2016年8月27日土曜日

「ナニ閥」でもない面々が集まるからこそ各自一生懸命考える

千葉県道4号(千葉竜ヶ崎線)にて
そう。ひとつ自分の悪いくせに気づく。「○○を~~と理解できない人は相手にしない」ということがなかなかできない。「これこれな人は相手にしない」ということが。基本どんな人も相手にしてしまう。これが良くないのだろう。「これこれな人を相手にして」良い結果になったためしはない。でもそれが。

「学閥」という字の読み方を忘れそうになるほど(これはウソ)そういうのと無縁の半生を送ってきたが(これは事実)、そういうのから自由に生きていくには、とにかく自分で勉強し、自分の頭で考えることをやめないでいるしかない。最初の色が抜けないなら、自分で別のところに動いて混ぜちゃえばいい。

考えてみれば、幸か不幸かこれまで私に影響を及ぼしてきた教師たち(とくに学校と教会の教師たち)は、いろいろ混ざっている人ばかりだった。その人たちの中ですでに混ざっていて、その混ざっている複数の人たちから学ぶ私の中でもっと混ざる。純血とか正統とかそれが何なのか全く分からなくなるほど。

それがかつては嫌だった。他人を嫌がったわけではない。カオスの中で耐えられるほどの自分を持ちえていないと感じるその自分が嫌だった。自分の身に余ろうと「サウルの鎧」を手に入れるほうがましだと思った。自分を守るためだったのかと言われればそのとおり。自分以外のだれが自分を守ってくれたか。

まあ、今書いたことは掘り始めると長くなるので置いておこう。すでにその人たちの中でいろいろ混ざっている複数の人たちに教えられてきた以上、私の中でもっと混ざるのは当然だ。人のせいにしたいのではない。学閥フリーな生き方を求めている方がおられるなら何かの参考になるのではないかと思うだけだ。

「ナニ閥」から意図的に外れるような生き方を選べば、自分の人事や将来に不安が生じるのは避けられない、かもしれない。でも、「ナニ閥」で生きている「先生」職の人ほどつまらない存在はいない。自分の頭で考えていないことがありあり伝わってくるようなことを舌先三寸ですらすら言えてしまっている。

いま書いていることに結論なんかは初めから無いので、突然終わっても問題はない。ただ、「ナニ閥」にも属さないことを苦にしている方々への希望のメッセージになればと願ってはいる。面白い人は周囲が放っておかない(たぶん)。真に面白ければ。グレートな人の茶坊主は面白くない。見るからにイタイ。

心底幸いなことだが、勤務校の聖書科(宗教科)の先生がたが基本みんな混ざっている。マザリン(というカシスリキュールがあるそうで)と呼ばせてもらいたいくらいの混ざり具合なのが素晴らしい。「ナニ閥」でもない面々が集まるからこそ各自一生懸命考える。「頭を使わない先生」なんて概念矛盾だよ。