2016年8月7日日曜日

「内向け」の話し方と「外向け」の話し方

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私が過去に居住し、「教会担任教師」(伝道師、牧師)として働いたのは4箇所。高知県、福岡県、山梨県、千葉県。最初の高知県では親である教会(南国市)が子である伝道所(高知市。後の教会)を生み出す「開拓伝道」に従事したので厳密にいえば高知県内の2箇所(南国市、高知市)で計6年間働いた。 

第二の福岡県(北九州市)の教会ではわずか10ヶ月しか働かなかったので、客観的な記録としてはカウントできるとしても、自分の自覚としても、おそらくその教会の方々の感覚としても、「教会担任教師」としての責任ある働きができたとはとても言いがたい。申し訳ないことをしたと、今でも思っている。

第三の山梨県も「1箇所」としてカウントすべきかどうかで悩む要素がある。着任時は甲府市にあった教会が、7ヶ月後に甲府市の西隣の中巨摩郡敷島町(現在の甲斐市)に転居したからだ。転居と同時に教会名称を変更した。本質的には同一の教会だが、すべてが刷新された。山梨県では計5年9ヶ月働いた。

そして現時点では最後の第四の千葉県(松戸市)の教会では、過去最長の11年9ヶ月働いた。高知県6年+福岡県10ヶ月+山梨県5年9ヶ月+千葉県11年9ヶ月を足しても24年4ヶ月にしかならないが、福岡県と山梨県の間に1年半の神戸滞在がある。後からとってつけた言い方をすれば「国内留学」。

それとは別にカウントを難しくする要素がある。日本基督教団の場合、按手礼を受けていない教師を「補教師」、受けている教師を「正教師」と区別するが、「補教師」は「教師」であるという認識は教団内では一致している。しかし、按手礼を受けていない人は「教師」でないとする考えも教団の外にはある。

その立場の人々からすれば、私が日本基督教団の「補教師」(未按手教師)だった期間を「牧師」として働いた期間としてカウントすることには違和感があるだろう。私はどちらでもいいのだが。しかし、「伝道師」が「教会担任教師」(教会で働く教師)であることは、日本基督教団においては確実な認識だ。

どうして私が今こんなことを書いているのかといえば、私が最近よくネットでもリアルでも「25歳で牧師になって25年間教会で働いて現在50歳です」というような自己紹介をしているのは、話を一般向けに分かりやすくしているだけのことで、なんら厳密な話ではないと釈明する必要を感じているからだ。

「25歳で牧師になった」というのも実は厳密な言い方ではない。1965年11月生まれの私は「日本基督教団補教師」としての准允を受けた1990年4月は24歳だった。それを25歳だ25歳だと言っているのは、さばを読んでいるわけではなく、これまた一般向けに話を単純化しているだけのことだ。

自分の過去の経歴についてどうのこうの言いたいわけではない。経歴詐称をしているつもりもない(そんなことする必然性がない)。むしろ逆。「これまでナニしてきたんですか」という質問を受ける機会が増えたので、ごく大雑把に説明するために「25歳+25年=50歳」という方便を使っているだけだ。

「内向け」の話し方と「外向け」の話し方を変えてはいけないだろうか。「伝道師」と「牧師」の違いも、「補教師」と「正教師」の違いも、「准允」と「按手」の違いも、「伝道所」と「教会」の違いも、外部の方々はご存じないし、おそらく興味もない。外向けに話を分かりやすくすることは詐称ではない。