えていたことと、今日考えていることと、明日考えるであろうことは全く違います。就職でも、あるいは結婚でも、最初の動機と今の動機は同じでしょうか、そんなことはありえない。

今日の聖書の箇所の主旨から遠く離れてしまっているかもしれません。しかし、今日私がお伝えしたいと最も願ったのは、今申し上げていることです。

パウロが「動機は問題ではない」とする理由が書かれています。「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(19~20節)。

どうしてこれが理由になるのかを説明するのは難しいことです。かろうじて分かるのは、キリストが宣べ伝えられていることがとにかく大事であるということだけです。それが「わたしの救い」になるとパウロが言っていますが、彼自身の自己満足を言いたいのではありません。

「わたしの身によって」とは、どんな動機であれ、教会の伝道活動が続けられていることが分かればそれで救われた思いになるパウロの身によって、です。この私を見て、私と共にキリストを信じ、礼拝する人々が増えていきますように、というパウロの祈りがここにあります。

パウロの祈りを裏書きしている彼の信仰は、突き詰めて言えば、教会の伝道活動は日々変動する人間の思いや動機に左右されるものではない、ということです。

人の思いではなく、神の思い、神の御心、神のご計画によるものだ、ということです。

人の思いを超えて働く神は、人の心の奥底に潜む「不純な動機」さえお用いになって、助けを求める人に救いの言葉を届け、救うために全力を尽くしてくださる方である、ということです。

もし「動機」を問われるなら、今日の説教者である私の心が純粋かどうかも問われることになりますが、さて、どうでしょう。笑ってごまかさなくてはならない面がないかどうか。あまり深く追及しないでください。私も誰のことも追い詰めません。「動機」は問いません。すべては神がご存じです。

千葉北総教会のみなさんのため、大串先生ご一家のために、これからもお祈りさせていただきます。私のため、また高校生たちのために、どうかお祈りください。よろしくお願いいたします。

(2016年8月28日、日本基督教団千葉北総教会伝道礼拝)