2016年8月15日月曜日

世界の中心で「学問とは何か」をさけぶ(セカチュー)

長い長い暗闇のトンネル
私の夏休み5日目。といっても昨日は教会の礼拝で説教させていただきましたので、原稿作成と演述(私は馴染めない言葉づかいです)に費やした時間は休みなのかどうなのか。それはまあいいや。今日は自分の寝具(毛布など)の洗濯をしています。家事に費やす時間は休みなのかどうか。それもまあいいや。

批判は学問にとって大事だと思うが、あまりにも限られた少人数の集団の中でそれをするとすぐ騒ぎになるし、どれほど匿名性を確保しようとしても各方面の責任者や興味本位の人が特定作業を開始するし、通報義務があるかのように本人や「主だった人たち」に伝える。別件で尋問され生活基盤を剥奪される。

めったに名指しで人を批判しないのは、遠慮しているのでも恐れているのでもない。日本の思想風土がそうだとまで言ってよいかどうか分からないが、人格(persona)とわざ(opera)の区別が十分認識されていないところで批判を行うと、まるで人格攻撃をしているかのように誤解されるからだ。

書かずもがなではあるが、「○○氏の考えは間違っている」は「○○氏批判」ではなく「の考え批判」なのである。この区別を十分にしてもらえない思想風土の中で、批判活動は難しい。早い話、○○氏にその考えを改めてもらいたいと言いたいだけであって、○○氏の存在を否定しているのでもなんでもない。

まあただ全く分からないわけでもない。学問というのは長い長い暗闇のトンネルの中で孤独を味わい、そのトンネルをやっと抜けても待ち受けているのは無理難題ばかりで、自分のあとに残せる新しい認識はわずか。批判なんかされた日には人格否定されたときと同然の激憤を覚えることになるのかもしれない。

でも、なんていうか、それに耐えてこその学問だろ、とも思う。その意味では本当はもっと名指しで、または本人を前にして批判してあげるほうがいいのかもしれない。「この集団をだめにしたのはあなたの思想ですよ」と。そろそろそういう時期が来ているのかもしれない。心して準備しなくちゃ。勉強勉強。

でも今日はまもなくお出かけ。やっと夏休みらしいことを(おいそれ何度言った)。一人を除く全員が歳上なので「旧友」と言ってよいかどうか微妙だが、そういうところ。「懐かしい」かどうかも微妙。すべて微妙。「来るな」と思われていそうだけど行く。家族には「終電までには帰ります」と伝えてある。