2016年8月17日水曜日

「分かりやすい説教」の落とし穴

この角度はジャンプ台のようだ
出るかレジェンドの新記録
意図的といえば意図的であるが、私の説教へのほめ言葉として「ギリシア語も神学用語も専門用語も出てこない(ので良い)」というのがある。ほめていただけるのはうれしいことだが、そのように言ってくださる方がこれまで聴いてこられた説教はどういうのだったのだろうと、やや心配になる場面でもある。

たしかに私はそういう言葉を意図的に避けている。いばるわけではないが、そういう知識がないわけではない。しかし説教を専門用語で埋め尽くしてどうするという思いが強くある。英語を全く知らない人に英英辞典を読めと言っているのと大差ないではないか。それを読むための辞典がさらに必要ではないか。

もちろん、専門用語を用いる以外に事柄に即して「正確に」語るすべが無い場合はあるし、少なくない。だれが言ったか「神」は「神」以外の概念で正確に説明できそうにない。例の「存在の類比」(analogia entis)を用いて「神」は「エンペラー」のような存在だとやるとファシズムになる。

「とにかく分かりやすくあれ」という考えは危険な面をもつ。それはティリッヒが「神は霊なり」はGod is MindともGod is intellectとも訳せないし、ヘーゲルの精神現象学はPhenomenology of the Mindとは訳されなかったと言っていることに通じる。

しかしそのことと、説教原稿をギリシア語と神学用語と専門用語で埋め尽くすのを是とすることとを我々は区別しなくてはならないということは直感的には分かる。後者は端的に怠慢を意味する。説教の本来の目的であるギャップの橋渡し(Bridging the Gaps)を怠っている。あるいは衒学。

説教における衒学の問題は、これはこれで深刻で厄介ではある。需要と供給のバランスがとれている場合すらあるし少なくない。知的好奇心が常に刺激されるようでないかぎり食指が動かないタイプの人はいるので、そのニードを満たすには衒学系説教は有効である。平易な説教は聴くに値しないというわけだ。

するともしかして理想的な説教とは、ギリシア語と神学用語と専門用語で埋め尽くされているようでないが、「神」が「神」以外の概念に置き換えられていない点で事柄に即して「正確」であり、かつギャップの橋渡し(Bridging the Gaps)に果敢に取り組んでいるようなそれかもしれない。

しかし説教において最も難しいのは、ギャップの橋渡し(Bridging the Gaps)をどうするかだ。「救い主が人の身代わりに犠牲として死したこと」を今の人に「分かりやすく」説明する。たとえば「それは我々が救い主を見習って人の身代わりに犠牲として死すべきことを意味する」とやる。

あるいはそうでなく、「それは、我々の身代わりに犠牲として死した救い主とまるで同じような姿で我々の身代わりに犠牲として死した人々を、我々の救い主を我々が礼拝するのと同じような思いで崇敬することを意味する」などとやる。これでもうほぼ論理的に分かりにくくなっているが、分かる人は分かる。

私は今、それでいいのか?(いいわけがない!)と強い疑問符をつけたいがために書いている。ならばお前に別の解決策があるのかと問われても、まだその十分な答えがないままであるが、内心にわいてくるのはやや憤りに近いほどの拒絶感だ。いずれにせよ人の犠牲死への美化が起こっていると思えるからだ。

というあたりまでを深夜から未明にかけて、書斎の座椅子にすわったまま何度も寝落ちながら考えていた。その先が続かないのだが。何も見えていないわけではない。字にすることに心理的抵抗が起こり、いつもそこで止まってしまうという意味で。眼前の厚い壁に行く手を阻まれていると感じるという意味で。